第5話 死は、形を変えてやってくる
ネオン街の風が、少しだけ止まった気がした。
さっきまで肌にまとわりついていた夜のぬるさが、不意に途切れる。看板の明かりだけが濡れたように揺れて、赤や青の光をアスファルトに滲ませていた。
玲の頬には、まだ千春の唇の感触が残っている。
ほんの一瞬、触れただけだった。
けれど、その温度だけが妙にはっきりしていて、耳の奥で鳴った鈴の音と重なって、胸の内側を小さく震わせていた。
チリン。
その音が消えた直後、世界が揺れた。
ネオンの輪郭が歪む。通り過ぎる人影が、薄いガラス越しに見ているみたいにぼやける。玲は思わず足元を見た。地面はちゃんとそこにある。それなのに、体だけが一拍遅れて現実に追いついたような感覚があった。
千春は、その場で立ち尽くしていた。
ドレスの胸元を押さえる手が、細かく震えている。
「……玲くん」
声も震えていた。
さっきまで冗談めかして笑っていた顔から、血の気が引いている。けれど、その目だけは玲をまっすぐ見ていた。
「今……変な感じ、しなかった?」
玲は頷いた。
「ああ、した」
自分の声が、思っていたより硬い。
千春はゆっくりと額を押さえた。何かを思い出そうとしているように、眉間にわずかなしわが寄る。
「誰かの顔が浮かんだの」
「誰か?」
「女の子」
千春は目を伏せた。
ネオンの光が、長いまつ毛の影を頬に落とす。
「すごく優しい笑顔だった。泣きそうなのに、無理して笑ってるみたいな」
玲の胸が、強く鳴った。
その表現を、体が先に知っていた。
雨。
赤い光。
細い手首。
鈴の音。
知らないはずの断片が、頭の奥で火花みたいに散る。
「……名前は」
尋ねる声が、喉に引っかかった。
千春はしばらく黙っていた。通りのざわめきが、遠くで水に沈んでいくみたいにぼやける。
やがて、彼女は小さく言った。
「千咲」
息が止まった。
「どうして、それを……?」
「分かんない」
千春は困ったように笑おうとした。けれど、うまく笑えていなかった。
「でも、すごく大切な子。忘れちゃいけない子だった気がする」
玲は何も言えなかった。
千咲。
その名前が胸の内側で鳴るたび、顔のない記憶が揺れる。確かに知っているはずなのに、肝心な部分だけ白く塗りつぶされている。
千春が玲を見る。
「玲くん、この世界、おかしいよ」
その声は妙に静かだった。
叫ぶでも、取り乱すでもない。ただ、見えてしまったものをそのまま口にしただけの声だった。
玲は黙った。
否定する言葉は、もうどこにもなかった。
千春は少しだけ苦笑する。
「普通さ、キスした瞬間に別の女の子を思い出す?」
玲は一瞬だけ言葉に詰まった。
それから、息を吐くように笑った。
「確かに」
「最悪のタイミングだよね」
「悪い」
「謝るところなんだ」
千春が小さく笑った。
その笑い声で、張り詰めていた空気が少しだけ緩む。けれど、次に彼女が息を吸ったとき、その表情はまた真剣なものに戻っていた。
「でも」
千春は自分の胸元に手を置いた。
「なんとなく分かる。その子が、大切な子だってこと」
玲は拳を握った。
「千春姉ちゃん」
「私、死ぬんだよね」
声が止まった。
街の音が遠のく。
玲はすぐには答えられなかった。千春の目は、逃げることを許してくれない目だった。優しいのに、まっすぐで。昔から、彼女はそうだった。
「……ああ」
ようやく、それだけ言った。
千春は頷いた。
「やっぱり。でも……」
少しだけ笑う。
「怖くはないよ」
「え?」
「玲くんが助けてくれるんでしょ?」
玲は言葉を失った。
千春は少し照れたように視線を逸らす。
「昔からそうだったもん」
「俺が?」
「うん。泣きそうなのに強がって、でも最後は絶対に誰かの前に立つの」
「覚えてないな」
「覚えてないところも、昔から同じ」
そう言って、千春は息を整えた。
そして、もう一度玲を見る。
「だから、協力する」
「何を?」
「ループ」
玲の目が見開く。
「分かるのか?」
「はっきりじゃないよ」
千春は空を見上げた。駅前のビルに切り取られた狭い夜空には、星ひとつ見えない。ただ、看板の光だけが薄く滲んでいる。
「でも、この世界、何回も同じところをなぞってる感じがする。紙を何度も折ったみたいに、同じ場所に線が重なってる」
そして、玲を見る。
「でも、助けてくれるんでしょ?」
玲は頷いた。
「ああ。そのためにここに来た」
千春が笑う。
「なら、まず原因を探そうよ」
一時間後。
千冬の研究室は、夜の大学の中でそこだけ冷たく光っていた。
白い蛍光灯。薬品棚のガラス。机の上に積まれた資料と、ケーブルで繋がれたいくつもの機械。換気扇の低い音が、ずっと耳の奥で鳴っている。
玲と千春は、並んで椅子に座っていた。
千春は落ち着いているように見えた。けれど、膝の上で組んだ指が、ときどき強く握られる。
千冬はタブレットを操作していた。紫縁の眼鏡に、画面の光が反射している。
「確認します。時間残響の形状に変化が見られました」
画面には、幾重にも重なった波形のような線が表示されていた。その一部だけが、淡く色を変えている。
「ループの終了条件が、一部達成されています」
千春が手を上げた。
「それって、もしかしてキス?」
千冬は一秒も迷わず答えた。
「その可能性が高いです」
玲は頭を掻いた。
「マジでゲームだな」
千冬は真面目な顔で言う。
「恋愛イベントです」
千春が吹き出した。
「なにそれ」
「観測上、最も近い表現です」
千冬はそのまま画面を切り替えた。
SPRING LOOP
CLEAR CONDITION
NOT COMPLETE
「ただし、まだ終わっていません」
玲の背筋が伸びる。
「どういうことだ」
「終了条件は完全には満たされていません」
「まだ何かが足りない?」
「はい」
千冬は視線を落とす。
「死亡イベントが残っています」
研究室の空気が、わずかに沈んだ。
千春が静かに言う。
「あの男……」
玲は頷いた。
「それと、暴走車」
千春はしばらく黙っていた。
それから、椅子から立ち上がる。
「じゃあ簡単」
玲と千冬を見る。
「そこに行かなきゃいい」
あまりにも単純な答えだった。
けれど、まだ試していない答えでもあった。
夜。
玲たちは繁華街を離れていた。
駅裏の公園。
昼間なら子どもが遊んでいそうな小さな場所だった。けれど夜の公園は、街灯がぽつぽつと地面を照らすだけで、人影はほとんどない。
ブランコが風に揺れて、金具がかすかに鳴っている。砂場は暗く沈み、植え込みの奥から湿った土の匂いがした。
千春はベンチに腰を下ろし、息を吐いた。
「ここなら安全ね」
玲も周囲を見回して頷く。
「ああ」
車道からは離れている。
あの男もいない。
人通りも少ない。
少なくとも、昨日の場所とは違う。
千冬はタブレットを見ていた。
「前回、暴走車が発生した時刻まで、あと三分です」
その言葉で、玲の体が硬くなる。
千春はそれに気づいたのか、わざと明るく言った。
「じゃあ、三分じっとしてれば勝ち?」
「ゲームならな」
「さっきゲームみたいって言ったの玲くんでしょ」
玲は少しだけ笑った。
けれど、胸の奥のざわつきは消えない。
二分。
一分。
公園の空気は静かだった。
静かすぎた。
玲は自分の呼吸の音を聞いていた。吸って、吐く。そのたびに、昨夜のクラクションが記憶の奥で蘇る。
その瞬間。
遠くで、クラクションが鳴った。
玲と千冬が同時に顔を上げる。
音が違う。
近づいてくる音ではない。
もっと遠い。
別の道路。
それでも、胸の奥を直接引っ掻くような嫌な音だった。
「……もしかして」
千春が呟く。
玲はもう走り出していた。
公園を抜け、細い路地を曲がる。夜の空気が肺に刺さる。足音がアスファルトに跳ねる。
角を曲がった先で、玲は立ち止まった。
道路。
暴走車。
割れたヘッドライト。
煙を上げるボンネット。
電柱に突っ込んだ車の前で、誰かが倒れている。
千春ではなかった。
見知らぬ人だった。
買い物袋が破れ、オレンジが道路に転がっている。血の匂いが、夜風に混ざって届いた。
玲の胃が縮む。
「……なんだよ、これ」
遅れて、千冬が隣に立った。
彼女は倒れている人から目を離さないまま、呟いた。
「……因果移動」
玲は振り向く。
「なんだよ、それ」
千冬はタブレットを握る指に力を込めた。
「まだ死は消えていません。移動しただけです」
「移動……?」
「固定されているのは、死因ではありません」
千冬の声が、夜の中で冷たく通る。
「結果です」
玲の喉が、音を失った。
ナイフを止めても。
車を避けても。
場所を変えても。
死そのものが、別の誰かへ流れていく。
千春が遅れて追いついた。
ヒールの音が不規則に近づいてくる。
「玲くん、千冬ちゃん!」
千春は道路を見た。
そして、言葉をなくした。
倒れている人。
血。
壊れた車。
その全部を見たあと、千春は自分の胸元を掴んだ。
「……私じゃない」
玲は歯を食いしばった。
千冬が静かに続ける。
「千春姉さんが死なない代わりに、死亡イベントは別の対象へ移動しました」
「ふざけんな」
玲の声は低かった。
低すぎて、自分の声じゃないみたいだった。
千冬は否定しない。
「現時点では、千春姉さんの死亡確率は下がっています。ですが、死亡イベントそのものは残存しています」
千春の顔色が、目に見えて変わった。
「じゃあ、私が逃げたから……」
「違う」
玲はすぐに言った。
「千春姉ちゃんのせいじゃない」
「でも」
「違う」
もう一度、強く言う。
けれど、その言葉は自分の中で跳ね返った。
本当にそうか。
千春を助けようとした結果、見知らぬ誰かが倒れている。
自分の選択が、誰かの死を押し出した。
そう考えた瞬間、指先が冷たくなった。
救急車のサイレンが遠くから近づいてくる。
赤い光が、ビルの窓に反射した。
雨の夜。
千咲。
ネオン街。
千春。
そして、今。
赤い光はいつも、何かを奪う前触れみたいに目に焼きつく。
玲は拳を握った。
「……つまり」
声が掠れる。
「俺たちは、まだ何も終わらせてないってことか」
千冬は頷いた。
「はい」
そして、静かに告げる。
「千春の死は、まだ残っています」




