第4話 キスで、記憶が戻った
四月十四日。
三回目の朝だった。
目を開けた瞬間、玲は叫ばなかった。
白い天井。
見慣れた照明。
カーテンの隙間から差し込む、薄い朝の光。
同じ部屋。
同じ空気。
同じ日付。
スマホの画面を見なくても分かる。
今日は、また四月十四日だ。
玲はベッドの上で小さく息を吐いた。
「……三回目か」
一度目は、何も分からないまま千春を失った。
二度目は、助けたつもりで奪い返された。
そして三度目。
胸の奥に残っていた熱は、怒りなのか、悔しさなのか、もううまく分からない。
ただ、手のひらにはまだ感触があった。
千春の血の熱さ。
指の間から逃げていく命の重さ。
忘れようとしても、皮膚の下に染み込んでいる。
「確認します」
部屋の隅で、千冬が淡々と言った。
相変わらず、感情の温度が低い声だった。
「あなたにとって、四月十四日は三回目ですね」
玲は苦笑した。
笑ったつもりだった。
けれど、喉の奥がひきつっただけだった。
「ああ。三回目だ」
千冬の眉が、わずかに動く。
「……記録更新です」
「なんの記録だよ」
「この春に残った時間残響の記録です」
千冬はタブレットを見せた。
画面には、見慣れない文字と、三つ並んだ波形が表示されている。
TEMPORAL ECHO
SPRING LOOP
Layer 3
冷たい画面の光が、千冬の眼鏡に反射していた。
「三度、同じ日が繰り返されています」
「それで?」
「因果が固定され始めています」
玲は息を吐いた。
前回の夜が、まぶたの裏に蘇る。
ナイフを止めた。
男を押さえつけた。
千春は助かったはずだった。
その直後、クラクションが鳴った。
「前回は、ちゃんと助けた」
声が低くなる。
「男のナイフは止めた。千春姉ちゃんは刺されなかった」
「はい」
「でも、車が突っ込んできた」
「世界が、別の経路を選んだのでしょう」
千冬の言葉は冷たかった。
刃物みたいに正確で、だから余計に腹が立つ。
「千堂千春が死ぬという結果だけが、残った」
玲は拳を握った。
爪が手のひらに食い込む。
「なら、原因を変えるだけじゃ駄目ってことか」
「はい」
「じゃあ、何を変えればいい」
千冬は少しだけ沈黙した。
いつものように即答しない。
それが、答えの難しさを示しているようだった。
「現象には、必ず維持条件があります」
「維持条件?」
「千春が死ぬ理由ではなく、千春が死ななければならない理由です」
玲は眉をひそめる。
「何だよ、それ」
「分かりません」
「おい」
「ただし、推測はできます」
千冬はタブレットを閉じた。
ぱたん、という小さな音が部屋に落ちる。
「千堂千春の死は、結果ではなく鍵になっている可能性があります」
「鍵?」
「この春を維持するための」
背中に、冷たいものが走った。
窓の外では、何も知らない鳥が鳴いている。
いつも通りの朝。
いつも通りの光。
それなのに、部屋の空気だけが少しずつ薄くなっていく気がした。
「つまり、千春姉ちゃんを救うには」
玲は言った。
「死ぬ原因じゃなくて、死ななきゃいけない理由を見つけろってことか」
「はい」
「分かった」
玲は立ち上がった。
「今日は、千春姉ちゃんに会う」
「接触するのですね」
「事件が起きる前に」
玲は窓の外を見た。
春の光が、やけに白い。
「今度は、千春姉ちゃん自身から聞く」
十八時。
玲は駅前の繁華街に立っていた。
夜にはまだ早い時間だった。
看板の光はつき始めたばかりで、通りの空気もどこか薄い。
昼の名残と夜の匂いが、まだ混ざりきっていない。
シャッターの前で煙草を吸う男。
店先に花を並べる女。
路地の奥から漂ってくる香水と酒の匂い。
昨日までとは違う時間の街は、同じ場所なのに少しだけ知らない顔をしていた。
千春が出勤する前に来た。
あの男が現れるより前。
ナイフも、暴走車も、クラクションもない時間。
ここなら、まだ何かを変えられる気がした。
数十分後。
「……え、もしかして玲くん?」
振り向くと、千春が立っていた。
巻いた髪。
夜の光を受けるピアス。
体の線が出るドレスの上に、薄いコートを羽織っている。
まだ店に入る前だからか、化粧は昨日より柔らかく見えた。
驚いた顔をしたあと、千春はぱっと笑った。
「え、どうしたの? 久しぶりだね!」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ緩んだ。
生きている。
笑っている。
それだけで、喉が詰まりそうになる。
玲は無理に笑った。
「会いに来た」
千春は目を丸くする。
それから、楽しそうに笑った。
「なにそれ。ナンパ?」
「そんな感じ」
「大学生になったばっかりなのに、大胆になったねえ」
千春は軽く肘で玲の腕をつついた。
その何気ない仕草が、子どもの頃の距離感に戻ったみたいで、胸の奥がちくりとした。
「ていうか、なんで私がここにいるって分かったの?」
玲は答えられなかった。
言えば、きっと全部がおかしくなる。
今日あなたは死ぬ。
俺はそれを二度見た。
そんなことを言って、千春が信じるはずもない。
「千春姉ちゃん」
声が自然と真剣になる。
「ん?」
「今日は帰ろう」
千春が首を傾げた。
「え、え? なんで?」
「頼む」
「玲くん?」
「店には行かないでほしい」
千春の笑顔が、少しだけ薄くなった。
風が吹く。
彼女の髪が頬にかかる。
千春はそれを指先で払った。
「何かあった?」
「……嫌な予感がする」
「それだけ?」
「それだけじゃない」
言葉を探す。
喉の奥が乾く。
大切だから。
死なせたくないから。
二度も失ったから。
けれど、そのどれも口にできなかった。
代わりに出たのは、ひどく単純な言葉だった。
「千春姉ちゃんは、俺の大事な人だから」
千春は黙った。
さっきまでの笑い声が、通りの喧騒に溶けていく。
やがて、千春は小さく笑った。
「玲くんって、昔からそういうところあるよね」
「そういうところ?」
「まっすぐすぎて、たまに困るところ」
千春が少し近づく。
甘い香水の匂いがした。
けれど今日は、その奥に石鹸みたいな匂いも混ざっている。
夜の店の千春ではなく、屋敷の庭にいた頃の千春が、ほんの少しだけ残っているような気がした。
「でも、嬉しい」
「……何が」
「心配してくれるの」
千春の声は、さっきより少し柔らかかった。
「昔から優しかったもんね、玲くんは」
「俺が?」
「うん」
千春は目を細めた。
遠いものを見るような顔だった。
「覚えてる? 子どもの頃、よく一緒に遊んだでしょ」
「覚えてるよ」
玲は頷いた。
「俺がいじめられてたとき、千春姉ちゃんが助けてくれた」
「そうそう。玲くん、泣きそうなのに我慢しててさ」
「泣いてない」
「泣いてたよ」
「泣いてない」
千春はくすっと笑った。
その笑い方を、玲は覚えていた。
屋敷の庭。
夕方の光。
膝についた土を払ってくれた手。
あの頃の千春は、いつも少しだけ大人で、少しだけ遠かった。
「私ね」
千春が言った。
「玲くんのこと、けっこう特別だったんだよ」
「……特別?」
「うん」
千春は冗談めかして笑った。
でも、視線は逸らさなかった。
「弟みたいで、弟じゃなくて。放っておけなくて、でも少し眩しかった」
胸の奥が、跳ねた。
通りの音が、少し遠のく。
「それって」
「さあ、なんでしょう」
千春はわざとらしく肩をすくめる。
いつもの軽さ。
でも、その耳がほんの少し赤い。
「今も?」
聞いたのは、ほとんど反射だった。
千春は目を丸くした。
それから、困ったように笑う。
「大学生になって、そういうこと聞けるようになったんだ」
「いや、今のは」
「今も、だよ」
言葉が止まった。
ネオンが一つ、音もなく灯る。
その光が、千春の瞳に小さく映った。
「今も、玲くんは特別」
チリン。
頭の奥で、鈴が鳴った。
小さく。
けれど、はっきりと。
玲は息を止めた。
何かが、繋がりかけている。
千冬の言葉。
千春の死。
繰り返す四月十四日。
そして、知らないはずの名前。
千咲。
千春が、玲の顔を覗き込んだ。
「玲くん?」
「今、何か」
「え?」
「鈴の音が」
千春の表情が、わずかに変わった。
「鈴……?」
その声が、震えていた。
今度は玲が千春を見る番だった。
「千春姉ちゃん?」
千春は自分の胸元に手を当てる。
ドレスの布を握る指が、細かく震えていた。
「変だな」
千春は笑おうとした。
でも、うまく笑えていなかった。
「私も、聞こえた気がした」
風が止まる。
通りの喧騒が遠ざかる。
ネオンの輪郭が、少しだけ滲む。
千春が一歩、玲に近づいた。
「ねえ、玲くん」
「何」
「もし私が、今、変なことしたら怒る?」
「変なこと?」
千春は答えず、手を伸ばした。
昔みたいに。
泣きそうなのを我慢していた子どもの玲に、そうしてくれたみたいに。
彼女の指先が、玲の頬に触れる。
冷たい。
いや、冷たいのは俺の頬だった。
いや、冷たいのは俺の頬だった。
千春の手は、春の夕方みたいに温かかった。
「……昔も、こうしたよね」
千春が小さく言った。
「玲くんが泣きそうな顔をしてると、つい」
「泣いてないって」
「今も?」
返せなかった。
千春の親指が、玲の頬をそっと撫でる。
その仕草は、やさしすぎた。
やさしすぎて、胸の奥に閉じ込めていたものが、少しずつほどけていく。
チリン。
もう一度、鈴が鳴った。
今度は、頭の奥ではなかった。
もっと近い。
耳元でもない。
胸の内側。
心臓のすぐ隣で、誰かが小さな鈴を鳴らしたみたいだった。
千春の瞳が揺れる。
「玲くん」
「……何」
「私、誰かを知ってる気がする」
風が止まった。
通りの音が、遠くへ沈んでいく。
客引きの声も、車の走る音も、店先の音楽も、全部が水の中みたいに歪んで聞こえた。
「名前も、顔も、思い出せないのに」
千春の声が細くなる。
「でも、知ってる。すごく、大事な子だった気がする」
玲の喉が詰まった。
知らないはずの名前が、舌の奥で熱を持つ。
千咲。
その二文字が浮かんだ瞬間、視界の端が白く滲んだ。
「千春姉ちゃん」
玲は息を吸った。
けれど、声が出ない。
千春は、玲の頬から手を離さなかった。
むしろ、縋るように指先に力を込める。
「その子、笑うの」
「……」
「泣きそうなときほど、笑うの」
胸の奥で、何かが割れた。
雨の匂い。
割れたガラス。
赤いランプ。
腕の中の細い肩。
血の気の引いた唇。
そして。
泣きそうなときほど笑う、俺の幼なじみ。
「千咲」
玲の口から、名前がこぼれた。
千春の目から、涙が一筋落ちた。
「……そう」
彼女は、震える声で言った。
「千咲」
その瞬間、世界が揺れた。
ネオンが引き伸ばされる。
通りの人影が薄くなる。
空の色が、一瞬だけ夕焼けから雨雲の灰色へ変わる。
玲の頭の中に、知らないはずの記憶が流れ込んできた。
いや。
知らないはずがなかった。
小学校の帰り道。
ランドセルを揺らして走る千咲。
「玲、またぼーっとしてるの?」
中学の教室。
窓際の席で、シャーペンをくるくる回す千咲。
「ねえ、次の春休み、どこ行く?」
高校の屋上。
風に髪を押さえながら、無理に笑う千咲。
「大丈夫。玲がいるなら、大丈夫だよ」
何百回も呼んだ名前。
何千回も聞いた声。
一緒にいた時間。
喧嘩した日。
仲直りした日。
隣にいるのが当たり前すぎて、大切だと気づくのが遅れた日々。
それらが、一気に胸の奥へ戻ってくる。
重い。
熱い。
息ができない。
玲は胸元を押さえた。
「なんだよ、これ」
膝が崩れそうになる。
千春がとっさに支えた。
「玲くん」
「俺、忘れてた」
声が震えた。
「忘れちゃいけないやつを、忘れてた」
千咲。
名前を思い出しただけで、胸の奥が焼ける。
彼女は確かにいた。
俺の隣にいた。
なのに、世界から切り取られたみたいに消えていた。
写真の中にも、記憶の中にも、誰かの会話の中にも、最初からいなかったことにされていた。
「千咲は」
玲は顔を上げた。
「千咲は、どこにいる」
問いかけた相手は千春だった。
でも、答えを持っているのは、たぶん彼女ではない。
千春は首を横に振った。
「分からない」
そして、胸元を押さえる。
「でも、私も忘れてた」
「千春姉ちゃんも?」
「うん」
千春は涙を拭わなかった。
そのまま、玲を見つめていた。
「私、あの子のことを知ってる。絶対に知ってる。妹みたいに……ううん、もっと近かった気がする」
言葉を探すように、千春は唇を噛んだ。
「なのに、何も思い出せない。名前を聞いた瞬間、胸の中だけが先に痛くなった」
チリン。
鈴が鳴る。




