↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/58

第3話 運命は、変わらなかった

「もう一度言います」


千冬は、静かにそう言った。


朝の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいる。


机の上に置かれたマグカップからは、もう湯気が消えていた。


俺はその向かいで、ほとんど息をしていなかった。


「本日、再度、千堂千春は死にます」


その言葉を聞いた瞬間、指先が机の縁を掴んだ。


木目に爪が食い込む。


「やめろよ」


声が荒くなる。


自分でも分かった。


でも、止められなかった。


「もう一回死ぬって、なんだよ」


千冬は目を伏せない。


責められているのに、揺れない。


その静けさが、余計に腹の奥を熱くした。


「現実です」


「ふざけんな」


「昨日、あなたは彼女の死を体験しました」


「……」


「そして、時間が巻き戻りました」


頭の奥が重くなる。


昨夜のネオンが、まぶたの裏に焼きついている。


青と赤の光。


酒の匂い。


男の濁った目。


千春の体温。


手のひらから溢れていく血。


思い出しただけで、胃の奥がせり上がった。


俺は両手で顔を覆う。


「そんなの、ありえないだろ」


「ですが、起きています」


千冬はバッグからタブレットを取り出した。


薄い端末が机に置かれる。


画面の光が、朝の部屋には妙に冷たく見えた。


そこには、見慣れない文字列と、二つ並んだ波形のような記録が映っていた。


SPRING LOOP


Layer 1


Layer 2


同じ地点。


同じ時刻。


似たような数値。


けれど、細部だけがわずかにずれている。


「同じ出来事が、二度発生しています」


千冬の指が画面をなぞる。


「一度目の春。二度目の春。あなたの主観では、今が二回目です」


「……二回目の、春」


口に出しても、意味は形にならなかった。


春は一度しか来ない。


四月十四日は、一度しかない。


人が死ぬ夜だって、一度しかないはずだった。


でも。


俺の手は覚えている。


千春の血の熱さを。


「……助けられるのか」


自分でも驚くほど、声が低かった。


千冬が、ほんの少しだけ目を細める。


「理論上は可能です」


その一言で、椅子を蹴るように立ち上がった。


床が鳴る。


「なら、やる」


「ですが」


「なんだよ」


「世界のルールを知らないまま動けば、結果は変わりません」


「知るか」


拳を握る。


爪が手のひらに刺さった。


痛みがある。


その痛みだけが、今は現実だった。


「俺は千春姉ちゃんを助ける」


千冬は数秒黙った。


無表情のまま、俺を見ていた。


観察しているようにも、判断しているようにも見えた。


やがて、彼女はタブレットを伏せる。


「分かりました」


「止めないのか」


「止めても、あなたは行きます」


「……」


「なら、私も同行します」


千冬の声はいつも通り淡々としていた。


けれど、その指先は、タブレットの端を少しだけ強く押さえていた。


夜。


駅前の繁華街は、昨日と同じ顔をしていた。


ネオンが濡れたみたいに路面へ滲んでいる。


客引きの声。


酔った学生の笑い声。


焼き鳥の煙と、香水と、排気ガスの混ざった匂い。


昨日と同じ。


そう思った瞬間、胸の奥がきしんだ。


同じであることが、こんなに気味悪いなんて知らなかった。


「ここだ」


俺は足を止めた。


喉が渇いている。


何度唾を飲んでも、舌の上がざらついたままだ。


隣に立つ千冬は、周囲を静かに見回していた。


「千春の勤務先は」


「三軒先の店」


俺は視線で示す。


「昨日、あそこから出てきた」


「では、出てくるまで待ちます」


千冬はそれだけ言って、街灯の影に立った。


俺は店の入口を見つめる。


看板の光が、目に刺さる。


通りすぎる人の肩が何度もぶつかった。


そのたびに体が反応する。


男か。


ナイフか。


違う。


ただの通行人だ。


心臓だけが、勝手に急ぎ続けていた。


数十分後。


店のドアが開いた。


笑い声と、甘ったるい香水の匂いが外へこぼれる。


その中から、見覚えのある姿が現れた。


巻いた髪。


夜の光を反射するピアス。


体の線が出るドレス。


千堂千春。


「……いた」


声が漏れた。


昨日と同じだ。


でも、生きている。


ちゃんと歩いている。


それだけで、膝から力が抜けそうになった。


千冬が小さく言う。


「接触しますか」


俺は首を振った。


「まだだ」


今近づけば、昨日と違う流れになるかもしれない。


けれど、男がどこから来るか分からなくなる。


一度だけでいい。


あいつの手からナイフを奪えばいい。


それで終わる。


そう自分に言い聞かせた。


そのとき。


「千春ちゃん」


低い声が、背後から聞こえた。


背中の皮膚が、一瞬で冷える。


振り向く。


くたびれたスーツ。


崩れた襟元。


酒の匂い。


濁った目。


昨日の男だった。


「……来た」


千冬が呟いた。


男は、ゆっくり千春に近づいていく。


「今日も可愛いね」


千春の表情がこわばる。


足が半歩、後ろへ下がった。


「やめてください」


その声を聞いた瞬間、俺はもう動いていた。


昨日より早く。


昨日より迷わず。


男と千春の間に体を滑り込ませる。


「帰れ」


男の目が俺を捉える。


昨日と同じように、嫌な光がその奥で濁った。


「ちっ、なんだお前」


男の右手がポケットに沈む。


来る。


分かっていた。


分かっているだけで、体はこんなに動くのかと思った。


刃が見えるより先に、俺は男の手首を掴んだ。


骨の感触。


湿った肌。


酒と汗の匂い。


その全部が、妙にはっきり分かった。


「うぐっ」


男の腕を外側にねじる。


ナイフがポケットからこぼれ、アスファルトに落ちた。


乾いた金属音。


すぐに千冬が拾う。


動きに無駄がなかった。


俺は男の体を押し倒した。


膝で背中を押さえつける。


男が暴れる。


腕が跳ねる。


罵声が飛ぶ。


けれど、もう刃はない。


「警察を呼びます」


千冬の声が、夜の中で冷たく通った。


周囲がざわつき始める。


誰かがスマホを向ける。


誰かが駅前交番の場所を言う。


男の力が少しずつ弱まっていく。


終わった。


そう思った。


今度こそ、終わった。


顔を上げると、千春が呆然と立っていた。


「玲くん……?」


その声を聞いた瞬間、胸の奥に詰まっていたものが少しだけほどけた。


俺は笑おうとした。


うまく笑えたかは分からない。


「千春姉ちゃん、もう大丈夫だよ」


その言葉を口にした瞬間。


遠くで、クラクションが鳴った。


短く。


鋭く。


夜を切り裂くような音だった。


胸の奥が、またきしんだ。


振り向く。


道路。


車のライト。


片方だけが、異様に揺れている。


「……え」


暴走車だった。


歩道の縁石に乗り上げるようにして、こちらへ向かってくる。


時間が、急に粘ついた。


誰かの悲鳴が遅れて聞こえる。


千春が立っている。


歩道の端。


ちょうど、車の進路上に。


「千春姉ちゃん!」


走った。


肺が焼ける。


地面を蹴る音が、やけに遠い。


手を伸ばす。


あと少し。


あと、一歩。


届かない。


鈍い音が、夜の底で鳴った。


千春の体が宙に浮いた。


ドレスの裾が、花びらみたいに広がる。


その一瞬だけ、ネオンの光を受けて、ひどく綺麗に見えた。


次の瞬間、彼女は道路に叩きつけられた。


音が消えた。


人の声も、クラクションも、街のざわめきも。


全部が、遠くへ退いた。


「……嘘だろ」


足が震えていた。


膝に力が入らない。


それでも、俺は千春のところへ駆け寄った。


アスファルトの上に、赤が広がっていく。


昨日とは違う場所。


違う傷。


違う死に方。


それなのに、俺の手はまた血で濡れた。


「千春姉ちゃん!」


呼んでも、千春は答えなかった。


千冬が少し離れた場所で立ち尽くしていた。


彼女の顔から、いつもの無表情が消えている。


唇が、かすかに動いた。


「……因果が、修正された」


「何だよ、それ」


俺は千春を抱えたまま、千冬を睨んだ。


「千堂千春が死ぬという結果だけが、別の形で残った」


「ふざけんな!」


声が裂けた。


「そんなの、ふざけんなよ!」


世界が歪む。


街灯の光が引き伸ばされる。


ネオンの文字がぐにゃりと曲がる。


さっきまで足元にあったアスファルトが、薄いガラスみたいに透けて見えた。


チリン。


鈴の音がした。


遠くで。


近くで。


頭の奥で。


誰かが笑った気がした。


小さく、懐かしい声で。


視界が白く焼けていく。


千春の重みが、腕の中からほどけていく。


「待てよ」


何に向かって言ったのか分からない。


「まだ、終わってない」


けれど、声は光の中に呑まれた。


目を開ける。


朝だった。


同じ天井。


同じ照明。


同じカーテンの隙間。


喉の奥が、ひどく乾いていた。


しばらく、呼吸だけをしていた。


吸って、吐く。


それだけなのに、胸が痛む。


スマホを掴む。


画面を見る。


四月十四日。


昨日と同じ日付。


いや、昨日じゃない。


今日だ。


また、今日が始まっている。


「……くそ」


声が、部屋の空気に落ちた。


昨日、俺は確かに助けた。


男のナイフを止めた。


千春を守った。


そのはずだった。


それでも、千春は死んだ。


世界が、別の形で彼女を殺した。


拳を握る。


爪が手のひらに食い込む。


痛い。


まだ痛みがある。


なら、まだ終わっていない。


コンコン。


ドアが鳴る。


「一ノ瀬玲」


千冬の声だった。


俺はベッドから降りる。


足元がふらついた。


でも、倒れなかった。


「分かってる」


ドア越しにそう言った。


ノブを掴む。


手は震えていた。


それでも、回した。


ドアを開けると、千冬が立っていた。


白い髪。


紫のインナーカラー。


紫縁の眼鏡。


その目は、昨日より少しだけ暗く見えた。


「ループしましたね」


「ああ」


俺は頷いた。


千冬が何か言おうとする。


その前に、俺は言った。


「でも次は、絶対に助ける」


千冬は黙って俺を見た。


数秒の沈黙。


それから、小さく息を吐く。


「春はまだ、終わっていません」


その言葉と同時に。


チリン。


遠くで、また鈴が鳴った。


今度は少しだけ、笑い声に似ていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。