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第2話 彼女は、俺をかばって死んだ

「この春に、あなたの大切な人が死にます」


千冬の声は、春の朝の空気に溶けなかった。


乾いた針みたいに、耳の奥に残る。


「……誰が」


喉が、うまく動かなかった。


千冬はすぐには答えなかった。


紫縁の眼鏡の奥で、視線だけがわずかに揺れる。


「千堂家の長女」


一拍。


「千春です」


足が止まった。


千堂千春。


名前を聞いた瞬間、丘の上の屋敷の庭が浮かんだ。


夕方の芝生。白いワンピース。焼き菓子の甘い匂い。


所在なく立っていた俺に、いつも最初に声をかけてくれた人。


「玲くん、こっちおいで」


記憶の中の声は、今でも変わらず柔らかかった。


明るくて、優しくて、少しだけ大人びていて。


俺にとって千春姉ちゃんは、千堂家の人間というより、子どもの頃の居場所そのものだった。


「……千春姉ちゃんが?」


「はい」


「そんなわけ――」


言葉はそこで途切れた。


否定しようとしたのに、舌の上で乾いていく。


千冬の顔は、少しも揺れていなかった。


それが、余計に気味悪かった。


胸の奥で、何かが小さく軋む。


雨の匂いが、ほんの一瞬だけ鼻の奥をかすめた。


四月十四日。


二十三時を少し回った頃だった。


大学の新歓コンパは、思っていたより長引いた。


知らない先輩の名前を覚え、乾杯のたびに笑い、適当に相槌を打っているうちに、時間の感覚が薄くなっていた。


駅前の繁華街に出ると、夜はまだ終わる気配がなかった。


看板のネオンが濡れたみたいに路面へ滲んでいる。


居酒屋の前で笑う学生たち。


客引きの声。


排気ガスと香水と、焼き鳥の煙が混ざった匂い。


人の流れに押されながら歩いていると、自分だけがそこから少し浮いているような気がした。


耳の奥に、千冬の声が残っている。


この春に、あなたの大切な人が死にます。


思い出しただけで、指先が冷えた。


「……帰るか」


そう呟いて駅の方へ向かおうとしたときだった。


視界の端に、見覚えのある横顔が映った。


細い首筋。


巻かれた髪。


夜の光を受けてきらつくピアス。


体の線が出るドレスに、いつもより濃い化粧。


最初は、別人だと思った。


思いたかった。


けれど、笑ったときの目元だけは、昔と何も変わっていなかった。


「……千春姉ちゃん?」


声に反応して、女性が振り向いた。


一瞬、目を丸くする。


それから、困ったように笑った。


「え、あれ? もしかして玲くん?」


千堂千春だった。


言葉が出なかった。


千春は肩をすくめて、少しだけ唇を尖らせる。


「あちゃー。見られちゃったか」


その仕草は軽かった。


けれど、笑顔の端に、ほんの少しだけ疲れが滲んでいるように見えた。


「いや……どうして、ここに」


「仕事」


「仕事?」


聞き返すと、千春は俺の方へ少し身を寄せた。


近づいた瞬間、甘い香水の匂いがした。


子どもの頃、屋敷のキッチンから漂っていたバターや砂糖の匂いとはまるで違う。


夜の店の匂いだった。


「私、キャバクラで働いてるの」


声は軽い。


でも、その軽さがどこか作り物みたいだった。


千春は人差し指を唇に当てる。


「内緒にしてね」


ネオンの青い光が、彼女の頬を冷たく照らしていた。


何を言えばいいのか分からなかった。


千堂家の長女。


あの屋敷の、優しくて完璧に見えた人。


その人が、こんな時間に、こんな場所で、俺に向かって笑っている。


頭の中で、昔の千春姉ちゃんと目の前の千春がうまく重ならない。


「千春ちゃん」


そのとき、低い声が割り込んだ。


千春の肩が、わずかに跳ねた。


振り向く。


少しくたびれたスーツの男が立っていた。


髪は整えているのに、襟元だけがだらしなく崩れている。


酒の匂いがした。


目だけが、妙に濁っている。


焦点が合っているようで、合っていない。


「……また来たんですか」


千春の声から、さっきまでの軽さが消えた。


男は笑った。


唇だけで。


「だって千春ちゃん、会いたかったからさ」


千春が半歩下がる。


ヒールの音が、硬く鳴った。


「お店にも、もう来ないでって言いましたよね」


「ひどいなあ」


男は首を傾ける。


「俺たち、そういう仲でしょ?」


周りの喧騒が遠くなった。


さっきまでうるさかった笑い声も、客引きの声も、ネオンの明滅も、薄い膜の向こうに押しやられていく。


千春の指が、ドレスの布を掴んでいた。


白くなるほど強く。


俺は一歩前に出た。


「誰だよ」


男の目が、ゆっくり俺に向いた。


ぬめるような視線だった。


「関係ない奴は黙ってろ」


その言葉で、胸の奥に残っていた千冬の声がはっきり形を持った。


この春に、あなたの大切な人が死にます。


口の中が乾く。


夜の空気が、急に重くなる。


「千春姉ちゃん」


自分の声が、思ったより低く聞こえた。


「今日は俺が送る。一緒に帰ろう」


「玲くん?」


千春が俺を見る。


驚いた顔。


それから、何かを言いかけて、やめた。


男が小さく笑った。


「邪魔だなあ」


その声と同時に、男の右手がポケットへ沈んだ。


街灯の光が、細いものに反射する。


刃だった。


息が止まる。


ナイフ。


そう理解した瞬間、背中に汗が滲んだ。


「やめてください」


千春が言った。


声は落ち着いていた。


でも、その息は浅い。


「もう、お店にも来ないでって言いましたよね」


「千春ちゃんはさ」


男はナイフを握ったまま、笑っていた。


「俺のものだから」


空気が、音を失った。


俺は千春を背中に隠すように、さらに前へ出る。


「帰れ」


「誰だ、お前」


男の視線が尖る。


「関係ないだろ」


「関係ある」


何の関係があるのか、自分でも分からなかった。


ただ、千春が俺の後ろで息を殺している。


それだけで十分だった。


男の手首が揺れる。


刃先がネオンを拾って、青白く光った。


「邪魔するな」


千春の指が、俺の袖を掴む。


「玲くん……」


その声は細く震えていた。


チリン。


頭の奥で、鈴が鳴った。


小さな音。


けれど、雑踏の中でそれだけが異様にはっきり聞こえた。


視界の端が滲む。


ネオンの輪郭が歪む。


男の肩が動いた。


ナイフが振り上がる。


「死ね!」


刃が落ちてくる。


体が動かなかった。


動け、と頭の中で叫んだ。


足は地面に縫いつけられたみたいだった。


「玲くん!」


千春が、俺の前に出た。


本当に一瞬だった。


香水の匂いが近づく。


白い腕が視界を横切る。


そして、鈍い音がした。


ナイフが、千春の体に沈んでいた。


「……え」


千春が、自分の腹元を見下ろす。


不思議そうな顔をしていた。


まるで、赤い染みが広がっていくドレスを見ても、それが自分のものだと分かっていないみたいに。


男が手を離す。


誰かが悲鳴を上げた。


遠くで、グラスの割れる音がした。


千春の体が傾く。


俺はとっさに抱きとめた。


膝がアスファルトにつく。


硬い衝撃が走る。


けれど、それよりも千春の体の軽さに息が詰まった。


「千春姉ちゃん!」


手のひらに、熱いものが広がる。


血だった。


押さえても、指の間から溢れてくる。


雨なんて降っていないのに、手の中が濡れていく。


「救急車! 誰か、救急車!」


叫んだ声は、自分のものじゃないみたいだった。


千春は俺を見上げる。


ネオンの光が、彼女の瞳の中で揺れていた。


「あはは……」


弱い笑い声だった。


「玲くん、男らしくなったね」


「バカ言うな。喋るな」


「小さい頃はさ……すぐ、迷子になってたのに」


「いいから、黙ってろ!」


喉が裂けそうだった。


千春は小さく首を振る。


その動きだけで、唇から息が漏れた。


「もう……無理だよ」


「そんなわけない」


「分かるの。自分のことだから」


「分かるなよ!」


血が止まらない。


手のひらが滑る。


千春の体温が、指の隙間から少しずつ逃げていく。


「玲くん」


千春が言う。


その声は、夜のざわめきよりもずっと小さかった。


なのに、耳の奥に直接触れた。


「妹たちを……お願い」


「ふざけんな」


声が震えた。


「俺に任せるな。自分で言えよ」


千春は、困ったように笑った。


昔、屋敷の庭で見た笑い方と同じだった。


子どもをなだめるみたいな、柔らかい顔。


「泣かせないでね」


「千春姉ちゃん」


「玲くんは……優しいね」


彼女の指が、俺の袖を掴もうとした。


でも、届かなかった。


手が途中で力を失う。


ゆっくりと落ちる。


「……千春?」


返事はない。


「千春姉ちゃん?」


千春の瞳は、俺を映していなかった。


ネオンの赤と青だけが、その表面でぼんやり滲んでいる。


「千春姉ちゃん!」


叫んだ瞬間、世界がひび割れた。


空気に透明な亀裂が走る。


街灯の光が砕ける。


ネオンの文字が歪み、通行人の叫び声が引き延ばされて、低く、遠く、別の音に変わっていく。


チリン。


また、あの音。


鈴の音。


今度は遠くから聞こえた。


いや、違う。


ずっと近くにあった。


俺の手の中。


千春の血に濡れた手の中。


見覚えのない、小さな鈴が落ちていた。


それを見た瞬間、視界が白く焼ける。


誰かの声がした。


知らない声。


でも、懐かしい声。


――玲、またぼーっとしてるの?


千咲。


名前だけが、白い光の中で浮かんだ。


幼い頃から、彼女はそうだった。


俺が危なっかしいことをしていると、いつも隣に来て、呆れたように笑う。


その笑い方が、好きだった。


好きだったはずなのに。


顔が、見えない。


「千春姉ちゃん!」


叫びながら、目を開けた。


天井が見えた。


白い天井。


見慣れた照明。


カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。


喉が焼けるように痛い。


息を吸うたび、胸の奥が引っかかった。


しばらく、どこにいるのか分からなかった。


ネオンはない。


血の匂いもない。


アスファルトの冷たさもない。


ただ、自分の部屋の空気だけが、薄く冷えている。


「あの後……」


言いかけて、言葉が消えた。


覚えていない。


千春を抱きしめていた。


手が血で濡れていた。


鈴の音が鳴った。


そこから先が、白く抜けている。


スマホを掴む。


指がうまく動かず、画面を一度落としそうになった。


日付を見た瞬間、呼吸が止まる。


四月十四日。


昨日と同じ日付だった。


「……は?」


声が、乾いていた。


ベッドから起き上がる。


胸が痛い。


頭が重い。


なのに、記憶だけは妙にはっきりしていた。


千春が死んだ。


夢じゃない。


そう思った瞬間、手を見る。


血はついていない。


けれど、指の間にはまだ、あのぬるい感触が残っている。


手のひらを擦る。


何度も。


何も落ちない。


落ちるものなんて、最初からない。


それでも、皮膚の下まで赤く染まっている気がした。


コンコン。


部屋のドアが鳴った。


心臓が跳ねる。


こんな朝に、誰が。


「一ノ瀬玲」


聞き覚えのある声だった。


淡々としていて、感情の温度が低い声。


ドアを開けると、千堂千冬が立っていた。


白い髪。


紫のインナーカラー。


紫縁の眼鏡。


昨日と同じ、静かな目。


いや。


昨日?


今は、昨日なのか。


今日なのか。


分からなくなる。


「……なんでここに」


千冬は、俺の顔を見た。


何かを探すように。


「確認します」


「なにを」


「あなたは昨日――正確には、これから起こる今日の出来事ですが」


そこで千冬は、ほんの少しだけ間を置いた。


「千堂千春の死を見ていますね」


喉が閉じた。


何も言えなかった。


それだけで、千冬には十分だったらしい。


「時間が巻き戻りました」


言葉が、部屋の中に落ちた。


軽い音もしなかった。


「……何を言ってるんだ」


ようやく出た声は掠れていた。


「というか、なんで知ってる」


「観測しました」


「また、それかよ」


千冬は表情を変えない。


でも、その目の奥には、わずかに疲れのようなものが見えた。


「この世界は壊れています」


窓の外で、鳥が鳴いた。


いつも通りの朝。


いつも通りの光。


なのに、その言葉だけが、部屋の床に黒い染みみたいに広がっていく。


「一ノ瀬玲」


千冬は俺の名前を呼んだ。


「あなたは、時間の中心にいます」


「……意味、分かんねぇよ」


「分からなくても、今は構いません」


千冬は静かに続ける。


「春はまだ終わっていません」


背中に、昨夜のネオンが蘇る。


酒の匂い。


男の濁った目。


千春の体温。


手の中の血。


「今夜もう一度、千堂千春は死にます」


その言葉と同時に。


チリン。


遠くで、鈴が鳴った。


今度は、部屋の中で聞こえた気がした。

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