第53話 壊れた世界の中で
研究室に、静かな時間が流れていた。
さっきまでの空気が、嘘みたいに消えている。
千秋はまだ赤い顔のまま俯き、
千夏はその背中を軽くさすっている。
千春は千冬の肩に手を置いたまま、何も言わない。
千冬も俯いていた。
涙は拭っている。
だが、まだ完全には戻りきっていない。
玲は、その全員を見た。
胸の奥が重い。
千咲の記憶。
327回。
そして――白い空間。
あの“選択”。
……黙っていいことじゃない。
玲は小さく息を吐いた。
「……千冬」
呼びかける。
千冬がゆっくり顔を上げる。
目は赤い。
だが、その奥にはもう研究者の光が戻り始めていた。
「少し、いいか」
「……はい」
空気が張り詰める。
玲は迷わなかった。
「俺、千咲のループを全部見たあと……別の場所に行った」
千冬の目が見開かれる。
「どういうことですか?」
「白い空間だった。何もない」
「空間認識は?」
「曖昧だ。でもそこに“いる”って感覚だけはあった」
千冬の指が動き出す。
「続けてください」
「そこにいた。人の形をした“何か”が」
「特徴は?」
「輪郭だけ。中は空っぽみたいだった」
「……外殻のみの知性体」
入力が速くなる。
「会話は成立しましたか?」
「ああ。頭の中に直接響く感じだった」
玲は目を細める。
「一人称は“僕”。人格はある。でも――人間じゃない。自分のことを“干渉者”と呼べって言っていた」
空気が変わる。
千夏が腕を組む。
「……なにそれ、普通にヤバくない?」
千秋が不安そうに見る。
「玲くん……大丈夫だったの?」
「ああ」
玲は続ける。
「そいつは言った。俺は何度もそこを通ってループしてきたって」
千冬の手が止まる。
「……ループの経由点」
小さく呟く。
「それと――」
玲は息を整える。
「あの3月9日。本来、あの事故で死ぬのは俺だった」
沈黙。
空気が落ちる。
「……は?」
千夏の声。
「どういう意味?」
千春は何も言わない。
ただ、玲を見ている。
千秋が首を振る。
「そんなの……」
千冬が問う。
「……確定情報ですか」
「ああ。断定していた」
千冬は静かに頷く。
「俺を殺す既定のシナリオが存在していたと」
玲は続ける。
「でも千咲がそれを壊した」
「理由は?」
「俺を生かすためだ」
短く、重く。
空気が揺れる。
「ループの力で何百回もやり直して」
「最後は……自分を犠牲にして」
千秋の目に涙が浮かぶ。
「……そんな……」
千夏が歯を食いしばる。
「ふざけんなよ……それ……」
玲は続ける。
「そして最後、千咲は俺に能力を渡した」
千冬の呼吸が止まる。
「……継承」
「そもそも、なぜ千咲はループ能力を持っていたんでしょう?」
千冬が言う。
「千早さん――お前たちの母親の血だと、あいつは言っていた」
千冬の瞳が揺れる。
「……ループ因子」
玲は頷く。
「本来なら、千咲の死後その力はお前たちの誰かに行くはずだった」
一拍。
「でも――俺が割り込んだ」
「……例外発生」
千冬が呟く。
「そのせいで干渉者は俺を殺すことを見送ったみたいだ。」
沈黙。
玲は続ける。
「実は最初のループで、俺は事故を回避していた。でも――助けたのは千咲じゃない」
姉妹の視線が集まる。
「現場に、もう一人いた」
「……え?」
千秋の声が震える。
千夏が眉をひそめる。
「誰?」
玲は首を振る。
「それは俺にも観測できなかった。でも確実に誰かいた……この四人の中の、誰かだ。その誰かが俺を庇って死んだ」
空気が凍る。
千春の目が細くなる。
千夏は腕を組み直す。
千秋は戸惑う。
千冬だけが、静かに思考している。
玲は続ける。
「その誰かが、千咲にペンダントを渡す記憶も見た」
千夏「私は知らない」
千秋「私も……覚えてない……」
千春「……そんな記憶、ないわね」
千冬「……おそらくは記憶改変」
玲は理解する。
(そうか……)
千咲の存在が消えている。
だから、この記憶も――
玲はゆっくり言う。
「一回目、その誰かのおかげで俺は生き残った。しかしそれは……世界にとっても想定外だったらしい。だから干渉者は千咲のループ能力を強制的に解放した。俺を“元の死”に戻すために。そこから、全部が始まった。……そのせいで千咲がループを繰り返し、最後は自らを犠牲にして世界がズレた」
言葉が止まる。
視線が落ちる。
拳が震える。
「……いや、違う」
小さく。
「ズレたんじゃない」
喉が詰まる。
「壊していたんだ……俺が」
空気が止まる。
玲は俯いたまま続ける。
「あの事故のあと」
「俺は、千咲の死を“なかったことにした”」
千冬の目が見開かれる。
「……まさか因果の消去を持っていたのは玲?!」
「そうだ」
玲は震える声で言う。
「でも俺は……知らなかった。そんな力があるなんて」
歯を食いしばる。
「ただ思っただけなんだ。千咲を死なせたくないって。それだけで……勝手に発動した」
沈黙。
「結果だけじゃない。過程も、原因も、全部消した。だから世界が歪んだ」
息が乱れる。
「その帳尻合わせで……」
声がかすれる。
「千咲の過去も、未来も、存在も……消えた」
千秋が息を呑む。
玲は止まらない。
「それでも俺は生き残った。しかも消してしまった代償をオーバーフローさせたまま」
拳が震える。
「だから今度は――」
顔を上げる。
「お前たちが消されそうになった」
沈黙。
玲の声が崩れる。
「……全部、俺のせいだった」
涙が落ちる。
「千咲が消えたのも……」
「お前たちが死にかけたのも……」
呼吸が乱れる。
「全て……そもそも俺がやったことだった……」
一歩、よろける。
「俺が……壊してたんだよ……この世界を……みんなを」
嗚咽が混じる。
「助けてきたつもりで……」
「守ってきたつもりで……」
首を振る。
「全部……全部逆だった……!」
涙が止まらない。
「俺が……千咲を消した……!」
「そしておまえたちを危険に晒した」
空気が凍る。
誰も言葉を出せない。
玲は崩れるように俯く。
「……最初から」
かすれた声。
「俺が死んでいれば……」
「――やめて」
千秋だった。
震えた声。
でもはっきりと。
玲が顔を上げる。
千秋は涙を浮かべながら、首を振る。
「違うよ……」
一歩、近づく。
「玲くんがいなかったら……」
声が震える。
「千咲ちゃんがずっと一人で繰り返していたこと」
「何回やっても玲くんを救えなかったこと……」
「誰にも知られないまま、終わってた」
玲の目が揺れる。
千夏が前に出る。
「……そうだよ」
強い声。
でも、どこか揺れている。
「全部、自分のせいにしないで」
「原因がどうだったかなんて……」
少しだけ目を逸らす。
「そんなの、今はどうでもいい」
真っ直ぐ、玲を見る。
「でもさ」
小さく息を吸う。
「玲がいたから」
言葉に力がこもる。
「千咲は最後まで諦めなかったんでしょ」
「それに私もここにいる」
玲の呼吸が止まる。
千春が静かに言う。
「責任を感じるのはいいわ」
「でもね」
一歩、近づく。
「それを全部“罪”にするのは違う」
優しく。
でも強く。
「千咲は、自分で選んだの」
玲を見る。
「あなたを生かすことを」
「千咲の想いが運命を変えたの。それは千咲が望んだことでもあるの。そこはしっかり受け止めてあげて」
そして。
千冬が口を開く。
少しだけ震えた声。
「……確かに、因果の歪みは玲が原因です」
玲の肩が揺れる。
「ですがそれは“無自覚の現象”です」
視線を合わせる。
「意図的ではない。責任の所在は単純ではありません」
玲は言葉を失う。
千冬は続ける。
「それに――」
ほんの一瞬。
言葉が詰まる。
「……私は」
小さく。
「あなたがいなければ、今ここにいません。それにたくさんのことを頂きました」
空気が止まる。
千冬は視線を逸らす。
「……ですから」
いつもの調子に戻そうとする。
「全責任を負う必要はありません」
玲の目から、また涙が落ちる。
沈黙。
長い、長い沈黙。
そして。
玲はゆっくりと息を吸う。
拳を握る。
まだ震えている。
でも。
目は、戻っていた。
「……それでも」
静かに言う。
「俺がやる」
一拍。
「壊したのが俺なら」
視線を上げる。
「直すのも、俺だ」
「終わらせるために行く」




