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第52話 帰還──327回の記憶

 玲は床に倒れていた。


「……っ」


 冷たい床。


 電子機器の駆動音。


 蛍光灯の光。


 玲はゆっくり目を開ける。


 そこは千冬の研究室だった。


「玲」


 顔を上げる。


 千冬が立っている。


 白衣。


 モニターに視線を落としたまま。


「観測終了です」


 いつも通りの声。


 玲の意識が遠のく。


 そのまま、再び倒れた。




 目を覚ます。


 俺は研究室のソファで横になっていた。


「玲くん」


 千秋だった。


 心配そうに俺の手を握っている。


 周りには千春と千夏もいた。


 体を起こす。


「……みんなどうしたんだ?」


 奥から千冬が言う。


「私が呼びました。千咲のことですので、全員に説明した方がいいと判断しました」


 玲は起き上がり、ソファに座る。


 千冬は淡々と他の姉妹に事の顛末を説明した。




 玲は口を開く。


「……それで、千冬はどこまで見えたんだ?」


 千冬は画面を操作する。


「3月9日、事故発生時刻付近までです」


「付近?」


「はい。この装置でも、該当時間帯には完全アクセスできません。そもそもこの日の時間残響は非常に不安定です」




 モニターにログが表示される。




 ACCESS LOG


  3/09 10:28


  3/09 10:31


  3/09 10:36


  DATA PARTIAL




「断片観測です。私たちは事故の全容を推測することしかできません」


 俺は画面を見る。


 事故現場。


 雨。


 トラック。


 しかしそこに千咲の姿はない。


「……嘘だろ?」


 千冬が俺を見る。


「玲。あなたは、どこまで見ましたか?」


「全部だ」


 研究室が静まる。


「後で説明するがループの力は元々千咲のものだったんだ。そして俺は千咲のループを全部見た。最初から最後まで」


 千冬の指が止まる。


「……何回」


 俺は苦く笑う。


「分からない。途中で数えるのをやめちまった。百回じゃ足りない。たぶん、何百回だ」


 千冬は俺を見つめる。


 数秒。


「玲。動かないでください」


「……?」


 装置が作動する。


 センサーが降りる。




 MEMORY TRACE


 TIME RESONANCE


 LOOP ANALYSIS




 数値が高速で流れる。


 そして――止まる。




 327




 俺の視線が止まる。


「……なんだよ、これ」


「観測共鳴数です。あなたの脳波に残る時間残響。ループの推定回数です」


 拳が震える。


「……327……? 千咲は327回も俺を助けようとしたのか?」


 静寂。


「……そして最後は、俺の代わりに死んだのか……」




 千咲が死んだ記憶。


 自分が死んだ記憶。


 そして白い空間での出来事。


 すべてがフラッシュバックする。


 呼吸が乱れる。


 視界が揺れる。


 目眩。


 限界だった。


「っ……!」


 俺は吐いた。


「ちょっと玲?! 玲!」


 そのまままた倒れた。




 薄れていく意識の中で、千夏の声が響く。


「千秋、水買ってきて!できるだけたくさん!」


「う、うん!」


「千冬、バケツとか要らない雑巾ある?」


「ここに」


「千春姉、玲を横向きのまま支えて!」


「分かったわ」


 意識が遠のく。




 目が覚めた。


 どれくらい時間が経っただろう。


 柔らかい感触。


 千春の膝枕だった。


「……あら、お目覚め?」


 千春が微笑む。


「玲くん、大丈夫? お水飲める?」


 千秋がペットボトルを差し出す。


「まったく……」


 千冬が呆れたように言う。


「私の研究室をここまで汚すとは。あなたって人は。」




 少し離れた場所に千夏が立っていた。


 俺はゆっくり立ち上がり、千夏に近づく。


「……ありがとうな、千夏」


「大げさだよ」


 肩をすくめる。


「このくらいで人は死なないって。」


 少し笑う。


「まあ建前だけど。部活で吐く子なんて何人も見てるし、慣れてるだけ」


「……それでも助かった。ありがとう」


 俺はそのまま千夏を抱きしめた。


 千夏は少し顔を赤らめる。


「……玲、少し臭うよ?」


「……あ、ごめん。マジでごめん」


 苦笑する。


「いいよ」


 千夏は優しく言う。


「私は玲の全部、受け止めるから」


 一拍置いて、


「このままキス、したって――」




「そこまでよ」


 低く、よく通る声。


 千春が千夏の背中を掴み、強引に引き離す。


「おふざけは終わり」


 空気が一瞬で変わる。




 千春はゆっくりと俺の前に立つ。


 距離が近い。


 逃げ場がない。


「それより玲くん?」


 にこりと微笑む。


「私のお気に入りのスカート」


 一歩、近づく。


「君の体液まみれなんだけど?」


 沈黙。


「……これ、どう責任取ってくれるのかしら? あーあ、すごく高いお気に入りのやつだったのに」


 指先でスカートをつまむ。


 優雅な仕草。


 でも、逃がさない圧。


「いや、あのー。その……本当にごめん……」


 千春は少しだけ間を置く。


 じっと俺を見る。


 ふっと息を吐く。


 そして優しく、俺の頭に手を置いた。


「……いいわよ、今は」


 ゆっくり撫でる。


「その代わり――」


 一瞬、視線が細くなる。


「いつか、きちんと埋め合わせしてくれるんでしょ?」


 逃げ道は与えない声音。


「逃げたら許さないんだから」


 くすっと笑う。




「私だって!」


 千秋が割り込む。


「玲くんにお水あげたし……その……なんか……」


 言葉が途切れる。


 ぼんやりと俺を見る。


「……玲くんが赤ちゃんみたいで……」


 小さく呟く。


 一瞬、ふっと優しい顔になる。


「私たちの赤ちゃんに……ミルクあげてるみたいな……」


「……あ」


 次の瞬間、顔が真っ赤になる。


「ち、違う! 違う違う違う!!」


 一気に現実に引き戻される。


「今のなし! なしだから! 私何も言ってない! 結婚とかしてないし! 赤ちゃんもいないし! 何も言ってない!!」


 顔を真っ赤にして、両手をぶんぶん振る。


「わ、私そんなこと考えてないからね!? ほんとに! ほんとだよ!」


 その様子に、少しだけ笑いが戻る。




 そして千冬が口を開いた。


「……しかし、あなたって人は」


 わずかに眉を寄せる。


「なぜこんなにも、私たち姉妹に愛されているのでしょうね」


 視線はモニターのまま。


 だが指が、一瞬だけ止まる。


「仮説を更新します。この現象は偶発的な感情ではありません。特定個体に対する集中的好意の発生――遺伝的要因の可能性があります」


「……は?」


 俺が間抜けな声を出す。


「解析します。玲、こちらへ」


「待て待て待て」


 俺は一歩下がる。


「簡易採血と唾液サンプルで十分ですが、必要であれば長期観察のため――」




「ちょっと待ちなさい」


 千春が口を挟む。


「その“長期観察”って何なのかしら?」


 にっこり笑っている。


 だが圧が異常に強い。


「同居、行動記録、心理変化の追跡――」


「アウトよ」


「千冬、それアウト!」


 千夏も即座に突っ込む。


「それもう研究じゃなくて、ただの監禁だから」


「倫理的問題は大した問題ではありません。本人の同意を得れば問題ありません」


 千冬は一切引かない。


「いや、俺まだ何も同意してないんだけど?」


「今から取得します」


「怖い怖い怖い」




「玲くんをモルモットにしないで!」


 千秋が慌てて俺の腕にしがみつく。


「だ、大体遺伝の相性とかそういうのって、好きとかそういうのと関係ないから!」


 顔を赤くして叫ぶ。


 しかし千冬は淡々と言った。


「いいえ。おそらく遺伝子の相性のせいであると私は仮定します」


「違う!」


 千秋が思わず叫ぶ。


「私の玲くんへの思いは本物だから!! 玲くんを一番好きなのは私なの!!!」




 沈黙。


「え、千秋?」


「千秋……」


 千夏と千春の声が重なる。


「え、あ、違う。その、ええと。私、つい勢いで……」




 そのとき。


 千春と千夏が千秋に抱きついた。


「千秋が私たちに本当の想いを打ち明けてくれるなんて……強くなったわね。千秋」


「これからはライバルになるのかな。でも千秋が相手でも、私絶対負けないから」


「ちょ、ちょっと二人とも……!」


 千秋は混乱していた。


 千冬はなおも言う。


「で、ですが、この規模の感情集中は異常です」


「だからって遺伝子のせいにしないでよ!」


 千夏がツッコむ。


「……では説明してください。この状況を、どう合理的に説明するのですか」




 誰も何も言わない。


 数秒。


 千冬は小さく息を吐いた。


「……私は、ただ知りたいだけです」


 その一言だけ、温度が違った。


 千春がふっと笑う。


 そしてあっさりと言う。


「それは“研究”じゃなくて、あなたの“気持ち”でしょ?」


 千冬の動きが止まる。


「……ち、違います」


「違わないわ」


 千春は優しく言う。


「そういうのはね、解析できるものじゃないの」


 一歩、千冬に近づく。


「それに、そうしたいと思うあなたの気持ちが、もう答えでしょ? 千冬。あなたも相当、玲くんのことが好きなのよ」




 沈黙。


 千冬の唇がわずかに震える。


「……ずっと、玲のことが頭から離れないんです」


 言葉が少しだけ遅れる。


「他の人のものになるって考えるだけで……胸が、締め付けられる」


 呼吸が乱れる。


「怖いんです……こんなに、感情が乱れるの……初めてで……」


 視線が揺れる。


「……もう、どうしたらいいのか……分からないんです」


 千春がそっと千冬の手を握る。


「やっと素直になったわね、千冬」


 千春は優しく微笑む。


「私も怖いよ。私たち、なんで同じ人を好きになったんだろうね」


 一拍。


「でもこれだけは言わせて」


 少しだけ、強く。


「あなたは私の大切な妹よ」


 千冬の瞳が揺れる。


 唇が震える。




「……お姉ちゃん」




 その一言は、いつもの千冬の声じゃなかった。


 感情がそのまま零れたような声。


 次の瞬間。


 涙が、静かに頬を伝った。


 玲は息を呑む。


 千冬が泣くところを、初めて見た。




「ほら。少し休みましょ」


 千春が頭をぽんと叩く。


「温かいものでも飲みましょ」


 千冬は小さく頷いた。

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