第39話 最初に死んだのは誰だ
玲はゆっくり目を開けた。
ここは研究室ではない。
近所の公園だった。
冷たい空気。
冬の終わりの匂い。
そして桜の木。
まだ蕾のまま揺れている。
玲は空を見上げた。
空は灰色だった。
厚い雲が空を覆っている。
玲は悟った。
千咲が消えた日に来たのだと。
そのときだった。
「玲!」
聞き慣れた声。
振り向く。
そこに立っていたのは千咲だった。
黒くストレートな長く綺麗な髪。
少し小柄な体。
ピンクのワンピース。
そして、いつもの笑顔。
「おはよう!千咲」
何故だか勝手に言葉が出る。
玲の胸が強く鳴る。
ああ、生きている。
目の前にいる。
千咲が。
ついに来たんだこの日に。
そして少し歩く。
玲は周囲を見る。
歩道。 信号。 交差点。
この場所を玲は知っている。
千冬の実験室で何度も見た場所だ。
ここで、今から事故が起きる。
玲は千咲を見て言葉を発する。
「入学手続って面倒だよな」
自分の意志とは関係ないその言葉に玲は違和感を覚えた。
千咲は笑った。
「そうだね。でも行かなきゃ」
「だよなー」
玲は気怠そうに返事をする。
そのとき―
千〇は言う。
「だからついて来た」
そして少し後ろを見る。
「三人で行こう」
玲の胸が止まりそうになる。
……三人?
千咲は当然のように言う。
「うん」
玲は振り向く。
そこにもう一人いるはずだった。
しかし玲には姿が見えない。
輪郭も。
顔も。
声も。
まるで靄がかかったように。
確かにそこにいるはずなのに。
見えない。
声が分からない。
玲は眉をひそめる。
……誰だ
しかし確かに感じる。
隣を歩く気配。
三人で歩いている。
なのに誰か分からない。
……おかしい
そのときだった。
ぽつ。
頬に何かが落ちた。
小さな雨粒。
ぽつ。 ぽつ。ぽつ。
アスファルトに染みが広がる。
千咲が空を見る。
「あれ、雨?今日は振らないって言ってたのに」
玲も空を見た。
灰色の雲から静かに雨が降り始めていた。
信号が青になった。
玲たちは急いで横断歩道を渡る。
雨は少しずつ強くなる。
道路が濡れていく。
エンジン音。
水が弾ける音。
そして聞いたことのない甲高いタイヤのスキール音。
胸がざわつく嫌な音。
気が付いた瞬間にはトラックが玲の目の前に来ていた。
ああ、終わった。
スローモーションになる。
色んな思考が巡る。
この後間違いなく俺は死ぬ。
もう止められない。
どんな痛みが待っているのだろう。
抗えない運命に身を委ねるしかない。
生物がいつか来るであろう死の瞬間を俺は今ここで迎えようとしている。
受け入れよう―。
そのとき― 誰かの手が玲の背中を押し飛ばす。
玲は前に転がる。
千咲は立ち尽くしている。
「え?」
玲は振り返る。
路肩に突っ込んだ潰れたトラック。
雨の音。
玲の呼吸が止まる。
そこには玲を庇ってトラックに轢かれた人。
千堂家の姉妹の誰か。
しかし玲には顔が見えない。
玲は叫ぶ。
「……千○!!」
確かに名前を呼んだ。
しかし自分が今、誰の名前を叫んだのか玲には分からなかった。
胸が締め付けられる。
その人は玲をかばった。
玲はゆっくり立ち上がる。
胸が締め付けられる。
雨は強くなっていった。
玲は叫んだ。
叫びにならない声を。
声にならない声を。
何度も。
そして玲は理解する。
これは自分の記憶じゃない。
身体が勝手に動く。
声が勝手に出る。
……千咲
千咲は青ざめた顔で立ちつくしている。
玲は頭の中で思った。
……もしかしてこれはお前の記憶なのか?
玲はまだ知らない。
これが千咲が何度も繰り返す最初のループだということを。




