第38話 託されたもの
意識が沈む。
白。
果てしなく広がる、何もない空間。
だが――
完全な無ではない。
白の奥。
層のように重なった“時間”が、わずかに揺れている。
映像。
記憶。
過去の断片。
玲は理解する。
これは想像でも、記憶の再生でもない。
“過去そのもの”だ。
玲は、それを見ていた。
白い部屋。
消毒液の匂い。
機械音が、一定のリズムで鳴っている。
ベッドの上。
千早は横たわっている。
細い呼吸。
弱った体。
それでも、その目だけはしっかりと意識を保っていた。
「……ああ、来てくれたんだ」
かすれた声。
枕元に立つのは、千咲の姉。
輪郭がどこか曖昧で、焦点が合いきらない。
「お母さん、来たよ」
短く、いつも通りの返事。
千早は少しだけ笑う。
「お姉ちゃん、遅いよ」
千咲が言う。
「ごめん」
小さく言い返す。
そのやり取りは、どこにでもある親子のものだった。
千早はゆっくり視線を動かす。
ベッドの横。
椅子に座る姉。
そして中学生の千咲。
不安そうに、母の手を握っている。
「お母さん……」
千早は優しく目を細めた。
「大丈夫……」
その言葉は柔らかい。
でも、どこか終わりを知っている響きだった。
しばらくして千早は再び、姉を見る。
「これを持っていきなさい」
首元のペンダントに触れる。
銀のチェーン。
トップは、小さな青い石のペンダント。
光を受けて、静かに揺れる。
千早はそれを外した。
姉は一瞬だけ黙る。
「……これ、本当にいいの?お母さんの一番大切なものじゃないの?」
「いいのよ」
即答だった。
「どうせもう、私には使えない」
長い沈黙。
千早は続ける。
「大切にするのよ」
それは“渡す”というより、“託す”に近い言い方だった。
千咲の姉はそれを受け取る。
青い石が、指の中で冷たかった。
「……わかった。大事にする」
それ以上は何も言わない。
千早は満足そうに、小さく息を吐いた。
数日後。
暗い静かな昼。
葬儀場。
白い花。
静かな空気。
遺影の中で、千早が微笑んでいる。
千咲は泣いていた。
声を押し殺して。
「お母さん……」
その少し離れた場所で低い声が落ちる。
「……すまなかった」
父だった。
スーツ姿。
いつも伸びている背筋は丸みを帯びている。
目が沈んでいる。
「最後まで……行けなかった」
言葉を絞り出すように言う。
「会う勇気が、なかった」
千春が顔を上げる。
その目は、冷えていた。
「は?」
父は続ける。
「私は……逃げた。仕事を理由にして。現実を受け止められなかった。何度も病院へは向かっていたんだ。しかしいつも途中で手が震えて涙で顔がぐしゃぐしゃになってしまって。千早にそんな姿を見られたくなかった。そして……結果的に私はあいつを、一人にしてしまった。すまなかった」
父の両目からは静かに涙がこぼれた。
それを隠すように指で涙を払い、父は曇った空を見上げた。
沈黙。
千春はゆっくり口を開く。
「今さら何?」
低い声。
「謝って終わりなの?」
父は答えない。
ただ、堪えるように目を伏せる。
千春は続ける。
「お母さんはずっと待ってたんだよ!お父さんが来るって信じてた!」
声が震える。
千春の目から涙が流れる。
「でもお父さんは来なかった!一度も!」
一歩近づく。
「それが全てでしょ!」
父は動かない。
何も返せない。
千春は吐き捨てるように言う。
「許さない……」
父の手が、わずかに握られ震えている。
それでも何も言わない。
千春は一歩引く。
「もういいよ」
静かに言う。
「私、家を出る」
父が顔を上げる。
言葉を探す。
だが出てこない。
千春は続けた。
「大学にも行かない」
空気が止まる。
「お母さんの想いは、私が全部引き受ける」
父の目が揺れる。
だが――止められない。
「……そうか。そうだな。すまない」
それだけだった。
千春は振り返らない。
そのまま歩き出す。
千咲は、その背中を見ていた。
5年後。
3月1日。
まだ寒さの残る朝。
「千咲」
声。
振り向く。
姉。
「誕生日おめでとう」
小さな箱を差し出す。
千咲の目が輝く。
「え、ありがとう!」
受け取る。
開ける。
中には。
銀のチェーン。
青い石のペンダント。
光を受けて、静かに揺れる。
「え、これって……もしかして」
千咲の声が少し震える。
「お母さんの……?」
「そう。あの時私が受け取ったけどやっぱり千咲のほうが似合うと思う。付けてあげるから後ろ向いて」
姉がペンダントを千咲に着ける。
そして千咲を鏡の前に連れていく。
「ほら!私より似合ってる」
「お姉ちゃん……ありがとう」
姉は千咲の肩を抱き、優しく微笑む。
「ううん。千咲、私たちこれからもずっと一緒。」
「うん!」
笑う。
二人とも本当に嬉しそうに。
何も知らないまま。
その重さも。
その意味も。
3月9日まで。あと、8日。




