第36話 バレンタイン、本命が多すぎる
2月14日。
大学のキャンパスは妙に賑やかだった。
女子学生たちが小さな袋や箱を持って歩いている。
玲はその光景を見ながら小さくため息を吐いた。
「……ああ、今日はそういう日か」
そのとき。
「玲」
後ろから声がした。
振り向くと、千冬だった。
いつもの服。
手にはタブレット。
「おはよう」
玲が言う。
「おはようございます」
いつも通りの無機質な表情。
いつも通りのタブレット。
そして。
いつも通りではない紙袋。
玲は目を細める。
「それ何だ?」
千冬は一秒ほど沈黙した。
それから紙袋を持ち上げる。
「チョコレートです」
「へえ」
「あなた宛てです」
玲の足が止まった。
「……俺?」
「はい」
千冬は頷く。
だが視線が微妙に合わない。
タブレットを操作している指も少しだけ忙しい。
「本日はバレンタインデーです」
「知ってる」
「女性が好意を持つ男性へチョコレートを渡す文化です」
「それも知ってる」
玲が言うと。
千冬はわずかに言葉を詰まらせた。
「……そうでしたか」
珍しい反応だった。
玲は思わず笑う。
「もしかして緊張してる?」
「していません」
即答。
しかし耳だけが赤かった。
「観測として必要だっただけです」
少しだけ早口だった。
玲が笑う。
「実験ってこと?」
「そうです」
少し間。
千冬が小さく言う。
「……たぶん」
玲が聞く。
「たぶん?」
千冬は視線を逸らしたまま言う。
「別にあなたのために作ったわけではありません。ただデータ取得のために最適な対象があなたでした」
玲が苦笑する。
「それ普通に照れ隠しだろ」
千冬がぴくっと反応した。
「ち、違います!完全に合理的判断です」
しかし耳が少し赤い。
千冬は紙袋を差し出す。
「玲、受け取ってください」
玲は袋を受け取る。
中を見る。
手作りチョコだった。
「もしかしてこれ手作りなのか?」
千冬は少しだけ誇らしげに言う。
「はい」
「千春に教わりました」
玲が笑う。
「なんか意外な組み合わせだな」
千冬は言う。
「調理も合理的に、です」
玲はチョコを一つ口に入れる。
「……あれ、うまい!これめちゃくちゃ美味い!」
千冬の目が大きくなる。
「本当ですか」
「ああ、本当だ」
千冬は少し黙った。
そしてほんの少しだけ笑った。
玲が言う。
「……あ、今笑ったな」
千冬はすぐ表情を戻す。
「決して笑っていません。錯覚です。夢でも見ているのですか?」
しかし少しだけ照れている。
そして玲に一歩近づいた。
「玲」
「ん?」
千冬は少し小さな声で言う。
「今日はもう一つ恋愛行動を実験します」
玲が言う。
「嫌な予感がする」
千冬は言った。
「キスです」
玲が固まる。
「はぁ?え、まさか。さすがにここで、ではないよな?」
「いいえ。今ここで行います」
千冬は真顔だった。
玲が周囲を見る。
学生たちがちらちら見ている。
「人いるぞ」
千冬も周囲を見る。
少しだけ顔が赤い。
「……では」
小さく言う。
「やめます」
玲が少し安心した瞬間。
千冬が玲のコートを掴んだ。
「ですが。ここでないと意味が無い」
そして――素早くキス。
ほんの一瞬。
玲の思考が止まる。
千冬はすぐ離れた。
そしてタブレットを見る。
LOVE RESPONSE
SUCCESS
玲が言う。
「……お前」
千冬は言う。
「玲」
少しだけ照れた顔で。
「観測は成功しました」
そして小さく付け足す。
「……バレンタインも」
玲はため息を吐いた。
千冬は少しだけ笑って去っていった。
そのとき。
「玲くーん」
聞き慣れた声。
千春だった。
コートを着て歩いてくる。
「ねえ、さっきの見たよ」
玲が言う。
「見ていたのか」
千春は笑う。
「ここ大学だよ?丸見え」
そして玲の手を見る。
「もうチョコもらったの?」
「さっき千冬から」
千春は少し笑う。
「そっか。私が一番最初に渡したかったんだけどな」
そして小さな箱を差し出した。
「はい!私からも」
玲が驚く。
「千春姉ちゃんも?」
「もちろん」
玲が受け取る。
「ありがとう」
千春は少し近づいた。
そして耳元で囁く。
「玲くん」
「ん?」
「これは」
小さく笑う。
「義理じゃないからね」
玲が固まる。
千春は楽しそうだった。
「ちゃんと本命だよ。あとこれデパートで一番高いベルギーの高級チョコだから」
玲が言う。
「なんか急に重い」
千春は肩をすくめた。
「だって私、大人だし。それに欲しいものは手に入れたい主義なの」
そう言って。
玲の胸ぐらを掴み。
軽くキスした。
「じゃあ仕事あるから、またねー」
千春はそのまま去っていった。
しばらくして。
「玲ーー!!」
走ってくる影。
千夏だった。
「いた!やっと見つけた!」
「息切れてるぞ」
「走った!」
千夏は玲の前で止まる。
「はい!」
紙袋を押し付ける。
「これ!」
玲が受け取る。
「……またチョコ」
千夏は胸を張る。
「手作り!」
玲が笑う。
「今日は……豪華だな」
「でしょ!」
そして少し照れる。
「玲」
「ん?」
千夏は言った。
「これ……本命だから」
玲が言う。
「お前もか」
千夏は言う。
「当たり前!」
そして大声で。
「私、誰にも負けないから!!」
そう言ってグラウンドの方へ走り去っていった。
忙しいやつだ。
大学を出ようとすると。
校門に千秋が立っていた。
玲が言う。
「あれ?千秋?」
千秋が歩いてくる。
少し緊張している。
「玲くん」
「どうした」
千秋は小さな箱を出した。
「待ってた。はいこれ。チョコ」
玲が受け取る。
「ありがとう」
千秋は言う。
「私、お菓子作るの初めて」
玲が笑う。
「マジか」
千秋は少し不安そうだった。
「失敗してるかも……」
そう言いながら、
胸元のネックレスにそっと触れる。
小さなネックレス。
玲はそれを見て、
なぜか一瞬だけ胸がざわついた。
玲が箱を開ける。
形は少し歪だった。
玲は一つ食べる。
「……」
千秋が緊張する。
「どう?」
玲が言う。
「甘くて美味しいよ」
千秋の顔が明るくなる。
「よかった」
そして。
少し勇気を出して言う。
「玲くん」
「ん?」
「私……これ……義理じゃない。本命」
玲は空を見上げた。
「……今日は」
呟く。
「情報量多いな」
その横で。
千冬がタブレットを見ている。
VALENTINE EVENT
COMPLETE
しばらく無言。
画面に視線を落としたまま、
小さく呟く。
「……データに異常があります」
玲が言う。
「異常?」
千冬は淡々と答える。
「心拍数、思考ノイズ、判断遅延」
一瞬、言葉を区切る。
「玲が他個体と接触した際にのみ発生しています」
玲が眉をひそめる。
「それ、俺のじゃなくてお前のデータだろ?」
千冬は即答する。
「ち、違います。断じて違います」
ほんのわずかに視線を逸らす。
「……原因は未特定です」
そして。
玲を見る。
「玲」
「なんだ?」
千冬は言った。
「あなたはモテすぎです。ラブコメの主人公ですか?」
玲はため息を吐いた。
「お前。それ、観測データに残すなよ?」
千冬は小さく頷く。
「……もう記録済みです。バックアップも完了しています」
その声は、少しだけ小さかった。
わずかな沈黙。
千冬は再びタブレットに目を落とす。
画面の端に、小さなログ。
EMOTION:UNKNOWN
千冬はそれを見つめる。
「……未定義」
誰にも聞こえない声。
冬の空は澄んでいた。
そして――
三月が近づいていた。




