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第35話 お前がいない世界なんていらない

 三十数回目のループだった。


 研究室は今日も同じだった。


 窓の外の曇った冬空。


 青白いモニターの光。


 机の上のタブレット。


 壁の時計。


 何も変わらない。


 変わらないまま、千冬だけがいない。


 玲は椅子に腰を下ろした。


 机の角に額を押しつける。


 冷たい。


 何度調べただろう。


 三周目で研究室を調べた。


 四周目で千堂家へ行った。


 十周目で大学中を探し回った。


 二十五周目では机をひっくり返した。


 三十周目では装置を壊しかけた。


 それでも。


 何一つ見つからない。


「……千冬」


 名前を呼ぶ。


 返事はない。


 研究室の空調だけが低く唸っていた。


「どこ行ったんだよ……」


 その声さえ壁に吸い込まれて消える。




「感情、ですか」


 千堂家の書斎。


 古い本の匂いの中で玲は顔を上げた。


 父は窓の外を見ている。


「千咲のときも似ていた」


 静かな声だった。


「強い感情が引き金になった可能性がある」


「そんな曖昧な……」


「そうだ」


 父は苦笑した。


「だが世界の歪みは、案外そういう曖昧なもので動く」


 玲は黙り込んだ。


 感情。


 そんなもので。


 本当に。




 研究室へ戻る。


 誰もいない部屋。


 誰もいない椅子。


 誰もいない装置の前。


 玲は千冬の机へ手をついた。


 冷たい。


「……聞こえるか」


 返事はない。


「千冬」


 沈黙。


 玲は目を閉じた。


 何十回も繰り返した。


 探した。


 調べた。


 考えた。


 だが結局。


 最後に残ったのはそれだった。


「お前がいたから」


 声が掠れる。


「ここまで来れたんだ」


 春。


 夏。


 秋。


 冬。


 何度も季節を越えてきた。


 そのたびに隣には千冬がいた。


「お前と話して」


「お前と喧嘩して」


「お前に助けられて」


 机を握る指に力が入る。


「だから」


 喉が震えた。


「だから戻ってこいよ」


 視界が滲む。


「俺には――」


 一度息を吸う。


 胸が痛い。


「お前が必要なんだ」


 静寂。


 何も起こらない。


 数秒。


 数十秒。


 玲は俯いた。


「……くそ」


 拳を叩きつける。


「戻ってきてくれよ!」


 声が研究室に響く。


「千冬!!」




 暗闇だった。


 無数の数値。


 波形。


 記録。


 記憶。


 その海の中で千冬は漂っていた。


 そして一つのデータが再生される。


 中学時代。


 理科室。


 玲の手を取って操作を教えている。


 心拍数上昇。


 体温変化。


 当時は誤差として処理した数値。


 別の記録。


 放課後。


 背後から姿勢を直したとき。


 本来必要のない接触時間。


 離れるべきだった。


 だが離れなかった。


 また別の記録。


 冬の帰り道。


 冷えた手首を掴んでポケットへ入れた日。


 玲は少しだけ視線を逸らした。


 その反応を観測した。


 観測した上で。


 手を離さなかった。


 無数の記録。


 無数の数値。


 すべてに共通する対象。


 一ノ瀬玲。


 比較。


 照合。


 再解析。


 そして。


 研究室から届く声。


『俺にはお前が必要なんだ』


 その瞬間。


 散らばっていたデータが一つに繋がる。


 点と点が線になる。


 原因不明。


 未解決。


 保留。


 そう分類していた全ての異常。


 その答えが導き出される。


「……なるほど」


 千冬は呟いた。


 初めて理解する。


 なぜ玲ばかり見ていたのか。


 なぜ玲に触れたかったのか。


 なぜ玲と離れるのが嫌だったのか。


 なぜ消える瞬間。


 最後に玲の名前を呼んだのか。


 答えは一つだった。


 わずかに呼吸が揺れる。


 その変化さえ観測しながら。


 千冬は結論を確定する。


「――これが恋という現象なのですね」




 モニターが光った。


 EMOTION TRIGGER


 DETECTED


「……は?」


 玲が顔を上げる。


 研究室の中央に青い光が集まる。


 粒子が舞う。


 形を作る。


 人影になる。


 長い髪。


 白い肌。


 見慣れた顔。


「玲」


 玲の呼吸が止まった。


「……千冬」


 光の中で千冬が微笑む。


 いつもより少しだけ柔らかい表情だった。


「私を見つけてくれたのですね」


 玲は言葉を失う。


 喉が動かない。


 胸だけがうるさい。


「どういうことだ」


「私は実験中にデータ状態へ移行しました」


 千冬は静かに説明する。


「消失に備え、思考を保存するプログラムを用意していました」


「じゃあ」


「起動条件だけが不足していました」


 千冬は玲を見る。


「感情です」


 研究室が静かになる。


「あなたの感情」


 玲は何も言えない。


 千冬は少しだけ目を伏せた。


「私も同じでした」


 声が小さくなる。


「見つけてほしかった」


 沈黙。


「必要とされる存在になりたかった」


 玲の胸が強く鳴る。


「ずっと解析していました」


 千冬は苦笑した。


 珍しく人間らしい笑みだった。


「なぜ玲を見ると心拍数が上がるのか」


「なぜ玲と離れるのが嫌だったのか」


「なぜ他の女性といると気になったのか」


 そして。


「答えは一つでした」


 千冬は玲を見つめる。


「私は玲が好きです」


 玲の思考が止まる。


「これが恋なんですね」


 次の瞬間。


 千冬が近づいた。


「追加実験を行います」


「待て」


 言い終わる前に。


 唇へ柔らかな感触が触れた。


 一瞬だった。


 かすかな温もり。


 甘い香り。


 そして。


 光が弾ける。




 重みが落ちてくる。


 玲は反射的に抱きとめた。


 柔らかな髪が首筋を掠める。


 温かい。


 確かな体温だった。


「……玲」


 胸元から声が聞こえる。


 玲は答えられなかった。


 代わりに腕へ力を込める。


 すると。


 千冬の指先が服を掴んだ。


 少しだけ。


 本当に少しだけ震えていた。


 玲は目を見開く。


 肩口へ額が押し当てられる。


 何も言わない。


 ただ離れない。


 玲はゆっくり息を吐いた。


「戻ったんだな」


 しばらくして。


 小さく頷く気配がした。


「はい」


 掠れた声だった。


 その返事を聞いた瞬間。


 胸の奥で固まっていた何かがようやく解ける。


 モニターが光る。


 WINTER LAYER


 CLEAR


 玲は苦笑した。


「心配かけやがって」


 千冬は答えない。


 代わりに服を掴む力が少しだけ強くなった。


 それが答えだった。


 しばらくして。


 千冬がようやく顔を上げる。


「必要なデータは揃いました」


 いつもの口調。


 だが頬は少しだけ赤かった。


「装置は完成できます」


 玲は窓の外を見る。


 長い冬が終わった。


 だが。


 まだ終わっていない。


 残る季節は一つ。


 三月。


 千咲が消えた日。


 本当の戦いは、そこからだった。


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