第34話 ヒロインが消えた日
研究室の空調が低く唸っていた。
青白いモニターの光が壁を照らし、窓の外では冬の夕暮れがゆっくりと沈んでいく。
玲は椅子にもたれながら天井を見上げた。
気づけば一か月が経っていた。
恋の実験。
接触実験。
そして。
『私は今、あなたを異性として認識しました』
思い出した瞬間、思わず額を押さえる。
「勘弁してくれ……」
ため息が白く消えることはない。
暖房は効いている。
それなのに妙に寒かった。
「おい」
視線を上げる。
千冬はすでに装置の前に立っていた。
銀色のヘッドギア。
無数のケーブル。
赤い警告表示。
嫌な光景だった。
「またやるのか」
「はい」
迷いのない声だった。
モニターには異常値が並んでいる。
赤い文字が流れていた。
TIME INTERFERENCE
MAXIMUM
「危なかったんじゃなかったのか」
「危険です」
「だったら――」
言いかけて止まる。
千冬がこちらを見ていた。
静かな瞳だった。
「玲」
「ん?」
「私は知りたいのです」
わずかな沈黙。
研究室のファンの音だけが響く。
「なぜ千咲が消えたのか」
玲の胸が重くなる。
「……」
「そして」
千冬は少しだけ視線を伏せた。
「恋という感情も」
玲は苦笑した。
「欲張りだな」
「そうでしょうか」
「そうだよ」
玲は立ち上がる。
そして千冬の肩を軽く叩いた。
「だからって死ぬなよ」
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
千冬の表情が柔らかくなった気がした。
「大丈夫です」
そう言ってスイッチを押した。
低い駆動音が研究室に響く。
ブン――
装置が起動する。
数字が流れる。
加速する。
跳ね上がる。
警告音。
赤い表示。
玲の背筋に冷たいものが走った。
TIME INTERFERENCE
OVERLOAD
「千冬!」
返事はない。
ケーブルが震えている。
装置の音が大きくなる。
嫌な音だった。
耳の奥を掻き回されるような音。
玲は駆け出した。
「止めろ!」
その瞬間だった。
「玲」
声がした。
玲の足が止まる。
千冬がこちらを見ていた。
そして。
笑っていた。
ほんの少しだけ。
嬉しそうに。
「観測に成功しました」
モニターの光が瞳に映る。
「これで装置が完成できま――」
言葉が途切れた。
ぶつり、と。
音声データを切断したような不自然な途切れ方だった。
「……千冬?」
玲は眉をひそめる。
返事がない。
千冬の肩から青い光が零れていた。
最初は見間違いかと思った。
だが違う。
光だった。
肌の内側から漏れ出している。
「おい」
一歩踏み出す。
千冬も自分の手を見ていた。
困惑した顔だった。
初めて見る表情だった。
「何だ……これ」
その声に玲の心臓が跳ねる。
千冬自身も理解していない。
指先が崩れていく。
青い粒子になって。
雪のように。
空中へ溶けていく。
「ふざけるな」
玲は駆け寄った。
手を伸ばす。
掴もうとする。
だが指先は光をすり抜けた。
「千冬!」
千冬が顔を上げる。
青い光に包まれながら。
それでも玲を見ていた。
「……玲」
声が震えていた。
初めて聞く声だった。
「私――」
続きは聞こえなかった。
光が弾ける。
視界が真っ白になった。
耳鳴り。
激しいノイズ。
そして。
どこか遠くで鈴の音が鳴った。
チリン――
玲は飛び起きた。
荒い呼吸が部屋に響く。
全身に汗が滲んでいた。
「……はぁ……はぁ……」
見慣れた天井。
見慣れた部屋。
ベッド脇の時計。
表示された日付を見て玲は凍りついた。
1月26日。
恋の実験の日だった。
「……ループ」
喉が乾く。
嫌な予感が胸を締め付ける。
「千冬」
上着を掴み部屋を飛び出した。
研究室へ向かう。
息を切らしながら扉を開ける。
「千冬!」
返事はない。
静かだった。
モニター。
装置。
机。
タブレット。
全部ある。
なのに。
「……いない」
玲は部屋を見回した。
嫌な汗が背中を流れる。
「おい……」
研究ノートを掴む。
千冬の字だ。
間違いない。
存在した痕跡はある。
しかし本人だけがいない。
モニターを見る。
表示されたログ。
そこに残されていた文字を見て玲は息を呑んだ。
WINTER EVENT
SUBJECT LOST
「……ロスト?」
胸の奥で何かが軋む。
そのとき。
研究室の扉が開いた。
「玲?」
千夏だった。
明るい声。
いつも通りの笑顔。
「何してるの?」
玲はすがるように言った。
「千冬を見なかったか」
「千冬?」
千夏が首を傾げる。
玲は乾いた笑いを漏らした。
「冗談だろ」
「え?」
「千冬だよ」
「ごめん」
千夏は困ったように笑う。
「誰?」
玲の呼吸が止まった。
「……は」
「私の知り合い?」
本当に知らない顔だった。
演技じゃない。
冗談でもない。
玲の指先から血の気が引いていく。
千冬という存在が。
本当に消えていた。
◇
その夜。
千堂家の書斎には古い本の匂いが漂っていた。
父は黙って話を聞いていた。
そして長い沈黙の後。
「なるほど」
静かに呟く。
「千冬という人間が消えた」
「はい」
「君だけが覚えている」
「……はい」
父はしばらく窓の外を見ていた。
冬の夜だった。
暗い空に星が滲んでいる。
「千咲のときと似ている」
玲は拳を握った。
爪が掌に食い込む。
「やっぱり」
「すまない」
父は首を振った。
「私にも千冬の記憶はない」
その言葉が胸に刺さる。
「だが」
父は続けた。
「君の話を疑う気はない」
玲は顔を上げた。
父は静かに微笑んでいた。
「玲くん」
「はい」
「世界は時々、不自然なほど辻褄を合わせようとする」
玲は黙って聞く。
「消えた人間が最初から存在しなかったことになるほどに」
書斎の時計が時を刻む。
コチ、コチ、と。
「安心しなさい」
父の声は穏やかだった。
「君が覚えている限り」
玲は目を閉じる。
青い光の中で消えた少女を思い出す。
「千冬はまだ終わっていない」
窓の外では冬の夜が静かに続いていた。




