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第33話 それは“実験”じゃない

 12月26日。


 クリスマスが終わった翌日の大学は妙に静かだった。


 昨日まであちこちで聞こえていた笑い声もない。


 風に揺れる木々の音だけがキャンパスを流れている。


 玲は理工学棟の廊下を歩きながら肩をすくめた。


「昨日は騒がしかったな……」


 吐いた息は白くならない。


 暖房は効いているはずなのに、どこか冬の匂いが残っていた。


 千秋。


 千夏。


 千春。


 思い浮かべたところで、


「玲」


 背後から声が飛んできた。


 聞き慣れた声だった。


 振り返ると、千冬が立っている。


 片手にはタブレット。


 相変わらず無機質な表情だ。


「来ましたね」


「呼んだのはお前だろ」


 千冬は小さく頷いた。


「質問があります」


「研究か?」


「いいえ」


 そこでわずかに間が空く。


「人間の感情についてです」


 玲は眉をひそめた。


「嫌な予感しかしないんだが」


 千冬は気にした様子もなくタブレットを操作する。


 画面に並ぶグラフ。


 大量の数値。


「昨日の観測結果です」


「何を観測したんだよ」


「恋愛反応です」


 玲は足を止めた。


「……なんだって?」


「玲」


 千冬は真顔だった。


「あなたは昨日、複数の女性から好意を向けられていました」


「言い方」


 思わず額を押さえる。


 千冬は続ける。


「千春、千夏、千秋」


「やめろ。名前を並べるな」


「共通して心拍数の上昇を確認しました」


 玲は深くため息を吐いた。


「で?」


 千冬はタブレットを下ろす。


「私は恋という感情を理解していません」


「知ってる」


「だから実験します」


 玲の背中を嫌な汗が流れた。


「……どんな実験だ」


「接触実験です」


 その瞬間だった。


 ひやりとした感触が手の甲に触れる。


 玲は反射的に視線を落とした。


 千冬の指だった。


「おい」


 細い指がそのまま自分の手に重なる。


 逃げる隙もなく指先が絡め取られた。


 玲の肩が跳ねる。


「体温変化を確認」


「当たり前だろ」


 千冬は真面目に頷いた。


 その反応が余計に困る。


 次の瞬間。


 彼女が一歩踏み出した。


 距離が消える。


 柔らかな感触と、かすかなシャンプーの香り。


 玲の思考が真っ白になった。


「ちょっ……」


 声が裏返る。


 胸元から千冬の声が聞こえた。


「心拍数上昇」


「それ俺のだ」


「興味深いです」


「面白がるな」


 千冬はゆっくり顔を上げた。


 近い。


 近すぎる。


 長い睫毛が見える。


 瞳の奥まで見えそうな距離だった。


「……」


 玲は息を止めた。


 千冬は首を傾げる。


「顔面温度上昇」


「だから近いんだって」


 そのときだった。


 千冬の表情がわずかに変わる。


 ほんの少しだけ。


 迷うような顔。


「玲」


「なんだ」


 千冬は自分の胸元へ視線を落とした。


 そして、戸惑ったように眉を寄せる。


「おかしいです」


「何が」


 彼女は玲の手首を掴んだ。


 自分の胸元へ導く。


 規則正しいはずの鼓動が、掌越しにも伝わってきた。


「……私の心拍数です」


 玲は瞬きをする。


「上がってるのか」


「はい」


 千冬は小さく息を吐いた。


 まるで自分自身の反応に困惑しているようだった。


「観測データと一致します」


「何の?」


 数秒。


 沈黙。


 廊下の向こうで風が鳴る。


 千冬は玲を見上げた。


「恋です」


 玲の思考が止まった。


 完全に止まった。


「……は?」


 千冬は真顔のままだ。


「玲」


「待て」


「私は今、あなたを異性として認識しました」


 玲は額を押さえた。


 頭痛がしてきた。


 千冬はそんなことお構いなしにタブレットを操作する。


 画面に新しい文字が表示された。


 LOVE EXPERIMENT


 PHASE 2


「追加実験が必要です」


「やめろ」


「重要な検証です」


「絶対違う」


 玲は天井を見上げた。


 冬の空気が妙に冷たい。


「……冬ルート」


 誰にも聞こえない声で呟く。


「一番大変なやつかもしれないな」


 窓の外では、冬の風が静かに木々を揺らしていた。

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