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第30話 消えた娘の、最後のクリスマス

クリスマスパーティーは賑やかだった。


料理の匂いが部屋に満ちている。ローストチキンの油の香り、グラタンの熱、甘いケーキの匂い。笑い声がその上を軽く跳ねて、クリスマスツリーのライトが静かに点滅していた。


千夏はチキンを頬張り、千春はワインを飲み、千秋はケーキを丁寧に切り分けている。


千冬は相変わらずタブレットを見ていた。


そのとき。


玄関の方で、扉の開く音がした。


ガチャ。


全員が振り向く。


「ただいま」


低く、落ち着いた声だった。


千堂家の父。


千堂恒一。


千夏がすぐに声を上げる。


「お父さん、お帰り!」


恒一はコートを脱ぎながら、リビングへ入ってくる。


背の高い男だった。仕事帰りらしいスーツ姿のままなのに、それだけでこの家の空気が少し引き締まる。


「珍しいね! クリスマスに帰ってくるなんて」


千夏が言うと、恒一は少しだけ笑った。


「ああ、たまにはな」


それから、視線が玲に向く。


「……玲くんか」


玲は軽く頭を下げた。


「お久しぶりです」


恒一はゆっくり頷く。


「娘たちが世話になっている」


千秋が、ケーキの皿を置きながら言う。


「玲くんは家族みたいなもの」


千夏が笑う。


「むしろ被害者だったり?」


玲が言う。


「否定はできないな」


少し笑いが起きた。


けれど、そのあと。


恒一の視線が、一瞬だけクリスマスツリーで止まった。


静かな沈黙。


恒一が小さく言う。


「……今年も」


少し間を置く。


「賑やかだな」


千秋が言う。


「そう?」


恒一は答えなかった。


ただ、ツリーを見ている。


玲はその視線の意味を、なんとなく理解した。


そこに一人、足りないのだ。


しばらくして。


玲は廊下に出ていた。


空気を吸うためだった。


玄関近くの窓から、冬の夜の街が見える。イルミネーションの光が、遠くで静かに滲んでいた。


「玲くん」


後ろから声がした。


恒一だった。


玲が振り向く。


「少しいいかな」


「はい」


恒一に促され、玲はその部屋へ入る。


広い部屋だった。


奥には高級そうな机。手前には応接用のソファとガラステーブル。壁には本棚があり、書類も整然と並んでいる。仕事部屋というより、ここだけで別の家みたいだった。


「適当に掛けてくれ」


玲は少し緊張しながら腰を下ろす。


恒一は棚からウイスキーのボトルを取り出し、グラスに少しだけ注いだ。そして立ったまま、その琥珀色の液体を一口含む。


しばらく、黙っていた。


やがて、低い声で言う。


「玲くん」


「はい」


「君は」


少しだけ言葉を探すように間を置く。


「千咲のことを覚えているか?」


玲の呼吸が止まった。


心臓が、ひときわ強く鳴る。


「……はい」


恒一は目を閉じた。


長く、静かに息を吐く。


「やはり」


その一言は、確信というより安堵に近かった。


恒一は玲の向かいに座る。


玲が聞く。


「やはり?」


恒一は静かに言った。


「ただの勘だよ。しかし、この家で千咲を覚えているのは私だけだった」


玲は息を呑む。


「正確には、千冬に千咲の記憶はない。だが、存在は認識しているようだ」


玲の胸が締め付けられる。


「……恒一さん」


恒一は首を振る。


「皆は、一度すべて忘れてしまった」


視線が、扉の向こうのリビングに流れる。


笑い声が聞こえる。


千夏の声。


千春の声。


千秋の声。


そして、そのどこにも千咲はいない。


恒一は小さく言う。


「ある日突然」


静かな声だった。


「千咲は消えた」


玲は黙る。


恒一は続けた。


「最初は、自分の記憶がおかしいのだと思った」


苦笑する。


「仕事の疲れかとね」


けれど。


「写真が消えた」


「記録が消えた」


「部屋が消えた」


その一つ一つが、現実を削り取る音みたいに響く。


恒一の声は静かだった。


「だが」


玲を見る。


「私は覚えている」


玲は言った。


「……僕もです」


恒一の顔に、ほんの少しだけ安心が浮かんだ。


「そうか」


それから、ゆっくりと続ける。


「だが、ここ最近、娘たちは千咲の記憶を取り戻し始めている」


玲はうなずく。


恒一は言う。


「きっと、君のおかげなのだろう?」


しばらく沈黙が落ちた。


その静けさの中で、遠くからクリスマスソングが微かに聞こえた。


そして恒一が言う。


「玲くん」


「はい」


「千咲は」


少し微笑む。


「私の妻に、よく似ていた」


玲の頭の奥で、鈴の音が鳴る。


チリン。


恒一は続ける。


「よく笑う子だった」


その目が、少しだけ細くなる。


懐かしさと喪失が、同時にそこにあった。


「そして君に好意を持っていた」


玲は少し首を振る。


「……それは、たぶん違います」


恒一が聞く。


「違う?」


玲は言う。


「きっと恋じゃない。ただの幼なじみだと思います」


口にしながら、自分でもそれが本当かは分からなかった。


ただ、千咲の気持ちを勝手に一つの形に決めたくなかった。


恒一は少し驚いた顔をした。


それから。


静かに笑った。


「……なるほど」


窓の外で、イルミネーションが光っている。


恒一は小さく言った。


「玲くん」


「はい」


「もし」


少し間を置く。


「千咲をもう一度この世界に戻せるなら、どうする?」


玲の胸が強く鳴る。


けれど、答えに迷いはなかった。


「必ず救います」


恒一はゆっくり頷く。


「そうか」


そして、静かに言った。


「ならば、私も協力しよう」


玲が顔を上げる。


恒一の表情は変わらない。


だが、その声には確かな意志があった。


「なんだってしよう」


少しだけ口元を緩める。


「千堂家は、資産家だからな」


玲は思わず、小さく笑った。


その言い方が少し可笑しくて、でもひどく頼もしかった。


その夜。


消えた少女を覚えている二人が。


初めて、手を組んだ。

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