第27話 それは距離が変わった証
12月。
風は冷たかった。
理工学棟の窓ガラスが、外から吹きつける風に小さく揺れている。研究室の中は相変わらず青白いモニターの光に満ちていて、夜なのか朝なのか分からなくなるような色をしていた。
玲は机の前に立ちながら腕を組む。
「まだやるのか」
千冬は装置のケーブルを一本ずつ確認しながら答えた。
「はい」
その声に迷いはなかった。
「ループ干渉のログが増えています」
玲が眉をひそめる。
「つまり?」
「時間が不安定になっています」
千冬が顎でモニターを示す。
画面には赤い警告が浮かんでいた。
TIME DISTORTION
INCREASE
玲は装置を見る。
金属フレーム。
ケーブル。
中央の椅子。
何度見ても、まともなものには見えない。
「その状態で実験するのか」
「はい」
千冬は迷わない。
「むしろ今が観測チャンスです」
玲は小さく息を吐いた。
「お前、本当に科学者なんだな」
千冬はすぐに答える。
「当然です」
装置の中央にある椅子へ、千冬は静かに腰を下ろした。
ヘッドギアを持ち上げ、頭に装着する。
電極の先がわずかに光る。
その光景を見た瞬間、玲の胸の奥が嫌なふうにざわついた。
「待て!」
千冬が視線だけを向ける。
「何です?」
玲は装置を指さした。
「それ……危ないんじゃないのか?」
千冬は淡々と答えた。
「リスクはあります」
「じゃあやるな」
「必要です」
玲は苛立ちを隠さなかった。
「お前、死ぬかもしれないんだぞ」
千冬は静かに言った。
「それでも千咲の事故の真相が分かるなら」
玲は一歩近づく。
「……お前」
言葉が続かない。
千冬は目を閉じた。
「観測開始します」
装置が起動する。
低い駆動音。
モニターの数字が一斉に動き始めた。波形が走り、計測値が高速で更新されていく。
数秒後。
警告音が鳴る。
ピッ、ピッ、ピッ。
玲が反射的にモニターを見る。
「おい」
グラフが異常な角度で上昇していた。
TIME FEEDBACK
CRITICAL
玲が叫ぶ。
「止めろ!!」
千冬は答えない。
まぶたを閉じたまま、呼吸だけが少し速くなっている。
装置の電流が強くなる。
ケーブルが細かく震え、金属フレームが軋むような音を立てた。
玲は走った。
迷う暇はなかった。
電源ケーブルに手を伸ばし、力任せに引き抜く。
バチン。
火花のような音が一瞬だけ散り、装置が停止した。
研究室が、急に静かになる。
耳鳴りが残った。
千冬は椅子の上でぐったりしていた。
玲が肩を掴む。
「おい!」
千冬の瞼が、ゆっくりと開く。
ぼやけた視線が、玲を認識するまで少し時間がかかった。
「……観測、途中で遮断されました」
玲は怒った。
「当たり前だ! 死ぬところだったんだぞ!」
千冬は玲を見た。
数秒、黙る。
そして言った。
「なぜ、止めたのですか」
本気で聞いていた。
責めているのでも、皮肉でもない。
純粋に、理由が分からないという顔だった。
玲は呆れる。
「は?」
「死ぬかもしれなかった。それが理由ですか?」
玲は言う。
「それ以上理由がいるのか」
千冬はしばらく玲を見ていた。
そして、小さく言う。
「……非合理的です」
玲は笑った。
「ああ、そうだよ。分かってる」
千冬の視線が、わずかに揺れる。
玲の手はまだ、引き抜いた電源ケーブルを握っていた。
その手を見てから、千冬は静かに言った。
「一ノ瀬玲……」
玲が言う。
「なんだ?」
「いや……」
千冬は少し迷う。
それから、小さく言った。
「玲」
玲は少し目を丸くする。
「今、玲って呼んだか?」
千冬はほんの少しだけ視線を逸らした。
「……はい」
玲が笑う。
「ずいぶん唐突だな」
千冬は小さく言った。
「あなたは私を助けました」
玲は肩をすくめる。
「大げさだ」
千冬は首を振る。
「いいえ」
少し沈黙が落ちる。
冷却ファンの音だけが、一定のリズムで鳴っていた。
そして千冬は続けた。
「呼び方を変える理由としては、十分です」
玲は苦笑する。
「そうか」
そのとき。
研究室の窓の外に、光が見えた。
玲が振り向く。
街のイルミネーションだった。
建物の隙間を縫うように、白や青の光が静かに瞬いている。
「……もうそんな時期か」
千冬が聞く。
「何が」
玲は窓の外を見たまま答える。
「クリスマスだよ」
千冬は少し考える。
「人間社会の季節イベントですね」
玲が笑う。
「その言い方」
千冬はモニターを見る。
何かを確認するように、画面を一度だけスクロールした。
「玲……」
「ん?」
千冬は静かに言った。
「クリスマスの日」
一拍。
「事故ログの干渉が最大になります」
玲の胸が少しざわつく。
窓の外の光が、急に遠く見えた。
「つまり?」
千冬は静かに言った。
「何かが起きます」
少し間を置く。
その間に、どこか遠くで風が唸った。
「おそらく、大きな干渉です」
玲は何も言わなかった。
ただ、窓の外のイルミネーションを見つめる。
綺麗だった。
綺麗なのに、どこか不吉だった。
研究室の青白い光と、外の冬の光が、窓ガラスの向こうとこちらで静かに混ざり合っていた。




