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第26話 “いなかったこと”にされる少女

研究室の夜は長かった。


理工学棟の窓の外では、冷たい風がうなりを上げている。キャンパスの灯りはほとんど消え、夜の闇に沈んでいたが、この部屋だけは青白いモニターの光が幽霊のように揺れていた。


玲は椅子の背にもたれながら、天井を見上げた。蛍光灯の微かなハム音が、やけに耳につく。


「つまり、この装置が完成すると」


玲は視線を千冬へと向けた。


「はい。ループをコントロールできるようになる。それから……あの事故の日に戻ることも、理論上は」


千冬は手元のキーボードを叩き、複雑なプログラムを走らせていた。


「ただし。成功確率は、今のところ不明です」


玲が苦笑する。


「不明ってなんだよ。お前らしくないな」


「計算不能、という意味です。時間干渉は現代の科学でも未解明の分野ですから。変数が多すぎます」


千冬は淡々と言った。玲は机に肘をつき、彼女の横顔をじっと見つめる。


「で、なんでそんなものを作ろうとしてるんだ?」


千冬の手が止まった。モニターの冷たい光が、彼女の白い肌と無機質な瞳を照らし出す。しばらくの沈黙。静寂が部屋の隅々にまで染み出していく。


やがて、彼女は消え入るような声で言った。


「理由は、一つです。全ては千咲を救うため」


玲は目を細めた。胸の奥が、熱いナイフでなぞられたように疼く。


「……お前」


「千咲を、覚えてるのか?」


千冬は少し考え、ゆっくりと視線を巡らせた。


「正確には、覚えているわけではありません。ですが……ループの疑似体験を通じて、断片的に観測しています。その過程で、少しずつですが、私の中にも千咲の記憶が不純物のように混じり始めています」


彼女はタブレットを差し出した。そこには、何枚もの事故解析データが、死の宣告のように冷たく並んでいた。


「この事故には、収集できない要素が多すぎます。時間残響の重なり方から推測すると、この日は……何度も、あるいは何十回も繰り返されている可能性があります」


「そして、俺が生きてるってことは、最後は誰かが……俺を突き飛ばしたんだよな?」


千冬は重く頷いた。


「けれど、その代償として人物が世界から消去されています。それはおそらく、千咲。事故そのものも歴史から磨り潰され、無かったことになっている」


玲の胸が、ぎゅっと締め付けられた。


チリン。


鈴の音が、微かに脳裏をかすめた。


一瞬の視界。小さな手の感触。濡れた夜道。迫り来る巨大なヘッドライト。


玲はこめかみを押さえた。喉の奥に、鉄の味が広がる。


「……くそ」


「一ノ瀬玲」


「なんだ?」


「あなたの脳波に今、強い記憶残響が検出されました」


玲は自嘲気味に笑った。


「便利だな、その装置。隠し事もできない」


「はい。極めて合理的です」


千冬は真顔のままだった。


玲は立ち上がり、研究室の奥を見回した。机の上には、壁の端までびっしりと大量の設計図が広がっている。


「これ全部、装置の設計図か?」


「はい。基礎設計から制御系まで全てです」


玲はそのうちの一枚を手に取った。そこには理解不能な複雑な数式と、幾重にも歪んだ時間軸のグラフが描かれていた。


「お前……」


玲は少しだけ笑みを漏らす。


「本当に、科学者なんだな。ただの変わり者かと思ってた」


千冬は不満そうに、わずかに眉をひそめた。


「当然です。私がこれまで積み上げてきた研鑽を疑う理由が分かりません」


「いや。意外だなと思って。かっこいいじゃん」


千冬は少しだけ視線を泳がせ、黙り込んだ。


そして、ぽつりと落とすように言う。


「一ノ瀬玲。あなたは……意外と、無神経です」


「そうかもな」


玲が笑った、そのときだった。


モニターから、警告のアラームが鋭く響いた。


ピッ、ピッ、ピッ――。


千冬が瞬時に画面に食らいつく。グラフの線が、狂った心電図のように急激に跳ね上がっていた。


LOOP INTERFERENCE DETECTED


「なんだ、何が起きた!」


玲が詰め寄る。千冬は険しい顔で画面を凝視した。


「ループ干渉です」


「つまり?」


「時間が……いえ、現実の継続性が揺れています」


千冬はモニターの一点を指差した。


事故地点のログ。そこに『千咲』という名前が、ノイズ混じりに微かに表示されては――消える。現れては、またかき消される。


「……」


玲の胸が激しく脈打った。背中に、あの小さな手のひらの重みが残っている気がした。


「千咲……」


「はい。世界が、千咲の存在を。あの事故の事実を。必死に修正し続けています。彼女を……完全に『無』にしようとしている」


玲は椅子を蹴るように立ち上がった。


「時間が、壊れかけてるのか?」


千冬は頷いた。青白い光の中で、彼女の瞳に焦燥が滲んでいる。


「その通りです。完成を急がないと、時間残響そのものが歴史の底へ消えてしまい、二度とあの日へ戻る道が閉ざされるかもしれません」


そして。


彼女は少しだけ声を落とし、玲を真っ直ぐに見つめた。


「一ノ瀬玲」


「なんだ」


「この装置が完成すれば、ループを完全に制御下に置けます」


巨大な機械を指差す彼女の指先が、わずかに震えているように見えた。


「ですが……もし、同期に失敗した場合」


玲は眉をひそめる。嫌な予感が、胃の奥を冷やす。


「どうなる」


千冬は、淡々と――あまりにも淡々と、宣告した。


「実験事故が発生し、高密度の時間エネルギーが暴走します。その中心にいる観測者は……」


玲は言葉を奪われた。


「つまり……お前に危険が及ぶ。そういうことか?」


「はい。消失、あるいは存在の崩壊の可能性が高い」


研究室が、重苦しい静寂に満たされた。窓の外で風が吠える音が、やけに遠い国の出来事のように聞こえる。


玲はしばらく何も言わなかった。ただ、溢れ出しそうな感情を押し殺すように、机を拳で軽く叩いた。


「そんなの……ダメだ!」


玲の声が、無機質な部屋に響き渡った。


千冬が驚いたようにまばたきをする。


「何が、ダメなのですか?」


玲は逃げ場のないほどはっきりと言い切った。


「お前は死なせない。あの日を目指す代償に、お前を失うなんて認めない!」


千冬の表情が、初めて劇的に揺らいだ。紫縁の眼鏡の奥で、瞳が揺れている。


「一ノ瀬玲……。装置が完成しないと、千咲を助けには行けないのですよ。あなたの発言は、論理的矛盾を抱えています」


玲は笑った。乱暴に髪をかき上げ、歯を剥き出しにして。


「そうだな。矛盾だらけだ」


そして、一歩踏み出して続けた。


「でも、ループのルールなんてクソくらえだ! 千咲も、お前も。俺が絶対に守ってみせる!」


千冬は、言葉を失ってしばらく玲を見つめていた。まるで未知の生命体を観察しているかのような、それでいて、どこか救いを求めるような眼差し。


やがて、彼女は視線を落とし、小さく呟いた。


「……一ノ瀬玲。あなたは……」


一拍置き、彼女は言葉を探し当てるようにして、噛み締めた。


「本当に、非効率で……奇妙な人です」


玲は笑った。


窓の外では、冬の鋭い風が、さらに勢いを増していた。

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