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第25話 死んだのは“別の誰か”

研究室の空気は静かだった。


モニターの青い光が机の上を淡く照らしている。奥では冷却ファンの低い駆動音だけが一定のリズムで鳴り続けていた。玲は椅子に腰掛けたまま、画面を見つめている。


事故の図面。横断歩道。車の進路。衝突位置。そして――本来、自分が立っていたはずの地点。


玲はゆっくりと息を吐いた。


「……俺が死ぬはずだったのか?」


千冬は静かに頷く。眼鏡の奥の瞳には、感情に左右されない数値の羅列が映っているようだった。


「計算上は、その可能性が最も高いです」


「でも実際に死んだのは……千咲なんだよな?」


「データが少ないため断定はできませんが」


千冬は一度言葉を切り、玲を真っ直ぐに見据えた。


「おそらくそれは、“本来の結果”ではありません」


玲の眉がわずかに寄る。


「……何かがズレてるってことか」


「はい」


千冬は画面を切り替えた。


TIME OBSERVATION DATA


「ループ観測ログです。ただし、これは私のものではありません」


玲が顔を上げる。


「どういう意味だ」


千冬は無機質な研究室の奥を指した。


「一ノ瀬玲、こちらへ」


玲は立ち上がり、彼女の後に続く。そこには金属フレームと無数のケーブルで構成された巨大な装置があった。中央には、いくつもの電極が並んだヘッドギア型の機構が鎮座している。


玲はそれを見上げ、呆れたように呟く。


「これは……まさか、ループの疑似体験装置か?」


「はい。私は実際にループしているわけではありません」


千冬はモニターの波形を指す。


「あなたのループによって発生した“時間残響”を解析し、それを再構成しています」


玲は苦笑する。


「ははは。つまり、俺が繰り返した分だけデータが残っていて、お前は特等席でそれを観測してたってことか」


「その通りです」


玲は肩をすくめた。その拍子に、ジャケットの袖が装置の端に触れる。


「……ほんと、ろくでもないな。悪趣味だ」


その言葉には、わずかな苦笑と敬意が混じっていた。


そのとき、画面が赤く点滅し、新たなデータが展開される。


UNKNOWN LOOP DATA


玲の視線が止まる。


「……なんだこれ」


「先ほど説明した、あなたと千咲が生存しているログです」


玲は画面に顔を近づける。時間軸が事故の瞬間を指し、通常とは異なる軌道が示されている。


玲の胸が、不気味にざわついた。


千冬が淡々と続ける。


「このログでは……あなたも、千咲も……死亡していません」


その瞬間――。


チリン。


玲の頭の奥で、鋭い鈴の音が鳴る。一瞬だけ、視界が白く歪んだ。


ヘッドライト。迫る光。暴力的な雨の匂い。そして――何かに背中を強く押されたような、浮遊感。


玲の呼吸がひどく乱れる。


「……っ!」


視界が戻る。玲は額の汗を拭い、掠れた声で呟いた。


「……他の誰かが、死んだのか?」


千冬は静かに、けれど重く頷いた。


「おそらく」


一拍置き、彼女は論理の穴を埋めるように言葉を続ける。


「この結果を成立させるには、第三者の介入が必要です」


玲の眉が寄る。


「……介入?」


「あなたの位置は、物理的な法則に従った本来の衝突軌道から外れています。この座標変位は、自然には発生しません」


千冬はモニターの細部を指差した。


「少なくとも、外部からの物理的な力が加わっています」


玲の喉が鳴った。


「……じゃあ、誰かが……俺を助けたってことなのか?」


「その可能性は高いです」


千冬の声は、冷めた観測者のままだ。


「ですが、決定的な部分が観測できません」


「……どういうことだ」


「結果は、ここに存在しています。しかし、そこに至る“誰が介入したか”という情報だけが、データから巧妙に欠落している」


研究室の空気がわずかに重さを増す。玲は画面から目を離せない。


「……つまり」


千冬は静かに言った。


「誰かが関与しているとしか説明できません。ですが、それが誰なのかは分からないのです。認識できない、と言ったほうが正しいかもしれません」


玲の胸が不規則に騒ぐ。


誰かがいた。確実に。だが、その決定的な瞬間だけが、世界から剥ぎ取られたように抜け落ちている。


直感だった。玲は思わずその言葉を口にする。


「……もしかしてそれが、すべての始まり……最初のループか?」


千冬はわずかに思考し、頷く。


「その可能性は高いです。通常の時間残響とは、明らかに性質が異なりますから」


玲の胸が、鉛を呑んだように重くなる。


誰かが死んだ。その代わりに、自分と千咲が生きた。


……なんで、そんなことが起きる? ……まさか、俺が無意識に始めたのか? ……その結果、千咲が消えた? 事故そのものまで消えたのはなぜだ?


思考が、出口のない迷路を彷徨う。


やがて、玲が口を開く。


「なあ」


「はい」


「俺は、あの事故の日に戻れるんだよな?」


千冬は静かに頷く。


「はい」


「どうすれば戻れる。何をすれば、あの日に行き着く?」


千冬は手元のタブレットに視線を落とした。


「私の装置が完成すれば可能です。過去のデータを再構築し、因果の特異点へ接続します」


玲は自嘲気味に小さく笑う。


「……まだ先の話か」


「はい」


だが、千冬はそこで言葉を切らなかった。画面に静かに文字が浮かぶ。


WINTER LAYER START


「始まりましたね。私の予測では、冬ルートの敵は、これまでの事故や事件のような外的要因ではありません」


玲が眉をひそめる。


「じゃあ、一体何なんだ」


千冬は、わずかに視線を逸らした。そして、消え入るような声で言った。


「……私です」


玲が固まる。


「……は?」


「この装置が完成した場合、あなたのループを完全に制御できるようになります。全てのデータを握る私が、全ての鍵になります」


「いいことじゃないのか? 確実に戻れるんだろ」


千冬は力なく、小さく首を振った。


「その結果、私は――」


言葉が喉の奥で止まる。


「……いえ、何でもありません。独り言です」


研究室が、重苦しい静寂に包まれる。玲は一度深く息を吐き、肩をすくめた。


「……なるほどな。よく分からんが、要はラストバトルの相手が、一番近くにいたヒロイン自身ってことか」


千冬がわずかに眉を寄せ、鋭い視線を向けた。そして小さく、刺すように言う。


「一ノ瀬玲」


「なんだ?」


「そのヒロインって言い方、気に入りません。非論理的です」


玲が笑う。


「じゃあ、どう呼べばいい?」


千冬はすぐには答えなかった。青白いモニターを見つめたまま、独り言のように、けれど温かみのある声で言った。


「今まで通り、“千冬”で構いません」


冬の物語は、まだ始まったばかりだった。

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