第24話 消えた少女の座標
秋は終わりに近づいていた。
大学のキャンパスの木々は赤く色づき、風が吹くたびに落ち葉が地面を転がっていく。乾いた葉が石畳を擦る音だけが、やけに大きく聞こえた。
玲は講義棟の階段を降りながら、空を見上げた。
高い空だった。
春も、夏も、秋も。
死とループの中を走り続けてきたせいか、何も起きていない時間が逆に不自然に思える。今だけは静かだ。けれど、その静けさは、嵐の前のものにも似ていた。
そのとき、スマートフォンが震えた。
メッセージ。
送り主は千冬。
「一ノ瀬玲、研究室に来てください」
短い文章だった。
玲は小さく息を吐く。
「……来たか」
理工学棟の最上階は、相変わらず静かだった。
他の階のざわめきが嘘みたいに遠い。廊下の窓から差し込む夕方の光も、ここまで来ると薄く冷えて見えた。
千冬の研究室の扉を開ける。
青白いモニターの光が、室内を照らしていた。
「来ましたね」
千冬は椅子に座ったまま振り向いた。
白い髪の先に、画面の光が淡く映っている。
玲は机の前に立つ。
「冬ルートの説明か」
千冬はタブレットを操作する。
「その通りです」
モニターに、これまでの記録が表示された。
SPRING LAYER CLEAR
SUMMER LAYER CLEAR
AUTUMN LAYER CLEAR
そしてその下に。
WINTER LAYER UNKNOWN
玲は眉をひそめる。
「未知?」
千冬は頷いた。
「冬の時間残響予測は、まだ観測されていません」
「どういう意味だ」
「私の装置は、秋までのループしか記録できていない」
玲は思い出す。
千冬は以前、観測限界は秋までだと言っていた。
「理由は不明です」
千冬は一度画面から目を離し、玲を見た。
「ただし、一つ仮説があります。これまでのパターン上、次は私になる可能性が高い」
玲の表情がわずかに強張る。
千冬は淡々と続けた。
「当事者と観測者が同一であることで、観測に干渉が発生していると考えられます」
「……つまり、冬の中心はお前かもしれないってことか」
「はい」
その返答には、迷いがなかった。
千冬は再びモニターを切り替える。
別のデータが表示された。
数式。波形。地図。観測点。赤く印された座標。
「もともと私は、この大学で時間を含め様々な研究をしていました。そこで時間残響という波動を偶然発見しました」
玲は黙って聞く。
千冬の声はいつも通り平坦なのに、今はその一言一言が妙に重かった。
「もしかすると、あなた以外にもループしている人間が過去に存在したのかもしれません」
モニターに新しい時系列データが重なる。
「そして今年、前回の3月9日。私たちの家の近くのこの地点に、観測不能なほどの時間残響が溜まっていることを確認しました。だから私はこの日を調べたのです」
千冬の指先が、赤い点をなぞる。
「観測の結果、ここで事故が起きていたことが分かりました」
次の瞬間、画面が切り替わる。
事故現場の図面。
横断歩道。
信号。
車線。
ブレーキ痕。
衝突位置。
玲の胸が、少しざわついた。
「……これは、千咲の事故か」
「はい」
千冬は静かに答えた。
玲は画面を見つめる。
横断歩道。
車の進路。
衝突位置。
頭の奥に、雨の匂いが蘇りかける。
そのとき、千冬が言った。
「ですが、この事故はおかしい」
玲が顔を上げる。
「何が」
千冬はデータを拡大した。
線が重なり、角度が示され、衝突前後の軌道が赤く浮かび上がる。
「衝突角度、車の速度、ブレーキ痕、すべて計算しました」
玲は黙る。
画面の中の数字は読めなくても、千冬が今までにない種類の話をしていることは分かった。
「ですが、どうしても説明できない」
画面の一点に、赤い線が引かれる。
「ここです」
玲は身を乗り出した。
車の進路と、人の位置。
「……」
千冬は続ける。
「この事故で」
静かな声で言った。
「あなたは死んでいます」
玲の呼吸が止まる。
「……は?」
思わず漏れた声が、自分のものとは思えないくらい乾いていた。
「一ノ瀬玲」
千冬が玲を見る。
その視線には、いつもの観測者の冷たさだけじゃなく、どこか確認するような色が混ざっていた。
「さらに、この事故には一度だけ、あなたと千咲が生きているログも存在しています」
玲の眉が動く。
「……どういう意味だ」
千冬は画面をさらに拡大する。
「そのログの場合の事故の運動エネルギー計算、衝突位置、人体移動距離」
一つ一つ、事実を積み上げるように言う。
そして。
「他の誰かが、あなたを突き飛ばしています」
玲の胸の奥がざわつく。
鈴の音が、微かに鳴る。
チリン。
視界に、一瞬だけ光景が浮かぶ。
夜道。
ヘッドライト。
濡れたアスファルト。
そして。
小さな影。
玲の視界の奥で、小さな手が自分の背中を押した気がした。
冷たい雨。
衝撃。
倒れ込む感覚。
玲の心臓が、強く鳴る。
「……誰なんだ?」
千冬は少し黙った。
いつもなら即答する彼女が、今は言葉を選んでいる。
そして、言う。
「それは分かりません」
研究室の空気が、静かに冷えた。
「しかし、事故そのものごと千咲の存在は消えています」
その一文だけで、玲の中の何かが沈んだ。
事故だけじゃない。
存在ごと。
記録からも、記憶からも、世界からも。
千冬はゆっくり言う。
「一ノ瀬玲。冬ルートの目的は、調査することです」
モニターに文字が表示される。
INVESTIGATE
MISAKI SENDO
玲はその文字を見つめた。
千咲。
消えた少女。
幼なじみ。
死んだはずなのに、死んだことすら奪われた存在。
玲は小さく息を吐く。
秋が終わる。
冬が始まる。
そして。
消えた少女の真実が、ゆっくりと動き始めた。




