第23話 文化祭デート
大学の文化祭は、思っていたよりずっと賑やかだった。
屋台。
ライブ。
模擬店。
焼きそばの匂いが風に乗って流れてくる。スピーカーからはベースの低い音が響き、笑い声がキャンパスのあちこちで弾けていた。秋の空は高く、雲は薄い。
玲は、その喧騒の中を一人で歩いていた。
すると。
「玲ーー!」
元気な声が飛んできた。
振り向く。
千夏だった。
白いパーカーに、季節外れのショートパンツ。手にはチョコバナナ。大学の文化祭なのに、どこか小学生の遠足みたいなテンションでこっちへ駆けてくる。
「めっちゃ探したんだから! やっと見つけた! もしかして逃げてた? 笑」
「逃げてないって」
玲が言うと、千夏はにっと笑った。
「今日一日付き合ってもらうからね」
「え?」
「文化祭デート」
「勝手に決めるな」
玲が眉をひそめる。
そのときだった。
「玲くん」
後ろから声がした。
振り向くと、千春がいた。
今日は普段より少し落ち着いた服だ。長い髪を軽く巻いていて、秋の空気によく似合っている。
「千春姉?」
千春が微笑む。
「千夏」
「なに?」
「玲くんを独占しない」
千夏がむっとした。
「私が先に見つけたもん!」
千春が肩をすくめる。
「私は最初から誘ってたけど?」
「ずるい」
玲はため息をつく。
「なんだこれ」
そのとき。
少し離れた場所から、また声がした。
「玲くん」
千秋だった。
少し控えめに立っている。
薄いカーディガンに、落ち着いた色の服。秋らしい柔らかな雰囲気が、そのまま形になったみたいだった。
「千秋」
千秋が小さく笑う。
「文化祭で会えて嬉しい」
千夏がすぐに言う。
「じゃあ、みんなで回ろう」
千春も笑う。
「いいね」
こうして。
玲は四人で文化祭を回ることになった。
焼きそば。
射的。
クレープ。
千夏はずっと元気だった。
「玲! これ食べて!」
スプーンを差し出してくる。
距離が近い。
「おい」
「自分で食べる」
「えー! ない!」
千夏が不満そうに笑う。
そのとき。
千春が玲の腕を軽く引いた。
「玲くん」
「なに?」
「ちょっと」
近い。
香水の匂いがした。
千春が、耳元で囁く。
「玲くん、千夏ばっかり見てないでよ」
どきっとする。
「私もいるよ」
「いや、見てるって」
千春がクスっと笑う。
「ほんとに?」
距離が近い。
千夏が遠くで叫ぶ。
「玲ー!」
千春が離れた。
「ほら、呼ばれてるよ」
「からかわないでくれ」
千春は、いかにも楽しそうに笑った。
しばらくして。
千春と千夏は、ステージでやっているバンドのライブを観に行くと言って、先に人混みの方へ行ってしまった。
残されたのは、玲と千秋の二人。
場所は中庭。
文化祭の音はまだ聞こえるけれど、少しだけ遠い。
人の流れもゆるく、さっきまでの喧騒が薄い膜一枚向こうへ遠ざかったみたいだった。
そのとき。
遠くのステージの方から、ヴァイオリンの音が聞こえてきた。
千秋が、少しだけ顔を上げる。
「……あ」
「どうした?」
「音楽サークルの演奏」
千秋は少しだけ懐かしそうに言った。
玲はその横顔を見る。
「文化祭で演奏するの、すごいよな。千秋もやればよかったじゃん」
千秋は首を振った。
「私、ああいう場所苦手だから」
少し沈黙が落ちる。
風が吹いた。
木の葉が一枚、二人の間を横切っていく。
そのとき。
千秋が言った。
「玲くん」
「なに?」
千秋は少し考えてから言った。
少しだけ、勇気を出すみたいに。
「覚えてないよね」
「え?」
「小学生のとき」
玲は首をかしげる。
「私、助けてもらったことあるんだよ」
「助けた?」
思い出せない。
千秋は静かに話し始めた。
「小学校のとき」
「私、からかわれてて」
その声に合わせるように、玲の頭の中にぼんやりと映像が浮かびかける。
男子の声。
「暗いんだよ!」
「千堂家のくせに!」
千秋は何も言えなかった。
そのとき。
俺が止めたらしい。
「やめろよ」
男子が振り向く。
「関係ねぇだろ、チビ」
俺は言う。
「関係ある」
二個下で、小学生だった俺はたぶん小さかった。
きっと強くもなかった。
でも、必死だったのだと思う。
「こいつ泣いてるじゃん、キモ」
「うわ、行こうぜ」
男子たちは去った。
残された千秋は泣いていた。
俺はたぶん、困って言ったのだ。
「……ごめん」
千秋が聞き返す。
「なんで?」
「だって俺、強くないから」
千秋は首を振った。
「ううん」
そして、笑った。
「助けてくれて嬉しかった」
千秋の声は、今の声と少し重なって聞こえた。
それから、少しだけ黙ったあと、小さく言った。
「そのとき私、玲くんのこと好きになった」
玲は驚いて、思わず千秋を見る。
「え?」
千秋は少し照れたように笑う。
「でも、玲くん覚えてないよね」
玲は頭をかいた。
「……ごめん」
千秋が笑う。
「うん。覚えてないと思った」
少しだけ寂しそうだった。
でも、優しい笑顔だった。
少し沈黙が落ちる。
風が吹く。
遠くから、文化祭の音が聞こえる。
ベースの低い音。
誰かの笑い声。
ステージの拍手。
その全部が、今だけ二人の沈黙を包んでいるようだった。
そのとき。
千秋が言う。
「玲くん」
「なに?」
千秋は少し視線を落とした。
そして。
小さく言った。
「もし……私が玲くんのこと、一番先に好きって言ってたら」
玲を見る。
「どうなってたかな」
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
玲は答えられなかった。
答えが分からなかった。
何かを言えば、それが嘘になる気がした。
でも、何も言わないのも、ずるい気がした。
少しして、遠くから千夏の声が飛んでくる。
「玲ー!」
続けて、千春の声。
「二人で何してるの?」
千秋が言う。
「行こ」
玲は頷いた。
「……ああ」
でも。
その言葉が。
胸に残っていた。
もし、一番先に。
もし、あのとき。
答えのない問いだけが、胸の奥に静かに沈んでいく。
遠くで、文化祭の音楽が流れていた。
そのとき。
人混みの向こうから、懐かしい声が聞こえた気がした。
玲は反射的に振り向く。
でも、そこには誰もいなかった。
ただ、秋の風だけが静かに吹き抜けていった。




