第22話 音の中の記憶
千秋は、ゆっくり目を閉じた。
点滴の滴る音が、静かな病室に規則正しく響いている。機械の小さな電子音と混ざって、その夜だけが薄く引き延ばされていくみたいだった。
玲はベッドの横で、しばらく立っていた。
白いシーツの上で眠る千秋の顔は、まだ少し青白い。けれど、呼吸は確かに続いている。胸がわずかに上下するたび、玲の中に張りつめていたものが少しずつほどけていった。
やがて、小さく息を吐く。
「……生きてる」
それだけで十分だった。
千春が玲の肩を軽く叩く。
「今日はもう帰ろ」
玲は頷いた。
病室の灯りは、静かに夜を照らしていた。
それから数日後。
大学の音楽棟。
玲は久しぶりに、その廊下を歩いていた。
窓から差し込む秋の光は夏よりずっと柔らかくて、床に落ちる影まで薄かった。廊下の奥へ進むにつれて、聞き慣れた音がゆっくりと近づいてくる。
ヴァイオリンの音だった。
練習室の扉の前に立つ。
中から聞こえる旋律は、以前よりも柔らかく、穏やかだった。張りつめた糸みたいな危うさが、少しだけ消えている。
玲はノックをする。
「千秋」
扉が開いた。
「玲くん」
千秋は少し驚いた顔をしたあと、微笑んだ。
「退院したのか」
「うん」
千秋は頷く。
「まだ無理しないようにって言われてるけど」
そう言って、ヴァイオリンを軽く持ち上げる。
「少しだけ、弾きたい気分になって」
玲は部屋に入った。
その瞬間、以前の千秋と何かが違うことに気づく。
顔色はまだ少し白い。細い肩も相変わらず頼りない。
それなのに、どこか落ち着いている。
あの焦りのようなものが、消えていた。
「玲くん」
「ん?」
「この前」
千秋は少し俯く。
「ありがとう。祭り。病院でも」
玲は肩をすくめる。
「気にするな」
少し沈黙が落ちる。
窓から秋の風が入ってきて、千秋の髪をかすかに揺らした。
「私ね」
千秋が小さく言う。
玲を見る。
「ずっと怖かった」
「何が」
「止まったら」
千秋はヴァイオリンを見つめる。
「全部なくなるって」
玲は何も言わない。
言葉を挟むより、今はその続きを聞くべきだと思った。
千秋は続ける。
「でも」
ゆっくり顔を上げる。
「違った」
小さく笑う。
「止まっても、誰もいなくならなかった。みんなが居てくれた」
玲は少し笑った。
「当たり前だ」
千秋は少し照れたように目を伏せる。
それからまた、静かに顔を上げた。
「玲くん」
「ん?」
「少しだけ」
ヴァイオリンを持ち上げる。
「聴いてくれる?」
「もちろん」
千秋は、ゆっくりと弓を構えた。
最初の音は、少しだけ震えていた。
静かな音。
迷うような音。
けれど、そこには前みたいな切迫感はなかった。確かめるように、触れるように、旋律が少しずつ流れ始める。
音が部屋に広がる。
千秋の瞳が、静かに閉じられる。
その音の中で、いくつもの記憶が浮かんだ。
庭で騒ぐ千夏。
呆れた顔の千冬。
笑う千春。
家の中の何気ない日常。
噴水の水音。
廊下を走る足音。
夕方の台所から漂う匂い。
その光景が、音の中で重なっていく。
気づくと、千秋の音はさっきよりもずっと柔らかくなっていた。
張りつめていない。
けれど弱くもない。
誰かに届いてほしいと願う音だった。
そのとき。
音楽室のドアの向こうで、小さな足音が止まる。
誰かが、演奏を聞いている。
玲は気づいた。
ドアの隙間の向こうに、三つの影が見えた。
千春。
千夏。
千冬。
でも、誰も入ってこない。
ただ静かに聞いている。
邪魔しないように。
千秋がようやく見つけた音を、壊さないように。
そのとき、千秋にふと遠い記憶がよぎった。
まだ小さかった頃。
千堂家の廊下。
練習室のドアの隙間から、まだ小さな女の子が顔を出していた。
転びそうになりながら座り込み、息を潜めて演奏を聞いている。
演奏が終わるたび、小さな手で一生懸命拍手していた。
その子は、嬉しそうに笑っていた。
「千秋お姉ちゃん、すごい」
――そんな声が聞こえた気がした。
千秋は演奏を続ける。
そして。
ゆっくりと。
最後の音が、空気の中へ消えていった。
静寂が戻る。
けれど、その静けさはもう怖くなかった。
千秋が小さく呟く。
「……あれ」
玲が言う。
「どうした」
千秋は少し笑った。
「私」
ヴァイオリンを見つめる。
「ずっと一人だと思ってた」
少し間があく。
その間に、窓の外で落ち葉が一枚、舞い落ちた。
「でも違う」
千秋が玲を見る。
「この音を、ずっと聞いてくれてた人がいた」
玲は静かに頷く。
「玲くん」
「ん?」
「目を閉じて」
「なんで」
「いいから」
玲は少しだけ迷って、それでも目を閉じた。
次の瞬間。
柔らかい感触が、唇に触れた。
ほんの一瞬。
けれど、息が止まるには十分だった。
玲が目を開ける。
千秋が顔を真っ赤にしていた。
耳まで赤くなっている。
それでも目は逸らさない。
「私ね。止まっても、まだ音楽が好きだった。それを思い出させてくれたの……玲くんだから」
小さく息を吸う。
「だからこれは、お礼」
そのとき。
玲の頭の奥で、鈴の音が鳴る。
チリン。
千秋の目が見開かれる。
「……!」
玲が言う。
「どうした」
千秋の手が震えている。
ヴァイオリンを持つ指先に、細かな揺れが走っていた。
「今」
小さく呟く。
「思い出した」
玲の心臓が強く鳴る。
「……誰」
千秋の目から、涙が溢れる。
「あの小さい子」
震える声。
「ずっと私の音楽を聴いてくれてた」
玲は息を止める。
千秋が言う。
「名前……」
涙が、一筋落ちる。
「千咲!」
その瞬間。
ドアの外で、千春たちが静かに顔を見合わせた。
驚きと、確信と、胸の痛みが混じったような顔だった。
廊下の奥から足音がする。
千冬だった。
タブレットを見ている。
画面が、白く光る。
AUTUMN LAYER
CLEAR
千冬は小声で言った。
「秋イベント終了です」
玲は窓の外を見る。
紅葉が揺れていた。
赤く染まり始めた葉が、風に押されて静かに舞う。
そして。
次の季節が始まる。
冬。




