第21話 一人じゃなかった
祭りの音は、遠ざかっていた。
さっきまで耳を埋めていた太鼓や笑い声は、もうどこか別の世界のものみたいに薄れている。代わりに、救急車のサイレンだけが夜の街を裂くように響いていた。
玲は担架の横で、千秋の手を握っていた。
その手は冷たい。
細くて、軽くて、今にもどこかへ消えてしまいそうなくらい頼りなかった。
呼吸は浅い。
胸が小さく上下するたびに、玲の心臓まで引っ張られるようだった。
救急隊員が何かを話している。
血圧だとか、脈拍だとか、病院への連絡だとか。
けれど、玲の耳にはほとんど入ってこない。
「大丈夫だ」
自分でも空っぽな言葉だと思いながら、それでも何度も呟く。
「きっと大丈夫」
千秋の瞼は閉じたままだった。
返事はない。
それでも、手だけは離せなかった。
病院の廊下は、白く静かだった。
消毒液の匂いが鼻につく。
壁も、床も、天井も白いせいで、時間の感覚まで薄くなっていく気がした。
診察室の前で、四人は並んで座っている。
千春は腕を組んだまま俯いていた。
千夏は落ち着かない様子で、何度も廊下を行ったり来たりしている。
千冬はタブレットを見つめたまま、何も言わない。
玲は壁にもたれて、天井を見上げていた。
何も考えないようにしても、祭りの夜の光景が頭の奥で何度も繰り返される。
千秋の浅い呼吸。
倒れる瞬間の、あの小さな声。
しばらくして、診察室の扉が開いた。
医師が現れる。
白衣の擦れる音が、妙に大きく聞こえた。
「千堂千秋さんのご家族ですか」
千春がすぐに立ち上がる。
「はい」
医師は静かに言った。
「命に別状はありません」
その瞬間、玲の胸から一気に力が抜けた。
壁に預けていた背中が、ずるりと落ちそうになる。
助かった。
その一言だけが、頭の中を満たす。
けれど、医師はそこで言葉を切らなかった。
「ただし」
そのたった二文字で、また空気が張りつめる。
「極度の疲労です。心臓にかなり負担がかかっています」
千春が息を呑む。
「危なかったんですか?」
「ええ」
医師は頷いた。
「このまま無理を続けていたら、命に関わっていた可能性があります」
千春が目を閉じる。
その長い睫毛が、小さく震えていた。
「……あの子」
医師は言った。
「しばらく休養が必要です」
誰も、すぐには返事ができなかった。
ただ、その言葉だけが廊下の白い空気の中に残った。
病室の灯りは柔らかかった。
白いカーテン。
規則的に点滅する小さなモニター。
ベッドの上で、千秋は眠っている。
玲はその横に立ちながら、ゆっくり息を吐いた。
「生きてる……」
小さく呟く。
それは千秋に向けた言葉というより、自分に言い聞かせるための声だった。
千春が近づいてくる。
「玲くん」
「ん?」
「ありがとう」
玲は首を振る。
「いや、俺は何もしてないよ」
千春は静かに言う。
「でも、千秋を祭りに連れ出してくれた」
もし、あのまま音楽棟に閉じこもっていたら。
もし、ひとりで練習を続けていたら。
その先を考えて、玲は何も言えなくなる。
千冬が静かに口を開く。
「今回のイベントで、千秋の死亡確率は大幅に低下しました」
玲は苦笑する。
「お前、その言い方どうなんだ?」
けれど千冬は真顔だった。
「事実です」
そのぶっきらぼうな正確さが、逆に少しだけ救いになった。
まだ終わっていない。
でも、少なくとも今夜、千秋は生きている。
そのとき。
ベッドの上で、千秋の指がわずかに動いた。
「……」
瞼が、ゆっくりと開く。
「千秋!」
千夏が真っ先に駆け寄った。
千秋はぼんやりと天井を見ていた。
白い光を、まだ現実だと認識しきれていないみたいな目だった。
「……あれ? ここ?」
千春がそっと手を握る。
「病院」
千秋の視線が、ゆっくりと四人の顔を辿る。
玲。
千春。
千夏。
千冬。
全員がそこにいるのを確かめるみたいに、ひとりずつ見つめていく。
「私、なんで……」
千夏が言う。
「倒れたんだよ」
千春が続ける。
「千秋は無理しすぎ」
千秋は少し黙った。
まつ毛が震える。
「ごめん」
千春がすぐに言う。
「バカ」
その声は強かった。
でも、同時に泣きそうでもあった。
千春は目元を拭う。
「なんで一人で抱え込むの?!」
千夏も言う。
「私もずっと心配してたんだよ!」
千冬が静かに続けた。
「あなたは家族です。一人ではありません」
その言葉に、千秋の目に涙が浮かぶ。
「……みんな」
玲はベッドの横に立ったまま、千秋を見る。
「千秋」
千秋が、玲の方を向く。
「玲くん」
玲はゆっくり言った。
「もう一人で戦わなくていい」
千秋の肩が、わずかに震えた。
「私……」
小さく言う。
「止まったら、何もなくなると思ってた」
玲は首を振る。
「そんなことない」
千秋の視線が、三人の手へ落ちる。
千春が手を握っている。
千夏も反対の手を握っている。
千冬も、無言でその指先に触れていた。
誰も離れていない。
ずっと、ここにいた。
千秋の涙が溢れる。
「……私」
泣きながら、笑う。
「ひとりじゃなかったんだ。いつも、みんながいてくれてたんだね」
玲は言う。
「当たり前だ」
少し沈黙があった。
それは、気まずい沈黙じゃなかった。
やっと届いた言葉が、みんなの中に静かに沈んでいく時間だった。
そして、千秋は玲を見た。
「玲くん」
「ん?」
「ありがとう」
玲は少し笑った。
でも、その胸の奥では、まだ何かが落ち着いていなかった。
……まだ早い。
助かった。
それは確かだ。
でも、まだ終わっていない。
千冬の言葉が頭の隅に残っている。
秋ループ。
孤独。
死亡確率の低下。
つまり、まだゼロじゃない。
玲は病室の窓の外を見る。
夜の空は、祭りの灯りが遠くでかすかに揺れていた。
チリン。
気のせいかもしれない。
けれど、耳の奥で鈴の音が鳴った気がした。
秋は、まだ終わっていなかった。




