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第19話 孤独という病

秋の風は、静かだった。


夏の喧騒が嘘のように消え、大学のキャンパスには落ち葉が舞い始めている。赤や黄色に染まった葉が、風に乗って石畳の道を転がっていく。


玲は音楽棟へ通う石畳の道を歩きながら、頭の奥で鳴る鈴の音を何度も思い出していた。


夏ループを越えてから、その音は少しずつ、確かに強くなっている。


そして今、玲ははっきり理解していた。


次の季節の中心にいるのは、千秋だ。


音楽棟の扉を開けると、すぐにヴァイオリンの音が聞こえた。


柔らかく、しかしどこか細い音色。弓の擦れる音も、一つ一つはっきり聞こえてくる。


玲は廊下を歩きながらその音を追う。


音の出どころである練習室の扉は、少しだけ開いていた。


中では、千秋がヴァイオリンを弾いていた。


長いオレンジの髪が肩に流れ、細い体が楽器を抱えるように構えている。弓が弦をなぞるたび、音は空気の中へ溶けていく。


だが、その旋律はどこか不安定だった。


途中で何度も止まり、また最初から弾き直す。そのたびに、千秋の肩が、わずかに震えているのが見えた。


「……千秋」


玲が声をかけると、千秋はゆっくりと弓を止めた。


弦から離れた弓の先が、わずかに揺れている。


「玲くん」


少し驚いたように笑う。しかしその顔は、どこか疲れていた。目の下にうっすらとクマが浮かんでいる。


「また練習?」


「うん」


千秋は頷く。


「コンクール近いから」


玲は部屋を見回す。


机には大量の楽譜が積み上げられ、メトロノームが置かれている。コーヒーの飲み差しマグカップと、栄養ドリンクの空き瓶が散乱していた。練習の量が尋常ではないことが、すぐに分かる。


「ずっとここにいたのか」


「今日は朝の6時から」


玲が驚く。


「6時?」


千秋は軽く笑った。


「平気だよ」


しかしその瞬間、千秋の体が少し揺れた。


玲が思わず手を伸ばす。


「大丈夫か」


「うん」


千秋はすぐに姿勢を戻す。けれど、その指先が、わずかに震えているのが見えた。


弦を強く握りしめていた布が、白くなるほど強く握られている。


どこか突き放すように、千秋はそう言った。


「昔から、体弱いから」


玲は眉をひそめる。


「昔から?」


千秋は静かに言った。


「小さい頃から、よく熱出してた」


その視線は、窓の外に向けられている。


秋の空はどこまでも高く、澄んでいた。


「お母さんがいつも看病してくれてた」


玲の胸が少し締め付けられる。


千堂家の母、千堂千早は五年前——千春が高校生のときに亡くなっている。


「覚えてる?」


千秋が言う。


「玲くんも、お母さんに会ったことあるよね」


「ああ」


玲は頷いた。


千秋は少し笑った。


その笑顔は、どこか遠い過去を懐かしむように、優しかった。


「お母さん、優しかった」


そして、少し沈黙してから続ける。


「私ね。お母さんが死んでから、音楽しか残らなかった」


玲は何も言えない。


千秋はヴァイオリンを見つめる。


その瞳の奥には、深い感情が揺れているのが見えた。


「これだけが、私の居場所」


玲の胸の奥で、嫌な感覚が広がる。


この夏、あの場所で千夏が見せた表情と、どこか重なって見えたからだ。


そのとき、千秋が小さく呟いた。


「でも」


「でも?」


玲が聞き返す。


千秋は少し困った顔をする。


弓の先が、小さく揺れている。


「最近、変なの。なんか。誰かを忘れている気がする」


玲の心臓が強く鳴る。


「誰?」


千秋は首を振る。


「分からない」


視線は、再び窓の外に向けられている。


どこか遠くを見つめるように。


「小さい子」


玲の頭の奥で、鈴の音が鳴る。


チリン。


鈴の音は、さっきよりもはっきりと聞こえた。


千秋は続けた。


「お母さんが亡くなったあと、その子がよく私の演奏を聞いてくれていた気がする」


玲は息を止める。


「でも、思い出せない」


その瞬間、千秋の手が震えた。ヴァイオリンを抱える細い指が、コントロールを失ったようにガタガタと揺れる。


弓が、床に落ちた。


カラン、と乾いた音がする。


「……あ」


玲がすぐに支えようと手を伸ばす。


「千秋」


千秋の呼吸が、少し荒い。


表情も、みるみるうちに青ざめていく。


「大丈夫?」


「うん」


千秋はすぐに姿勢を戻す。けれど、その顔色は明らかに悪かった。唇の色は薄く、白い肌が透き通るように見えた。


「ちょっと、休め」


玲が言う。


千秋は首を振る。


「だめ」


「なんで」


「私」


千秋は言った。


その声は、ひどく弱々しかった。


「止まったら」


ヴァイオリンを見つめる。


「何もなくなる」


玲の胸が締め付けられる。


そのとき、扉が軽く開いた。


「一ノ瀬玲」


千冬だった。


タブレットを抱え、息をわずかに切らしている。


「時間残響が急上昇しています」


玲が振り向く。


千冬のタブレットの画面には、赤い文字が浮かんでいた。


AUTUMN LAYER


ACTIVE


玲は理解する。


このままだと。


千秋は——


倒れる。


そして。


死ぬ。


玲は千秋を見る。


細い体で必死にヴァイオリンを握り直すその姿は、どこか壊れそうだった。


玲は心の中で呟く。


この秋も、やり直すしかないのか?


遠くで鈴の音が鳴った。


チリン。


秋が、静かに始まっていた。


秋は静かに深まっていった。


夏ループを終えてから、玲は音楽棟へ通い続けていた。


しかし、千秋の練習は止まらない。


朝から夜まで、時には日付を越えるまで、ヴァイオリンを弾き続ける。玲が休めと言っても、千秋は笑って首を振るだけだった。


「平気だよ」「昔からだから」「もう少しだけ」。


その言葉を玲は何度も聞いた。


そして最初のループは、突然終わった。


大学の練習室の床で千秋が倒れているのを見つけたのは、玲だった。


ヴァイオリンはまだ肩にかかったまま。体は異様に熱く、呼吸は浅い。救急車を呼び、病院へ運ばれたが、その日の夜、心不全という診断で千秋は亡くなった。


過労と極度のストレスによる心臓への負担。


医師の説明は淡々としていたが、玲の頭には何も入ってこなかった。


その瞬間、鈴の音が鳴った。


チリン。


玲の視界は白く歪み、気が付くと大学の門の前に立っていた。スマートフォンを見ると、日付は秋ループ開始の日へ戻っている。


「……またか」


玲は拳を握った。


しかし二度目のループでも結果は変わらなかった。


玲は音楽棟へ通い、千秋に休むよう言い続けた。


だが千秋は練習をやめない。


むしろ玲が心配するほど、さらに追い込むようになった。玲が来るたび、練習室の隅で、栄養ドリンクの空き瓶が増えていく。


千秋は再び倒れた。


今回は練習室ではなく、大学の廊下だった。


しかも前回よりも前の日付。救急車が来たときにはすでに意識がなく、そのまま帰ってこなかった。


チリン。


鈴の音。


玲は再び同じ日に戻された。


三回目のループが始まった。


玲はその夜、千冬の研究室へ向かった。


研究室の照明はいつも通り青白く、机の上には複数のモニターが並んでいる。無音で表示されるグラフと数字が、千冬の存在を際立たせていた。


千冬はタブレットを見ながら静かに言った。


「またループしましたね」


「ああ、二回」


玲は椅子に座る。


「でも変だ」


「そうですね」


千冬は玲の言葉を先回りするように頷いた。


「千秋が死ぬ日が違う」


玲は続けた。


「一回目は10月12日、二回目は10月9日。春ループのときの千春の死亡日は同じだった。しかし今回は違う」


千冬は画面を操作しながら言った。


「確認しました」


モニターにグラフが映る。


AUTUMN LAYER


VARIABLE TERMINATION


千冬は静かに言った。


「今回のループは法則が異なります」


「どういう意味だ」


「死亡日が固定されていない。つまりこの季節のイベントは事故や事件ではなく、精神状態に依存している可能性が高い」


玲は天井を見上げる。


「……もしかして、千秋の心か」


「そうです」


千冬は続ける。


「今回の敵は外部要因ではありません」


少し間を置いて言う。


「孤独です」


千冬の言葉が、冷たい研究室の空気にじんわりと染み渡った。


玲は毎日音楽棟へ通った。


授業が終わると必ず練習室へ向かう。千秋が練習している横で黙って座り、時々水を渡し、時々他愛ない話をする。


最初の数日は千秋も戸惑っていた。


「玲くん、毎日来るの?」


「暇だから」


「嘘」


千秋は笑った。


「でもうれしい」


日が経つにつれて、千秋の表情は少しずつ柔らいでいった。練習は続いているが、以前ほど無理はしない。休憩も増えた。玲が来ると、千秋は少し安心したように笑うようになった。


そしてコンクールの日が来た。


ホールの客席は静かだった。


千秋の演奏は美しかった。


怜悧で、正確で、どこまでも澄んだ音。しかし、審査結果は良くなかった。入賞すらできなかった。


結果発表の紙を見た千秋は、一瞬だけ表情を止めた。


それから小さく笑った。


「そっか」


それだけだった。


玲はその静かすぎる反応に、かえって背筋が冷えた。


数日後の夜。玲は再び音楽棟を訪れた。


練習室の下から光が漏れている。


玲は足音を殺して近づく。いつも聞こえるはずのヴァイオリンの音はない。代わりに、規則的なメトロノームの音だけが、やけに大きく響いていた。


玲はノックしようとして、手を止めた。


中から他の音が聞こえない。ゆっくり扉を開ける。


千秋が床に座っていた。


手にはカッター。


左手首に、赤い線が一本、真っ直ぐに伸びている。


「……千秋」


千秋の肩が震えた。ゆっくりと、玲の方へ振り向く。


その顔には、涙が枯れた後のような、ひどく虚ろな目が宿っていた。


「玲くん……」


「なんでこんなことを」


玲は一歩、千秋に近づく。


千秋は震える声で言った。


「私ね、音楽しかないって思ってた。それしかなかったから」


涙が、ぽつりと落ちる。


「私、ちゃんとやったの」


千秋は泣きながら言う。


「休まないで、ずっと練習して、苦しくても弾いて」


「届かなかった」


「どうしても、届かなかった」


小さく笑っている。


その笑みは、玲が今まで見てきたどの千秋の笑顔とも違った。


このままでは本当に危険だ。


玲は千秋からカッターを取りあげようと手を伸ばす。


「千秋、もういい」


「来ないで……!」


取り乱した千秋が反射的に腕を振る。


その刃が、玲の腹部を浅く裂いた。


「……え」


千秋の顔から、血の気が引く。


玲の腹に、鋭い痛みが走る。


「……あ」


血が、服に滲む。


玲がよろめく。


千秋の顔は、さらに青ざめていく。


「……玲くん?」


玲は床に倒れる。


遠くで、メトロノームの音が規則正しく鳴り続けている。


「大丈夫、オレは大丈夫だから」


千秋の手が震える。


玲の呼吸は浅い。


視界が、少しずつ揺らぎ始めている。


でも、まだ死んではいない。


「私……私が……玲くんを」


千秋の涙は止まらない。


玲の体を抱き起こす。


まるで壊れ物を抱えるように、震える手で。


「ごめんなさい……玲くん」


玲は弱く言う。


「千秋……」


千秋は首を振る。


壊れたみたいに、何度も。


「私が……私が玲くんを……」


千秋の呼吸が、壊れたみたいに浅くなる。


「だめ………だめ……だめ……っ」


次の瞬間、千秋はカッターを自分の喉元へ向けた。


グサッ。


その瞬間、玲の視界が白くなる。


チリン。


玲は目を覚ました。


秋ループ開始の日だった。


玲は腹を押さえる。


まだ刺された痛みが残っている気がした。


ゆっくりと息を吐く。


「……次は、どうしたら」


そのときだった。


「一ノ瀬玲」


背後から声がした。


玲が振り向く。


千冬だった。


タブレットを手に立っている。


「前回は危険でしたね」


玲は少し顔をしかめる。


「……見てたのか」


千冬は淡々と言った。


「あなたが死ぬ寸前でした」


玲の背筋が冷える。


もし本当にそうだとしたら。


もし玲がその時、死んでいたとしたら。


「もしあなたが死んでいた場合」


千冬は静かに続けた。


「ループは終了します」


玲の顔が強張る。


腹の傷跡が、じん、と痛んだ気がした。


「それはあなたが死んで、二度と戻ってこないことを意味します」


玲は黙った。


胸の奥で、妙な感覚が広がる。


今まで気にしたこともなかった。


どうせ巻き戻る。


そう思っていた。


誰かを救うためなら、自分が死んでも構わない。


どこかで、そんなふうにすらも思っていた。


だが——


もし。


本当に終わるとしたら。


もし。


ここで全部終わるとしたら。


玲は自分の手を見た。


震えている。


「……」


胸の奥で、小さな感情が芽生えていた。


恐怖だった。


玲は黙る。


窓の外から、祭囃子の音が聞こえる。


どこかの通りで、秋祭りの準備が始まっているのかもしれない。


玲は顔を上げる。


「……そうか。なるほどな」


そして呟く。


「よし、千秋を外に連れ出す」


千冬が聞く。


「理由は?」


玲は前を向いたまま答えた。


「直感」


少し間。


「今回は、孤独が敵なんだろ?」


千冬はタブレットを見た。


玲は、一歩を踏み出す。


秋のループは、まだ終わらない。

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