第18話 音の奥にある違和感
秋の風は、静かだった。
夏の喧騒が嘘のように消え、大学のキャンパスには落ち葉が舞い始めている。赤や黄色に染まった葉が、風に乗り、石畳の道を転がっていく。
玲は音楽棟へ向かう石畳の道を歩きながら、頭の奥で鳴る鈴の音を何度も思い出していた。
千春を、千夏を助け、夏ループを越えてから、その音は少しずつ、確かに強くなっている。
そして今、玲ははっきり理解していた。
次の季節の中心にいるのは、千秋だ。
音楽棟の重い扉を開けると、すぐにヴァイオリンの音が聞こえた。
柔らかく、しかしどこか細い音色。弓の擦れる音が、廊下の空気に溶け込んでいく。その音は、まるで千秋の心の声を拾っているみたいだった。
玲は廊下を歩きながらその音を追う。
音の出どころである練習室の扉は、少しだけ開いていた。
中では、千秋がヴァイオリンを弾いていた。
長いオレンジの髪が肩に流れ、細い体が楽器を抱えるように構えている。弓が弦をなぞるたび、音は空気の中へ溶けていく。
だが、その旋律はどこか不安定だった。
途中で何度も止まり、また最初から弾き直す。そのたびに、千秋の肩が、わずかに震えているのが見えた。
「……千秋」
玲が声をかけると、千秋はゆっくりと弓を止めた。
弦から離れた弓の先が、わずかに揺れている。
「玲くん」
少し驚いたように笑う。しかしその顔は、どこか疲れていた。目の下にうっすらとクマが浮かんでいる。
「また練習?」
「うん」
千秋は頷く。
「コンクール近いから」
玲は部屋を見回す。
机には大量の楽譜が積み上げられ、メトロノームが置かれている。コーヒーの飲み差しマグカップと、栄養ドリンクの空き瓶が散乱していた。練習の量が尋常ではないことが、すぐに分かる。
「ずっとここにいたのか」
「今日は朝の6時から」
玲が驚く。
「6時?」
千秋は軽く笑った。
「平気だよ」
しかしその瞬間、千秋の体が少し揺れた。
玲が思わず手を伸ばす。
「大丈夫か」
「うん」
千秋はすぐに姿勢を戻す。けれど、その指先が、わずかに震えているのが見えた。
弦を強く握りしめていた布が、白く握りしめられている。
「昔から、体弱いから」
玲は眉をひそめる。
どこか突き放すように、千秋はそう言った。
「昔から?」
千秋は静かに言った。
「小さい頃から、よく熱出してた」
その視線は、窓の外に向けられている。
秋の空はどこまでも高く、澄んでいた。
「お母さんがいつも看病してくれてた」
玲の胸が少し締め付けられる。
千堂家の母、千堂千早は五年前——千春が高校生のときに亡くなっている。
「覚えてる?」
千秋が言う。
「玲くんも、お母さんに会ったことあるよね」
「ああ」
玲は頷いた。
千秋は少し笑った。
その笑顔は、どこか遠い過去を懐かしむように、優しかった。
「お母さん、優しかった」
そして、少し沈黙してから続ける。
「私ね。お母さんが死んでから、音楽しか残らなかった」
玲は何も言えない。
千秋はヴァイオリンを見つめる。
その瞳の奥には、深い感情が揺れているのが見えた。
「これだけが、私の居場所」
玲の胸の奥で、嫌な感覚が広がる。
この夏、あの場所で千夏が見せた表情と、どこか重なって見えたからだ。
そのとき、千秋が小さく呟いた。
「でも」
「でも?」
玲が聞き返す。
千秋は少し困った顔をする。
弓の先が、小さく揺れている。
「最近、変なの。なんか。誰かを忘れている気がする」
玲の心臓が強く鳴る。
「誰?」
千秋は首を振る。
「分からない」
視線は、再び窓の外に向けられている。
どこか遠くを見つめるように。
「小さい子」
玲の頭の奥で、鈴の音が鳴る。
チリン。
鈴の音は、さっきよりもはっきりと聞こえた。
千秋は続けた。
「お母さんが亡くなったあと、その子がよく私の演奏を聞いてくれていた気がする」
玲は息を止める。
「でも、思い出せない」
その瞬間、千秋の手が震えた。ヴァイオリンを抱える細い指が、コントロールを失ったようにガタガタと揺れる。
弓が、床に落ちた。
カラン、と乾いた音がする。
「……あ」
玲がすぐに支えようと手を伸ばす。
「千秋」
千秋の呼吸が、少し荒い。
表情も、みるみるうちに青ざめていく。
「大丈夫?」
「うん」
千秋はすぐに姿勢を戻す。けれど、その顔色は明らかに悪かった。唇の色は薄く、白い肌が透き通るように見えた。
「ちょっと、休め」
玲が言う。
千秋は首を振る。
「だめ」
「なんで」
「私」
千秋は言った。
その声は、ひどく弱々しかった。
「止まったら」
ヴァイオリンを見つめる。
「何もなくなる」
玲の胸が締め付けられる。
千咲。
千春。
千夏。
そして、千秋。
この世界が彼女たちから奪うものは、いつも同じだ。
居場所。
生きる意味。
そのとき、扉が軽く開いた。
「一ノ瀬玲」
千冬だった。
タブレットを抱え、息をわずかに切らしている。
「時間残響が急上昇しています」
玲が振り向く。
千冬のタブレットの画面には、赤い文字が浮かんでいた。
AUTUMN LAYER
ACTIVE
玲は理解する。
このままだと。
千秋は――
倒れる。
そして。
死ぬ。
玲は千秋を見る。
細い体で必死にヴァイオリンを握り直すその姿は、どこか壊れそうだった。
この秋も、やり直すしかないのか。
心の中で、玲は呟いた。
遠くで鈴の音が鳴った。
チリン。
秋が、静かに始まっていた。




