第17話 夏の海
八月の海は、眩しかった。
空はどこまでも青く、雲ひとつない。砂浜には白い光が反射して、目を焼く。遠くで波がざわめき、白い泡を立てては引いていく。
玲はパラソルの下で、立ったままぼんやりと海を見ていた。
千堂家の車に揺られて海に来たのはいいが、想像していたよりずっと騒がしい。
「玲ーー!!」
元気な声と同時に、水しぶきが飛んできた。
顔を上げると、海の中から千夏が大きく手を振っている。
ポニーテールをいつにも増して高く結び、スポーツタイプのビキニを着た千夏は、アスリートらしい引き締まった体で波の中を軽々と動いていた。足元に揺蕩う波も、彼女にとってはただの足場みたいに見える。
「何ぼーっとしてんの!」
玲は目を細める。
「ちょ、ちょっと待ってくれ、今行くから」
そう言って玲が海へ向かおうとした、その瞬間。
腕に柔らかい感触が当たった。
「ちょっと待ちなよ」
振り向くと、千春が玲の腕に自分の腕を絡ませていた。
大人っぽくセクシーな、真白なビキニ。シンプルなデザインのはずなのに、体のラインを際立たせるように作られている。
目のやり場に困る。
夏の太陽が、千春の濡れた髪をきらきらと輝かせている。
「海来たのに、千夏のとこ行くの?」
千春は唇を尖らせた。
その仕草も、どこか計算されたように可愛らしい。
玲は苦笑する。
「いや、呼ばれてるし」
「私と遊びなよ」
距離が近い。
潮の香りに混ざって、千春の甘い香水の匂いがした。
吐息が耳元にかかる。
「玲くんさ」
「ん?」
「海って、こういう場所なんだよ?」
千春が腕を引っ張る。
胸が軽く当たっている。
「……どういう?」
千春がクスっと笑った。
「お姉さんが、好きな男を独占する場所」
玲はむせた。
「急に何言ってんの!」
「言っちゃダメ?」
千春はいたずらっぽい目をしていた。
「……」
玲が何も言えずにいると、そのときだった。
「千春姉ずるい!!」
海から声が飛んできた。
千夏が水しぶきを上げながら走ってくる。
濡れた髪のまま、玲の腕を反対側から掴んだ。
「玲は私と泳ぐの!」
千春が言う。
「えー仕方ないな。じゃあ順番ね。先に私」
千夏がすぐに反論する。
「やだ!それに千春姉、そのままずっと玲のこと独占しようとしてるでしょ?」
「……ばれてたか」
千春が舌を出して、小さく笑った。
そして、二人が玲の腕を引っ張る。
右と左。
玲の体が、二人の間で揺れる。
「ちょっと待て」
玲が言う。
「ねえ、俺の意思は?」
二人が同時に言った。
「ない!」
「理不尽だー!!」
玲は天を仰ぐ。
千夏が笑う。
「いいじゃん」
その笑顔に、玲は結局何も言えなかった。
三人で海に入る。
波が足に当たり、白く泡立つ。
「うわ、冷たっ!」
千夏が水をかけた。
玲は思わず叫んだ。
「千夏、それじゃ全然弱いよ!」
その言葉を聞いた瞬間、千春が玲に大量の水をかけた。
頭からずぶ濡れになる。シャツが肌に貼り付いて、体の線がくっきりと浮き出た。
「あはは、玲くんのリアクション面白い」
千春が楽しそうに笑う。
二人に水を掛け返しながら、玲はふと砂浜の方を見た。
そこに、千秋がいた。
純白のワンピース型の水着。
頭には麦わら帽子。
パラソルの下で、静かに本を読んでいる。
海の喧騒から少し離れた場所で、穏やかな風の中に溶け込んでいるようだった。
「千秋」
玲が呟く。
千夏が玲の視線の先を追って、振り向く。
「あー千秋」
千春が言う。
「相変わらずだね」
玲は海から上がり、千秋の方へ歩いていった。
足元の砂が、熱を持っている。
「泳がないのか?」
玲の問いかけに、千秋が顔を上げた。
麦わら帽子の影から見えたその瞳が、少し驚いたように揺れる。
「……玲くん」
千秋ははにかむように笑った。
「私はいい」
「なんで?」
千秋は、そっと海を見る。
遠くの水平線が、青と空の境目を曖昧にしている。
「見てる方が好き」
玲は隣に座った。
砂の熱が腰まで伝わってくる。
「千秋らしいな」
千秋は少し黙ったあと、静かに言った。
「玲くんは、楽しい?」
「楽しい」
玲は素直に答えた。
楽しい。
その言葉を口に出した瞬間、玲の胸の奥で、確かに何かが揺れるのを感じた。
「よかった」
千秋は微笑んだ。
千秋の長い髪が、潮風にゆらゆらと揺れる。
その髪が、玲の頬をかすめた。
「玲くん」
「ん?」
「千夏ちゃん、元気になってよかったね」
玲は頷く。
「ああ」
陸上人生を奪われかけた千夏。
その千夏の笑顔がここにある。
それだけで、胸の中に温かいものが広がった。
千秋は海を見つめながら言う。
「千夏ちゃん、すごく頑張ってたから」
玲は千秋を見る。
千秋は少しだけ寂しそうに笑った。
その笑顔は穏やかで、けれどどこか寂しさをたたえているように見えた。
「私」
小さく言う。
「玲くんが千夏ちゃんを助けてくれて、嬉しい」
玲が言う。
「千夏自身が乗り越えたんだ」
千秋は首を振る。
「違う」
玲を見る。
その瞳は、どこか見透かしているみたいだった。
「玲くんが、いたから」
少し沈黙。
千秋は視線を海に戻した。
波の音が、規則正しく響く。
「……でも」
「ん?」
「羨ましい」
玲が聞き返す。
「何が」
千秋は少しだけ困ったように笑う。
「千夏ちゃんが」
玲は黙る。
千秋はそれ以上何も言わなかった。
ただ静かに、海の向こうを見ている。
遠い水平線の向こうに、この人だけが見ているものがあるみたいだった。
そのとき。
「一ノ瀬玲」
後ろから声がした。
振り向くと、千冬が立っている。
スクール水着だった。
実に千冬らしい。
まさかこいつ、高校のやつをそのまま着ているのか。
胸に、名前が書いてある。
「観測中です」
千冬は真顔で、タブレットを片手に、砂浜で観測していた。
玲は呆れる。
「お前は泳がないの?」
「必要ありません」
千冬は真顔で言い切る。
「水温、潮流、紫外線量はすでに測定済みです」
そのやり取りに、千夏が海の中から笑い声を上げる。
「何それ!」
「つまんなーい」
千春がそう言って、ニヤリと笑う。
そして。
いきなり千冬の腕を掴んだ。
「なっ」
千冬の体が小さく跳ねる。
「海は入るものだよ!」
千春はそのまま千冬を海に向かって引っ張っていく。
千夏も加勢した。
「せーの!」
ザバッ!!
千冬が海に引きずり込まれる。
水しぶきが舞い上がり、千冬の眼鏡にも水滴が付着した。
「……!」
千冬は固まっていた。
濡れた眼鏡の向こうで、瞳が瞬く。
「塩分濃度……」
真顔で言う。
「約3.4%」
玲は吹き出した。
「最初の感想それかよ」
千冬は海を見回す。
濡れた前髪が額に張り付き、いつもの完璧な無表情が少しだけ崩れていた。
「……でも、こういうのも、悪くない」
少しだけ、小さく言った。
その言葉を聞いた瞬間、玲は思った。
この夏のループは、もうすぐ終わるのだろう。
そのとき。
千冬のタブレットが鳴った。
ピッ、と軽快な電子音。
画面が光る。
「一ノ瀬玲」
振り向く。
千冬の目が、玲を真っ直ぐに見る。
「時間残響に変化が出ています」
玲の胸がざわつく。
「どういう意味だ」
千冬が画面を見せる。
NEXT SEASON LAYER
AUTUMN
表示された文字を、玲はただ見つめた。
玲は海を見る。
波が、白い泡を立てて引いていく。
夏の終わりを告げるように、遠くで鳥の声が聞こえた。
そして。
次の季節が始まる。
秋が。




