第16話 夏は、終わった
警備員がライバルを連れていく。
会見室はざわめいたままだった。
カメラのフラッシュが、まだ不規則に光っている。その光の狭間で、千夏はしばらく立ち尽くしたまま動かなかった。
玲はゆっくりと千夏に近づく。
「千夏」
玲の声に、千夏がゆっくりと振り向いた。
目は赤くなっていた。
けれど、涙はもう流れていない。
「玲」
千夏の声は、かすれていた。
乾いた喉から絞り出すような声だった。
「……終わったんだよね」
玲は深く頷く。
「ああ」
千夏の唇が、小さく笑みの形を作った。
「長かったな」
会見室の外からは、まだ記者たちのざわめきが聞こえる。ドアの向こうには、好奇の目と、千夏を捕らえようとする言葉が満ちているのが分かった。
千夏は静かに言った。
「ちょっと、疲れた」
玲は躊躇わなかった。
「帰ろうか」
その夜。
千堂家。
千夏の部屋の窓からは、夏の夜風が吹き込んできていた。昼間の熱気を冷ますように、カーテンが静かに揺れる。遠くで、虫の鳴く音が聞こえる。
千夏はベッドに座っていた。
玲は壁にもたれかかる。
しばらく、沈黙が続く。
言葉を探す必要はなかった。
ただ、同じ空間にいるだけで、胸の奥に灯った熱がじわじわと伝わってくる気がした。
やがて、千夏が言った。
「玲」
「ん?」
「助けてくれて、ありがとう」
玲は首を振る。
「まだ終わってないからな」
「え?」
千夏が、少しだけ目を見開く。
「お前の陸上は」
千夏は小さく笑った。
その声には少しだけ、いつもの明るさが戻っていた。
「でも、世間は忘れないよ」
「俺は忘れない」
玲ははっきりと言った。
「千夏の努力と、清く純粋な心を」
千夏が玲を見る。
その目が少し揺れた。
涙が滲んでいるのは、光のせいだけではないように見えた。
そして、小さく言った。
「玲」
「ん?」
「私、本当は怖かった」
玲は黙った。
千夏はゆっくりと、自分の膝に視線を落とす。
「負けるのが怖かった」
「だから、ずっと走ってた」
そう言って、小さく息を吐いた。
「知っているよ」
「私、走ってないとさ。自分が何もない人間になる気がして」
千夏は、少しだけ笑った。
その笑顔は、どこか諦めているように見えた。
「陸上がなくなったら。私、空っぽになるんじゃないかって」
玲は静かに言った。
「ならないよ」
千夏が顔を上げる。
その瞳は、まだ少しだけ揺れている。
「お前はお前だ。走っていても。走っていなくても」
「……そうかな」
玲は言う。
「そうだ」
しばらく沈黙が続く。
部屋を通り抜ける夜風が、千夏の髪を揺らした。
やがて、千夏は立ち上がった。
玲の前に立つ。
「玲」
「ん?」
「さっきの会見でさ」
千夏が、少し照れたように笑った。
その頬が、ほんのり赤く染まっている。
「玲、かっこよかったよ」
玲は苦笑する。
「そんなことないさ」
千夏が一歩近づく。
そっと、玲の胸ぐらを掴んだ。
指先が、Tシャツの布を軽く握っている。
「でも、ちょっとズルい」
玲は目を瞬かせた。
「助けてくれるとかさ……」
千夏は少しだけ視線を逸らした。
そして、小さく笑う。
「そんなことされたら――好きになるじゃん」
玲の思考が止まる。
千夏が、かすかな声で続けた。
「……前から、だけど」
玲の心臓が、大きく跳ねる。
そして。
千夏は、ゆっくりと背伸びをした。
ほんの少し。
指先が、玲の肩を軽く掴む。
柔らかいものが、玲の唇に、そっと触れた。
チリン。
鈴の音が鳴った。
その瞬間。
玲の頭の奥で、鈴の音が鳴った。
世界が、揺れる。
千夏の目が見開かれる。
「……っ」
かすれた声。
千夏は自分の頭を押さえる。
「あれっ? また……」
玲の心臓が跳ねた。
「どうした?」
千夏の目から、涙がこぼれた。
止まらない。
次から次へと溢れてくる。
呆然としている玲の腕を、千夏が掴んだ。
指先に力が入っている。
「思い出した……」
玲の呼吸が止まる。
「私たちには……もう一人、妹がいた」
涙が止まらない。
その言葉が、玲の胸に突き刺さった。
「小さくて、よく転んで……でも、すごく頑張る子で……」
一度言葉を詰まらせる。
夜風が、千夏のすすり泣きを運ぶ。
「いつも私の後ろを、必死に追いかけてた……」
千夏はゆっくりと顔を上げた。
濡れた瞳が、玲を真っ直ぐ見つめる。
「……私たちの、大切な妹」
玲は呟いた。
「千咲……」
千夏は、確かに頷いた。
「玲……」
「ん?」
「私……なんで、千咲のこと忘れてたの……?」
玲は、わずかに視線を落とす。
「……分からない。分からないことだらけだ」
そして、顔を上げた。
千夏の瞳には、まだ深い痛みが宿っている。
けれど、今はそれよりも、もっと強い光が灯っていた。
「でも――俺は必ず、千咲を助ける」
その言葉に、千夏の目が揺れる。
「……ループの力で?」
玲は息を止める。
「……なんで、それを知ってるんだ?」
千夏は首を振る。
「分からない……でも、千咲の記憶と一緒に……流れてきた」
玲の胸が、強く鳴る。
千春。
そして、千夏。
彼女たちの中に、千咲の記憶が戻るたびに、ループの力が流れ込んでいるのか。
それは、なぜ。
「もしかして……」
千夏が小さく笑った。
「私のことも、その力で助けてくれたの?」
玲は迷わなかった。
「ああ」
千夏の目に、もう一度涙が溢れる。
それは、悲しみの涙ではなかった。
「……そっか。そうだったんだね」
そして、まっすぐ玲を見る。
「玲。本当にありがとう」
一呼吸。
千夏の声が、夜の部屋に響く。
「私も――千咲を助けたい」
その瞬間。
部屋の外から、電子音が聞こえた。
千冬のタブレット。
画面が光る。
SUMMER LAYER
CLEARED
千冬の声が、部屋の外から聞こえてくる。
いつも通り、淡々とした声だった。
「夏ループ、終了しました」
チリン。
遠くで鈴の音が鳴る。
世界が揺れる。
空気が歪む。
夏が終わった。
窓から吹き込む風は、いつの間にか少しだけ乾いた匂いがしていた。
そして、次の季節が動き出す。
秋が。




