第14話 もう、走れない
全国大会が終わった夜だった。
窓の外で鳴く虫の声だけが、やけに遠く聞こえる。
玲は二階へ続く階段を上っていた。
足音を殺しているつもりなのに、古い木の段が小さく軋む。
その音が妙に胸に引っ掛かった。
嫌な夜だった。
知っている夜だった。
千夏の部屋の前で立ち止まる。
扉の向こうは静かだ。
静かすぎる。
玲はドアノブを握ったまま目を閉じる。
手のひらが少し汗ばんでいた。
まだ間に合う。
そうであってくれ。
祈るような気持ちで扉を開けた。
部屋は薄暗かった。
机のランプだけが灯っている。
オレンジ色の光が床へ落ち、部屋の隅には濃い影が溜まっていた。
ベッドの端に千夏が座っている。
いつも高い位置で揺れているポニーテールはほどけていた。
肩が小さく落ちている。
その背中だけで、玲は息が詰まった。
「……千夏」
呼びかける。
千夏はゆっくり顔を上げた。
泣いた後なのは一目で分かった。
目元は赤く腫れ、睫毛は涙で束になっている。
「玲」
掠れた声だった。
何日も眠っていない人間みたいな声。
玲は無理やり口角を上げた。
「起きてたか」
そう言いながら近付く。
千夏の視線がベッドの上へ落ちた。
スマホが置かれている。
画面には記事。
その下には流れ続けるコメント。
玲は内容を読まなくても分かった。
前のループでも見た。
同じ記事。
同じ言葉。
同じ夜。
胃の奥が冷たくなる。
千夏はスマホを伏せた。
カタン、と小さな音がした。
「もう見たくない」
唇が震える。
「何も」
何秒か沈黙が落ちる。
虫の声だけが聞こえる。
「私、やってない」
絞り出すような声だった。
玲はすぐ答える。
「知ってる」
間を置かない。
一秒も迷わない。
「千夏はそんなことしない」
千夏の肩が少しだけ震えた。
「でも」
膝の上で握られた拳が白くなる。
「みんなは違う」
視線が床へ落ちる。
「証拠があるからって」
声が途中で途切れる。
喉の奥で何かが詰まったみたいに。
「証拠があるなら犯人なんだって」
玲は何も言えなかった。
何を言っても軽い。
知っているからだ。
このあと彼女がどこへ向かうのか。
前のループで何が起きたのか。
全部知っている。
だから余計に言葉が出てこない。
「私さ」
千夏が呟く。
棚に並ぶメダルへ視線を向ける。
金属がランプの光を反射していた。
「ずっと走ってきたんだよ」
その言葉で玲の脳裏に光景がよみがえる。
夏の日差し。
土埃の匂い。
小学校の校庭。
ゴールテープを切った千夏が振り返る。
汗で濡れた髪。
満面の笑顔。
『千夏ってすげえ速いな!』
昔の自分の声が蘇る。
『ヒーローみたいだ!』
千夏はあの時、どんな顔をしていただろう。
思い出そうとしても胸が苦しくなるだけだった。
「全部」
千夏の声が玲を現実へ引き戻す。
「全部無駄だったのかな」
玲は首を振る。
「そんなことない」
「あるよ」
涙が頬を伝う。
「だってもう走れない」
その言葉に玲の指先が冷たくなった。
前のループ。
このあと彼女は――
「玲」
呼ばれる。
顔を上げる。
「私ね」
泣きながら笑っていた。
「ズルして勝つくらいなら負けたかった」
玲は唇を噛んだ。
「ただ速くなりたかっただけなのに」
その一言が胸に刺さる。
あまりにも真っ直ぐで。
あまりにも千夏らしくて。
「もう疲れた」
立ち上がる。
その瞬間だった。
玲の身体が先に動いた。
腕を掴む。
細い。
信じられないくらい細かった。
「千夏」
「離して」
「離さない」
声が強くなる。
千夏が振り向く。
涙で濡れた瞳。
玲はその目を見た。
逃がさないように。
「まだ終わってない」
「終わったんだよ!」
部屋の空気が震えた。
千夏の叫び声。
前のループでは聞けなかった声。
「違う」
玲は首を振る。
「真犯人がいる」
千夏の呼吸が止まる。
「……え」
「誰かが嵌めたんだ」
玲は言い切る。
証明はできない。
まだ何も掴めていない。
それでも言う。
「俺が見つける」
千夏の瞳が揺れた。
消えかけていた灯が、小さく戻るみたいに。
「どうして」
震える声。
「どうしてそんなこと言えるの」
玲は答えられない。
未来を知っているから。
何度も失ったから。
そんなこと言えるはずがない。
沈黙のあと。
千夏は小さく笑った。
「変なの」
涙を拭う。
「でも」
玲を見る。
「少しだけ信じたい」
次の瞬間。
温もりが胸へ飛び込んできた。
千夏だった。
細い肩が震えている。
玲は何も言わず背中へ手を回した。
そのときだった。
頭の奥で。
鈴の音が鳴る。
チリン。
懐かしいような。
忘れていたような音。
千夏の身体がぴくりと震えた。
「……今」
「どうした」
千夏は目を閉じる。
眉を寄せる。
「誰か」
小さく呟く。
「誰かの顔が……」
玲の鼓動が跳ねた。
「誰だ」
「せ……」
そこで言葉が途切れる。
千夏は首を振った。
「分かんない」
静寂が落ちる。
やがて千夏が少しだけ照れたように笑った。
「ねえ玲」
「ん?」
「私が全部失っても」
その声は弱かった。
けれど真っ直ぐだった。
「一緒にいてくれる?」
玲は迷わなかった。
「ああ」
即答だった。
「ずっとだ」
千夏の目からまた涙がこぼれる。
今度は少しだけ穏やかな涙だった。
そのとき。
部屋の入口で淡い光が揺れた。
千冬のタブレットだった。
「時間残響に変化が確認されました」
玲は振り返る。
だが、その言葉よりも先に理解していた。
運命はまだ終わっていない。
むしろ今、初めて動き始めた。
玲は千夏の肩を抱いたまま窓の外を見る。
夏の夜風がカーテンを揺らした。
遠くでまた鈴が鳴る。
チリン。
今度ははっきり聞こえた。
このループで終わらせる。
必ず。
何が相手でも。
もう二度と、彼女を失わない。




