第13話 真相は、逆だった
夜の大学グラウンドは、昼間に見た場所と同じとは思えなかった。
風に揺れたフェンスが、かすかに金属音を鳴らす。
照明の落ちたトラックは黒い川のように闇へ沈み、遠くで鳴く虫の声だけが空気の薄い膜を震わせていた。
玲はフェンスにもたれたまま、陸上部の部室を見つめる。
コンクリートの冷たさが肩越しに伝わってきた。
隣では千冬が黙ったまま立っている。
やがて彼女が小さく口を開いた。
「……本当に来ますかね」
虫の声に紛れそうなほど静かな声だった。
「ああ」
玲は視線を動かさない。
「来る」
それだけ言う。
腕時計を見る。
秒針の音だけが妙に耳についた。
そのときだった。
部室の扉が軋みながら開く。
蛍光灯の白い光が細く漏れ、その中から男が姿を現した。
手には分厚いファイル。
玲は無意識に足を踏み出していた。
砂利が靴底で鳴る。
「こんばんは」
男の足が止まる。
「……ああ」
わずかな間。
「千堂の友人だったか」
玲は返事をせず、ポケットの中のケースを指でなぞった。
硬い感触が掌に食い込む。
「少し話があります」
「こんな時間にか」
「サプリのことです」
その瞬間だった。
男の瞳がわずかに揺れた。
本当に一瞬だけ。
瞬きを見逃すより短い時間。
だが玲は見逃さなかった。
次の瞬間には、もう穏やかな表情に戻っている。
「あれか。疲労回復用だと説明したはずだ」
玲はケースを取り出す。
カラカラ、と乾いた音が夜気に溶けた。
「調べました」
男の目が細くなる。
「……何を」
「中身です」
玲は相手の瞳を見据えた。
「禁止薬物が検出された」
風が止んだ気がした。
虫の声だけがやけに遠い。
男は何も言わない。
長い沈黙のあと、ゆっくりと息を吐いた。
「証拠は」
「あります」
即答した。
嘘だった。
喉の奥がわずかに張り付く。
けれど視線は逸らさない。
相手が見たいのは証拠じゃない。
反応だ。
男は玲を見つめ続ける。
その視線に押されるように、首筋を汗が一筋流れた。
「それは」
男が口を開く。
「本当に私のサプリなのか」
玲の呼吸が止まりかけた。
予想していた否定とは違う。
胸の奥で何かが引っかかる。
「私が管理しているサプリは大学の栄養管理部を通している」
男は淡々と続けた。
「記録も成分表も残っている」
夜風が書類の端を揺らした。
「禁止薬物など入っているはずがない」
「だったら――」
玲は半歩詰め寄る。
「どうして陽性になった」
男の目が鋭くなる。
今度は隠そうともしなかった。
「それは私が聞きたい」
低い声だった。
夜の冷気より重い。
「もし本当に薬物が出たなら」
男は言葉を選ぶように間を置く。
「誰かが混入したか、すり替えたかだ」
玲の心臓が一度だけ大きく脈打つ。
ドクン。
耳の奥で響いた。
「私のサプリは部室の棚に保管している」
男が続ける。
「選手もマネージャーも触れる場所だ」
その言葉が頭の奥に沈む。
まるで水底に落ちた石みたいに。
何かが繋がりそうで、繋がらない。
そのときだった。
カサッ。
背後で小さな音がした。
玲は反射的に振り向く。
暗闇に沈んだトラックの端。
街灯の届かない場所。
そこに人影があった。
フードを深く被った誰か。
こちらを見ていた気がした。
だが次の瞬間には背を向けている。
「待て!」
声を張り上げる。
砂を蹴る音。
玲は駆け出そうとして――
止まる。
もう姿がない。
闇だけが残っていた。
呼吸が少し荒い。
冷たい空気が肺を刺す。
「夜のグラウンドには色々な人間が出入りする」
背後で男の声がした。
玲は答えない。
視線だけが暗闇を探している。
胸の奥に小さな棘が刺さったようだった。
嫌な予感というよりも。
何かを見落としている感覚。
「……千堂は大丈夫なんだろうな」
男がぽつりと漏らす。
玲は振り向かなかった。
返事もしない。
代わりに、隣の千冬が静かに口を開く。
「保管場所を見せてもらえますか」
男は少しだけ考えた。
風が吹き、木々がざわめく。
やがて頷いた。
「いいだろう」
そして小さく付け加える。
「むしろ調べてくれ」
玲の鼓動がまた速くなる。
胸の内側を叩く音がうるさい。
足元が揺らぐような感覚。
コーチが犯人ではない。
もしそれが本当なら――
誰だ。
夜のトラックが、答えを飲み込んだまま黙っていた。




