第12話 仕込まれていた悪意
陸上競技場から帰る途中、玲はずっと黙って歩いていた。
夏の夕方の空は、赤く焼けていた。グラウンドの方から聞こえるスパイクの音が、風に乗って遠くまで響いてくる。部活帰りの学生たちの笑い声も聞こえるのに、玲の耳にはどれも薄く遠かった。
頭の中では、さっきの光景だけが何度も繰り返されていた。
コーチが差し出した白いカプセル。
千夏が疑いなく受け取った手。
そして、ほんの一瞬だけ見えた、あの視線。
あれは偶然じゃない。
理屈より先に、そう思っていた。
「顔が険しいですね」
隣を歩く千冬が静かに言った。
玲は前を向いたまま、小さく呟く。
「……あのコーチ」
「はい」
「怪しい」
千冬は少しだけ視線を落とした。
何かを組み立てるみたいに、数秒考えてから口を開く。
「可能性は高いと思います。ドーピング検査で陽性反応が出た場合、通常は選手自身の摂取が疑われますが、外部からの混入というケースも存在します」
「つまり、サプリか」
「はい」
玲は足を止めた。
アスファルトが、まだ昼の熱を残している。
「もしあれが原因なら、証拠を掴めば千夏は救える」
千冬は頷いた。
「ただし、問題があります」
「なんだ」
「証明が難しい」
玲は苦い顔をした。
「そりゃそうだ」
千冬はタブレットを取り出し、画面を見せた。
表示されているのは、何層にも重なった波形のようなグラフだった。春のときと似ているのに、どこか形が違う。もっと鋭く、熱を持った線に見えた。
TEMPORAL ECHO
SUMMER LOOP
Layer 1
「夏のループは、まだ一層しかありません」
千冬の声はいつも通り平坦だった。
「つまりあなたは、まだこの事件の構造を理解していない段階です」
「……分かってる」
玲は拳を握った。
爪が手のひらに食い込む。
その痛みで、どうにか焦りを抑える。
「でも絶対止める。もう千夏を死なせたりはしない」
千冬は淡々と続ける。
「では、まずは証拠を確定させましょう。コーチが渡しているサプリを入手して、成分を調べる必要があります」
「簡単に手に入るか?」
「千夏から直接受け取るのが、最も簡単で確実でしょう」
玲は短く息を吐いた。
「分かった」
その夜、玲は再び千堂家を訪れていた。
庭には夏の虫の声が満ちている。屋敷の窓から漏れる明かりは柔らかく、昼間の賑やかさとは違う静けさがあった。
玄関を開けると、リビングの方から千夏の声が聞こえる。
「玲?」
振り向いた千夏が、ぱっと笑った。
今日はラフな部屋着だった。Tシャツにハーフパンツ。髪は高く結んだままで、ついさっきまでストレッチでもしていたのか、首筋にまだ汗の名残があった。
「なに? また来たの?」
それから、少しだけ口元を上げる。
「あ……もしかして私に会いに?」
玲は少しだけ冷たい口調で言った。
「ちょっとな。話があって」
千夏は、わずかに肩を落とした。
ほんの少しだけ、期待が外れたみたいな顔だった。
「なに?」
玲は少し躊躇った。
けれど、回りくどく言っている時間はない。
「あのサプリ、見せてくれないか?」
千夏が首を傾げる。
「サプリ?」
「そうだ。コーチからもらってたやつ」
千夏は不思議そうな顔をしたが、特に疑う様子もなく棚の方へ向かった。そして、小さなケースを持って戻ってくる。
「これのこと?」
玲はそれを受け取った。
白いカプセルが、整然と並んでいる。
何の変哲もない見た目だった。
だからこそ、余計に気味が悪い。
「毎日飲んでるのか?」
「うん。疲労回復用だって」
千夏はあっさり答えた。
それが当然のことみたいに。
玲はケースをじっと見つめた。
もしこれが原因なら。
千夏は、自分が何を飲んでいるのかも知らないまま、壊されることになる。
「どうしたの?」
千夏が、心配そうに顔を覗き込んだ。
玲は言葉を選ぶ。
「……もしもだけどさ」
「うん」
「このサプリが原因で、ドーピング検査に引っかかったらどうする」
千夏は一瞬きょとんとして、それから笑った。
「え、ありえないよ」
その笑い方に、玲の胸が少し痛む。
「だってコーチがくれたものだよ?」
まっすぐな信頼だった。
千夏にとって、コーチは自分を上に連れていってくれる人間なのだろう。全国。日本記録。オリンピック。その先へ行くための道を知っている大人。
だから、疑うという発想自体がない。
「玲ってさ、変なこと言うよね」
千夏は少し近づいた。
「この前も、大会出るなって言ったし」
玲は答えられなかった。
未来を知っているなんて言えるはずがない。
言っても、信じるとは思えない。
そのとき、千夏がふと声を落とした。
「玲」
「ん?」
「もしかして私のこと、心配してくれてるの?」
玲は少しだけどきっとした。
「あ、当たり前だろ。幼なじみなんだから」
千夏は一瞬だけ顔を赤くした。
それからすぐに、そっぽを向く。
「……そっか」
その横顔が、少しだけ嬉しそうに見えた。
玲はケースをポケットに入れた。
「これ借りるな」
「え?」
「成分調べる」
千夏が驚く。
「そこまでするの?」
「念のためだよ」
千夏はしばらく考えていた。
けれど、やがて小さく笑う。
「まあ、いいよ」
それから、少しだけ真面目な顔になった。
「でも、もし本当に何かあったらさ」
玲を見る。
「私を助けて」
玲は頷いた。
「もちろんだ」
その答えに、千夏は何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ安心したように目を細めた。
その夜。
千冬の研究室は、昼間よりもさらに冷たく感じられた。
白い照明の下、機械のランプが規則正しく点滅している。換気扇の低い音だけが、静かな部屋にずっと流れていた。
玲はサプリのケースを机の上に置く。
「これだ」
千冬はすぐにケースを手に取り、分析装置へセットした。
動きに無駄がない。
「分析を開始します」
機械音が、小さく唸る。
玲は黙って画面を見つめた。
秒針の音なんてないのに、一秒一秒がやけに長かった。
数秒後、画面に成分データが表示された。
玲は思わず身を乗り出す。
「どうだ」
千冬は、しばらく何も言わなかった。
画面を見つめたまま、まばたきすら少ない。
その沈黙が、逆に嫌な答えを予感させた。
やがて、千冬がゆっくり言う。
「……検出されました」
千冬が画面をこちらへ向ける。
白いディスプレイの中央に、はっきりと表示されていた。
SUBSTANCE DETECTED
ANABOLIC AGENT
玲の背筋が冷えた。
「禁止薬物……」
千冬が静かに言う。
「微量ですが、検査では確実に陽性になります」
玲は机を叩いた。
乾いた音が、研究室に響く。
「やっぱりコーチか」
千冬は少しだけ考える。
「まだ断定はできません」
「でも」
「しかし、一つだけ確かなことがあります」
玲は息を止める。
「これは事故ではありません」
その一言が、胸の奥に重く落ちた。
千冬は続ける。
「誰かが意図的に混入しています」
玲はゆっくり息を吐いた。
怒りで、肺の中まで熱かった。
コーチの顔が頭に浮かぶ。
あの穏やかな笑い方。
あの一瞬の視線。
「……なら」
玲は低く言った。
「このループで証拠を掴む」
そして、拳を握る。
「千夏は死なせない」




