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第11話 白いカプセルに、何かある

チリン。


目を覚ました瞬間、玲は天井を見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。


同じ天井。


同じ朝の光。


同じ部屋の匂い。


枕元のスマートフォンを手に取る。画面に表示された日付は、7月12日。


あの試合は、この週末だ。


やはり戻っている。


玲は目を閉じたまま呟いた。


「……またループしたか」


胸の奥には、まだ昨夜の感触が残っていた。


庭の土の匂い。


腕の中で失われていく体温。


千夏の、最後のかすれた声。


それが夢ではなかったことを、体の方が先に覚えている。


数分後、部屋のドアがノックされた。


コンコン、と静かな音。


「一ノ瀬玲、起きていますか」


千冬の声だった。


「起きてるよ」


ドアを開けると、千冬がいつも通りの無表情で立っていた。手にはタブレット。画面には、波形のような時間残響のグラフが表示されている。


「夏の時間残響が観測されました。つまり、あなたは再び同じ日を経験しています」


「分かってる」


玲は壁にもたれた。


喉の奥が少しひりつく。


「千夏が死んだ」


千冬は、一瞬だけ目を伏せた。


それは本当に一瞬で、見逃せるくらい短かった。


「はい。私も見ています」


玲は腕を組む。


爪が肌に食い込む感触で、どうにか頭を冷やす。


「千夏はやってない」


千冬は頷いた。


「私もそう考えています」


タブレットを操作しながら、淡々と続ける。


「千夏は極めて努力型のアスリートです。禁止薬物に手を出す合理性がありません」


「でも検査は陽性だった」


「はい」


千冬は玲を真っ直ぐ見た。


「つまり、第三者の関与がある」


胸の奥に、嫌な感覚がじわじわ広がる。


「……誰だ」


「それを探すのが、今回のループの目的です」


玲はゆっくり頷いた。


もう迷っている時間はない。


「なら先に動く」


「ええ」


千冬は言う。


「大会前から動きます」




数時間後。


玲たちは大学の陸上競技場にいた。


夏の日差しは容赦がなかった。


トラックの白線が焼けるように眩しい。地面から立ち上る熱気で、向こう側の景色が揺れて見える。スパイクの音、笛の音、誰かの掛け声。そこに混ざって、スポーツドリンクの甘い匂いと、乾いた土の匂いが漂っていた。


トラックでは選手たちが練習している。


その外側で、記録表を持った女子マネージャーが立っていた。


足元には給水ボトルと、補給用らしいサプリメントのケースが並べられている。


少し離れた場所には、キャップを深く被った女が一人、腕を組んで千夏の走りをじっと見ていた。


さらに、グラウンドの隅にいる部員たちの話し声が風に乗って聞こえてくる。


「コーチってさ、最近千夏に付きっきりじゃない?」


「さすがにあそこまで露骨だと、ねえ」


「まあ千夏の才能は認めるけどさ」


「何かムカつくよね」


玲は、その言葉を聞きながら視線を巡らせた。


疑うべき相手は、一人じゃないのかもしれない。


トラックの中央では、ひときわ速い影が走っていた。


千夏だ。


他の選手より、明らかに動きが違う。


無駄がない。


フォームがぶれない。


カーブを抜け、最後の直線を全力で駆け抜ける。その速さに、思わず目を奪われた。


「……相変わらず速いな」


玲は小さく呟いた。


千夏はゴールを越えると、膝に手をついて少し息を整えた。汗が首筋を伝い、肩で呼吸をしている。けれど、その顔にはまだ余裕があった。


そのとき、千夏が顔を上げる。


「あれ、玲?」


驚いた顔をして、こちらへ歩いてきた。


「なんでここにいるの?」


「練習、見に来たんだよ」


「珍しいね」


千夏は笑った。


その笑顔は、玲が最後に見た絶望の顔とはまるで違う。明るくて、強くて、何も失っていない顔だった。


「大会近いんだろ」


「うん、全国大会」


「調子は?」


「最高!」


千夏は即答した。


迷いのない声だった。


「絶対勝つ」


その言葉を聞いた瞬間、玲の胸が痛んだ。


その未来を、知っているからだ。


そのとき、背後から声がした。


「千堂、フォームが崩れているぞ」


二人が振り向く。


そこに立っていたのは、陸上部のコーチだった。


四十代くらいの男。


日に焼けた肌。厳しい目つき。けれど、それを隠すような、妙に整った笑い方をする男だった。自分の指導に絶対の自信を持っている人間の空気がある。


「はい! コーチ」


千夏が、少し姿勢を正す。


その反応が自然すぎて、玲は逆に嫌なものを感じた。


コーチは玲を見る。


「友達か?」


「幼なじみです」


「そうか」


コーチは少し笑った。


「千堂はうちのエースだ。全国でも通用する。オリンピック出場も夢じゃない」


玲はその言葉を聞きながら、コーチの顔をじっと見た。


夢じゃない。


その言葉は、たしかに千夏が一番欲しがっているものだ。


昨日の出来事が頭をよぎる。


ドーピング検査。


陽性。


絶望。


コーチが言う。


「千堂、練習メニューの変更だ。今日はここまでにしろ」


「え、コーチ。まだ走れます!」


千夏が食い下がる。


「疲労が溜まるとパフォーマンスが落ちるからな」


コーチは穏やかに答えた。


その口調には、逆らわせない種類の圧があった。


「それから」


そう言って、ポケットから小さなケースを取り出す。


「これを飲んでおけ。いつものサプリだ」


玲の視線が止まった。


白いカプセル。


小さい。何の変哲もない見た目だ。


千夏は疑いもなく、それを受け取った。


「ありがとうございます」


その自然さに、胸が強く鳴る。


「……待て」


千夏が振り向く。


「どうしたの?」


玲は言葉を選んだ。


いきなり「それが原因かもしれない」なんて言えるわけがない。根拠もない。だが、このまま見過ごすことはもっと無理だった。


「それ、いつも飲んでるのか」


「うん」


千夏は手のひらのカプセルを見た。


「コーチがくれるサプリ。たまにマネージャーさんがまとめて配ることもあるけど」


コーチが少し笑う。


「スポーツ選手には栄養管理が重要だからな」


穏やかな声だった。


正しいことを言っているようにしか聞こえない。


でも。


玲はその目を見た。


何かがおかしい。


ほんの一瞬だった。


けれど、確かに視線が揺れた気がした。


「どうした、少年」


コーチが言う。


玲は答えない。


ただ考える。


もし、これが原因だったら。


もし、この何気ない白いカプセルの中に、千夏を壊すものが入っていたら。


千夏がカプセルを口に運ぼうとする。


その瞬間、玲は反射的に手を掴んだ。


「玲?」


「……それ、飲むな」


千夏が首を傾げる。


「なんで?」


答えられない。


言えば全部が狂う気がした。


でも、止めなければもっと取り返しがつかない。


玲はコーチを見る。


コーチは静かに笑っていた。


「心配するな。安全なサプリだ」


その声は穏やかだった。


だが、玲の背筋に冷たいものが走る。


コーチの視線が。


ほんの一瞬だけ、睨んだように見えた。

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