第10話 全国大会決勝、彼女は勝った――そして壊れた
夏の空は、青かった。
雲ひとつない。
陽射しはまっすぐで、逃げ場がない。白く焼けたトラックの上では熱が揺れていて、遠くの景色が少し滲んで見えた。
スタジアムには歓声が響いている。
全国大会決勝女子800m。
陸上競技場。
玲は観客席に座っていた。
隣には千春がいる。首元を手であおぎながら、汗ばんだ額を指先で押さえていた。
「今日は本当に暑いねー。千夏、大丈夫かしら」
玲は頷いた。
「ああ」
そう答えたものの、胸の奥のざわつきは消えなかった。
嫌な予感が、朝からずっと居座っている。
熱中症だとか、緊張だとか、そういう現実的な不安とは少し違う。もっと、鈴の音みたいに曖昧で、それなのに確かに嫌なものだった。
そのとき、自分のレーンに千夏が立った。
ポニーテール。
研ぎ澄まされた横顔。
肩を回し、軽く跳ねるようにウォーミングアップをしている。余計な力が入っていないのに、体の芯だけが真っ直ぐ張っているのが、遠目にも分かった。
スタート位置へ戻る途中、千夏がふと顔を上げた。
観客席を見渡し、玲たちを見つける。
そして笑った。
いつも通りの、明るくて強い笑顔だった。
その笑顔を見た瞬間だけ、玲の胸は少し軽くなった。
けれど、その直後に別の声が蘇る。
次は夏です。
千冬の、あの平坦な声。
鈴の音みたいに、頭の奥に残って離れない。
選手紹介が始まる。
アナウンスが場内に響いた。
「第4レーンは千堂千夏さん。予選は大会記録に迫る第1位。今大会この種目での一番の注目選手です」
その瞬間。
「せーの、千夏ー!!」
怒号みたいな声援が、スタジアムにぶつかった。
大学の陸上部らしい。揃いの声が熱気を押し上げて、観客席の空気まで震わせる。
千夏はそれに応えるように、大きく手を振った。
堂々としていた。
誰よりも、あの場所が似合っていた。
やがて全選手の紹介が終わる。
スタジアムが静まる。
観客のざわめきがすっと細くなり、風の音まで聞こえそうになる。
スターターの声。
「セット」
選手たちが一斉に構えた。
玲は無意識に手すりを握る。
指先に汗がにじんでいた。
パンッ!
乾いた破裂音。
スタート。
千夏が飛び出す。
速い。
最初の一歩から、他の選手と違った。
第1、第2コーナーを抜け、オープンレーンになる。
千夏は迷いなく先頭に出た。
誰かの動きを窺うでもなく、自分のレースだけを走っている。
バックストレートで、さらに差が広がる。
圧倒的だった。
一周目をトップで通過。
電光掲示板に映ったラップタイムに、観客席がざわつく。
大会記録を超えるペース。
独走。
「すごい」
千春が思わず言った。
「相変わらずだね」
玲は答えなかった。
言葉が出なかった。
千夏は一人だけ、別の次元を走っていた。
フォームは崩れない。
呼吸も乱れて見えない。
残り200m。
独走状態。
誰もついて来られない。
優勝はもう決まっていた。
それでも千夏は、さらに追い込む。
歓声が一気に膨れ上がった。
スタンド全体が揺れているように感じる。
そして――
ゴール。
千夏が、一番にテープを切った。
優勝。
大会記録更新。
黄色い表示板に止まったタイムを見た瞬間、スタジアムがどっと沸いた。
千夏が笑う。
両手を軽く上げる。
汗に濡れた顔が、太陽の下で眩しかった。
「千夏ー!!」
気づけば、玲は声を張り上げていた。
自分でも驚くくらい大きな声だった。
千夏がそちらに気づく。
そして、大きくガッツポーズをした。
「玲ー!! 私、ついにやったよ!!」
玲の胸から、少しだけ重さが抜けた。
……良かった。
何も起こらなかった。
そう思った。
そのときだった。
千夏の足が、一瞬だけもつれた。
ほんの一瞬。
誰も気づかないほど小さな違和感。
でも、玲は見逃さなかった。
視界の端で、確かにバランスが崩れた。
次の瞬間には立て直していたけれど、その一拍の乱れだけが妙に胸に残った。
レース直後、異変は起きた。
係員が数人、千夏の方へ駆けていく。
審判も来る。
千夏の周りの空気が変わった。
歓声がざわめきへと変わる。
「ドーピング検査を実施します」
その言葉が、場内放送よりもずっと近く、玲の耳に落ちてきた。
胸が強く鳴る。
「……え」
千春が呟いた。
「まさか」
千夏は一瞬きょとんとした顔をしていた。
それから、何かを理解したように笑顔を消した。
数時間後。
控室の前の廊下。
白い蛍光灯の下で、時間だけがいやに長く伸びていた。
玲たちは壁際で待っていた。
千春は何度もスマホを見て、また伏せる。その動作を繰り返している。玲は立ったまま、廊下の先ばかり見ていた。
やがて扉が開いた。
千夏が出てくる。
顔が青かった。
さっきまでトラックの上で輝いていた人間と、同じとは思えない顔だった。
「千夏!」
千春が駆け寄る。
「どうだったの?」
千夏の唇が、かすかに震えた。
「……陽性」
玲の思考が止まる。
「そんなわけ。でもまだ簡易検査だろ?」
千夏は首を振った。
「私、やってない」
その声は、ひどく小さかった。
「絶対にやってない。でも、自分でも分からない」
目に涙が浮かぶ。
それを見た瞬間、千春が千夏を抱きしめた。
「分かってるよ、千夏」
千夏は何も言わなかった。
千春の肩に額を押しつけるみたいにして、ただ立っていた。
けれど、スタジアムの空気は冷たかった。
廊下の向こうで、ひそひそと声がする。
「ドーピングらしいよ」
「やっぱり」
「千堂家の娘だし」
ざわざわとしたその音が、壁を通って皮膚の下まで入り込んでくるみたいだった。
千夏の肩が震えていた。
玲は言った。
「きっと大丈夫だ。気にするな」
自分でも薄い言葉だと思った。
それでも、何も言わないよりはましだと信じたかった。
千夏が小さく笑う。
けれど、その笑いはすぐ消えた。
「無理だよ」
静かな声だった。
「私、終わった」
玲の胸が締めつけられる。
「そんなことないだろ」
「ある」
千夏はまっすぐ前を見たまま言った。
「陸上が私の全部だった」
その一言に、玲は何も返せなくなった。
翌日。
玲は千夏の部屋の前に立っていた。
閉じたドアの向こうは静かだった。
千夏はずっと部屋に閉じこもっているらしい。
廊下の窓から見える空は高く、どこまでも青かった。
あれほど好きだった空が、今日はやけに遠く見えた。
「千夏?」
返事はない。
「お前、まだ終わってないだろ」
沈黙。
玲はドアの前で立ち尽くしたまま続ける。
「まだ再検査だってある。きっと何かの間違いだって」
しばらくして、ドアがほんの少しだけ開いた。
隙間から、千夏が顔を覗かせる。
目が赤かった。
「……ほんと?」
玲は頷く。
「ああ」
少し沈黙があった。
そのあと、千夏が小さく言う。
「じゃあさ、結果出たら、また走っていい?」
その声は、ひどく子どもみたいだった。
玲は笑った。
「当たり前だろ」
ドアの向こうで、小さく笑う声がした。
「そっか。ありがとう、玲」
それから、少しだけ元気を取り戻した声で続ける。
「次は私、日本記録を出して、オリンピックに出るんだ」
玲は、その言葉に救われるような気がした。
まだ折れていない。
まだ終わっていない。
そう思いたかった。
けれど。
正式な検査結果は、陽性だった。
千夏はまた部屋に閉じこもった。
深夜の千堂家は、昼間とは別の家みたいだった。
広すぎる廊下。
足音を吸い込む絨毯。
どこか遠くで、古い時計が時を打つ音がする。
玲は眠れなかった。
千夏が心配で、胸のざわつきがどうしても消えなかった。
それで、様子を見に来た。
廊下を歩く。
暗い窓に、自分の影だけが映っている。
そのとき。
外から、大きな音がした。
ガタン。
嫌な音だった。
心臓が一気に跳ねる。
玲は走った。
「千夏!」
玄関を開けて、外へ飛び出す。
夜の庭は静かだった。
噴水の音も止まっているように感じる。
月明かりの下、庭の隅に人影が倒れていた。
「……千夏?」
玲は駆け寄った。
膝をつく。
体を揺らす。
「千夏!」
千夏が、薄く目を開ける。
「……玲」
声が弱い。
細い糸みたいな声だった。
「ごめん」
「バカ!」
玲は叫んだ。
喉が裂けそうだった。
「なんでこんなこと!」
千夏が、かすかに笑う。
ひどく力のない笑みだった。
「だって私、もう走れない」
玲の胸が裂けそうになる。
「そんなことで死ぬな! オリンピック出るんだろ!」
千夏は、小さく息を吐いた。
「玲、最後に……」
一瞬だけ、言葉を探すみたいに迷う。
そして、ほんの少しだけ目を細めた。
「……走りたかったな」
その声は、夜の空気に溶けそうなくらい小さかった。
それから、もう一度だけ玲を見た。
「好きだったよ」
玲の目が見開く。
千夏の手が、力なく落ちた。
「……千夏?」
返事はない。
「千夏」
もう一度呼ぶ。
動かない。
玲の手の中で、千夏は静かになっていた。
さっきまであった温もりが、ゆっくりと遠ざかっていく。
それを、玲は止められなかった。
腕の中で、命が消えていく。
その感覚だけが、生々しく残る。
玲は歯を食いしばった。
叫びたかった。
泣きたかった。
でも、何もできなかった。
――また、間に合わなかった。




