第9話 全国大会で、彼女の死を予感した
千堂家のリビングは広かった。
高い天井。
大きな窓。
磨き上げられた床に、夕方の光が長く伸びている。
まるで高級ホテルのロビーみたいだった。
玲は、ふかふかすぎるソファに腰を下ろしながら、小さく息を吐く。
「落ち着かないな……」
思わず漏れた声に、横からすぐ返事が飛んできた。
「何が?」
振り向く。
千夏だった。
スポーツウェア姿で、髪はいつものポニーテール。家の中だというのに、今にもそのまま走り出せそうな格好だった。
「玲、ちょっと外来て」
「なんで」
「いいから」
言うが早いか、千夏は玲の腕を掴んだ。
ぐい、と遠慮なく引っ張る。
「ちょ、引っ張るな」
「うるさい」
昔と同じ調子だった。
玲は抵抗する暇もなく、そのまま庭へ連れ出された。
夕方の庭には、昼間の熱が少しだけ残っていた。
それでも風は涼しい。
芝生を撫でてきた風が、そのまま首元を抜けていく。噴水の水音が遠くで聞こえて、広い庭全体を静かに冷やしているみたいだった。
千夏は玲の前で立ち止まり、腕を組んだ。
「で、大学どう?」
「普通」
「彼女、できた?」
玲はむせた。
「なんでそうなる」
千夏が笑う。
「だって気になるじゃん。幼なじみとして」
「幼なじみ?」
玲は首を傾げる。
「そんな関係だったか?」
「ひどい!」
千夏が眉を上げる。
「小学生の頃、あんなに毎日一緒に遊んでたのに」
責めるような口調なのに、その声はどこか楽しそうだった。
玲は少し笑う。
「覚えてるよ」
その一言で、千夏は少しだけ静かになった。
「……そっか」
風が吹く。
ポニーテールが揺れて、青い髪が夕方の光を反射した。
沈黙が落ちる。
噴水の水音だけが、やけに大きく聞こえた。
千夏が、ふいに言った。
「玲」
「ん?」
「私さ」
千夏が真っすぐ玲を見る。
逃げる気のない目だった。
「玲のこと、ずっと好きだったよ」
玲の思考が止まった。
「……は?」
千夏は少しだけ照れくさそうに笑う。
けれど、視線は逸らさなかった。
「小学生の頃から。ずっと」
心臓が、ひどく変な打ち方をした。
夕方の風が急に遠くなる。
玲は口を開いたまま、しばらく何も言えなかった。
「なんで今言う」
ようやく出た声は、思ったより掠れていた。
千夏が笑う。
「だって今なら言える」
「なんで?」
「分かんない」
そう言って、空を見上げた。
西の空は、もう少しで夜に沈みそうな色をしている。
「でもさ、なんか時間が少ない気がする」
玲の胸がざわついた。
その言葉は、軽く言ったはずなのに軽く聞こえなかった。
時間が少ない。
その響きが、胸の奥の嫌なところにまっすぐ落ちる。
千夏が少し近づいた。
「でも安心して」
玲を見る。
「千春姉ちゃんには、たぶん勝てない」
玲が眉をひそめる。
「何の話だ」
千夏が笑った。
「バレバレだよ!」
そして、いたずらっぽく言う。
「キス、したんでしょ?」
玲がまたむせた。
「なんで知ってるんだよ」
「え、マジか……」
今度は千夏の方が固まった。
どうやら本当に、ただのはったりだったらしい。
複雑そうな顔で玲を見る。
「でもさ」
「何だよ」
千夏は、ほんの少しだけ声を落とした。
「私もしてみたい」
玲が固まる。
「……は?」
一拍置いて、千夏が吹き出した。
「冗談だよ!」
それから、少し間を置いて。
小さく付け足す。
「半分ね」
その言い方が、妙に本気っぽくて困る。
玲が返事に詰まった、そのときだった。
玄関の扉が開く音がした。
「千夏、整体師の人来たよ」
千秋の声だった。
落ち着いた、少し低めの声。
千夏が大きくため息をつく。
「はーい」
いかにも面倒そうな返事をしてから、玲の方を見る。
「今度さ。陸上、見に来てよ」
「陸上?」
「大会」
「いつ?」
「再来週。全国大会!」
その瞬間。
玲の胸が、ひどくざわついた。
再来週。
全国大会。
夏。
その単語が繋がった瞬間、頭の奥で何かが鳴る。
チリン。
鈴の音だった。
耳の奥で、小さく、けれど確かに響く。
玲の足元から、体温がすっと抜けていく。
次は夏です。
千冬の言葉が、鮮明によみがえる。
玲は、気づけば呟いていた。
「……千夏」
「ん?」
「大会、出るな」
千夏がきょとんとする。
「なんで?」
言葉に詰まった。
なんで、なんて説明できるわけがない。
まだ何も起きていない。
何も見ていない。
それなのに、分かってしまう。
このざわつきは、もう知っているものだった。
春に千春を失いかけたときと同じだ。
鈴の音が鳴るたび、季節は死を連れてくる。
「なんでって……」
言えない。
言えないけど。
胸の奥では、はっきりと形になっていた。
この夏。
千夏は――死ぬ。
千夏は少し笑った。
「変なの。玲らしくない」
そう言って、軽く玲の肩を叩く。
その手は、陸上で鍛えた人間らしく、軽いのに芯があった。
「大丈夫! 私、負けないから!」
明るい声だった。
いつもの千夏の声。
前しか見ていない人間の声。
その明るさが、かえって玲の胸を締めつけた。
負けない。
そう言える人ほど、簡単に壊れてしまうことを、玲はもう知っている。
遠くで、またチリンと鈴が鳴った。
風が庭の木々を揺らす。
噴水の水面が細かく震える。
夕方の空は、春の色をまだ少し残しているのに、その奥ではもう別の季節が息を潜めていた。
玲は何も言えなかった。
言葉にすれば、本当にそうなってしまいそうだった。
けれど、黙っていても始まってしまう。
夏が、本格的に動き出していた。




