第89話 魔王討伐②
シルヴィア・メディチ・ヴァルハイム王妃にとって、美しくあることは一族の悲願だった。
ヴァルハイム家の王太子の嫁入り候補には複数の有力貴族のご令嬢が名を連ね、その中の一角メディチ家は一族総出でシルヴィアの美貌管理に没頭した。
少しでも王妃となる確率をあげるため。
一族に王族の血を迎えいれるため。
シルヴィアは健康状態や体型のわずかな変化も侍女たちに監視され、外出も好きなことも規制され、所作を厳しく指導されて育った。
やがて安易な発言すら禁じられ、許されたのは楚々と控えめに浮かべる笑みだけ。
けれどシルヴィアに不満はなかった。
自分自身の中に、もう一人の自分がいることに気づいたから。
彼女と話をして、本音を伝える。彼女はいつも楽しそうに聞いてくれる。
それで十分だった。
それに王太子に選ばれ、見初められるという歓びに気づいたから。
うつくしくあるために生きてきたことが、誇らしくもあった。
やがて老いが美しさに陰りを見せ始めることに気づいた。
それは明確な恐怖だった。
自分が自分でいる理由の全てが徐々に失われているような感覚だったから。
自分を映すありとあらゆる物を遠ざけた。
鏡……反射率の高い物全てを。
自分自身を美貌を確認することをやめ、その代わりに周囲からの美しいという賞賛を信じた。
毎日、侍女に美しいか確認し、王にもそれを言わせた。
だが、他人の美しさは嫌でも目に入ってしまう。
一人の美しい聖女がいた。
聖女を賞賛する、民の声が耳に入るようになった。
確かに長く白い髪は珍しく、美しく見えた。だが、近くで挨拶をした際、哀れみを抱いた。細部が美しくなかったから。
家事などの庶民の雑事をしていたのか、聖女の手先の肌は荒れていたし、所作は村娘と変わらず粗雑、気品はなく、顔だって洗練された美しさは感じられなかった。よく言えば親しみやすくかわいらしい、本音でいえばありふれた凡用品だと、シルヴィアは思った。
けれどもなぜか、日に日に聖女を賞賛する声が増していく。疑問だった。なぜ、わたくしではなく、聖女ばかり褒めるのだろうか。
「聖女様はうつくしいのです」
侍女の一人に尋ねた時そう返答があった。
「手が荒れていました。肌の荒れは美しいとは言えません」
「……それも含めて、心のあり様が、外見に現れています。ですから皆、美しいと言うのです」
侍女が手を組み合わせて、祈るように呟く。
「なら、逆説的にわたくしの心も美しいのではないですか? わたくしの外見は美しいでしょう? 外見が心のうつくしさを表すとも言えるのではないでしょうか? 誰もわたくしの心のうつくしさを褒めて下さらないのはなぜでしょう?」
シルヴィアの素朴な疑問だった。
初めての嫉妬だった。
美しくあることがシルヴィアの存在意義だったから。
心の美しさを褒めてもらったことがないことに、不安を抱いた。
「……えぇ。もちろんです。シルヴィア様の心も美しいです」
祈るように手を組む侍女の首を、近くの剣で刎ねた。
鏡と違って、遠ざけてもわたくし以外の者を美しいと思うはずだから。
殺すしかなかった。そう、純粋に思った。
許せなかったから。わたし以外をうつくしいと思う心を消さなければならない。
初めて浴びた血は温かった。
遅れて部屋に叫び声が響いた。
シルヴィアはドレスを真っ赤に染めたまま、他の侍女に尋ねた。
「あなたはどう思いますか? わたくしの心を褒めてくださいますか?」
「え、えぇ。私は、シルヴィア様の心が美しいと、思います。い、いつも慈愛に満ちていて、それでいて……」
シルヴィアは満足した。言葉を信じていたから。
けど、その言葉が自分自身の心を乱す。
其処彼処から、聖女を美しいという賛美が聞こえてくるから。
あぁ、だったら聖女の首を――。
老いがやがて手足に現れていく。
秋の枯れ枝のような手足。鏡がなくとも、称賛の言葉をもってしても、自分自身の美が失われていることを自認せざるを得なくなっていった。
若さに嫉妬した。
この世界への憎しみが日々募っていく。
だが、どれだけ不満を伝えても、王は呆れたような表情をするばかり。
それどころかお前は狂っていると、離れの塔に幽閉されてしまった。
自分自身の中の、もう一人の自分は、出会った頃と変わらず若いままだった。美しくて、見ているだけで安心する。ずっと見ていたい。
話相手は若き日の自分だけになっていく。
抑圧されてきた鬱憤を毎日伝える。
とある日、話相手の自分が初めて口を開いた。
『あなたのうつくしさに気付かない世界は滅ぼしてしまえばいいじゃない』
『侍女のように、聖女のように、首を刈りその心を奪えばいい』
「簡単なことでは、ありません」
自分の声は枯れていた。
『簡単だよ。力をあなたに与えるから。私はいつもあなたの味方。私は、あなたのうつくしい心から、生まれたのだから』
……。
今世の人間の身体は馴染みがよい。
リッタの結界の中。
地を這う要塞制圧魔獣、テラノクス。
空を覆う異形の堕天使、アザリエル。
半透明の顔のない人型魔獣、ヴェール。
空を駆けるネクロドラゴン。
荒野を埋め尽くしている。
軍勢の三分の二はおいてきたが、竜を狩るには十分過ぎる。
リッタが血の海に沈んでいる。
何回と見た、どこまでも広がる荒野。忌まわしい、竜の魔力が宿る、土と風の結界。また十数年の時を閉じ込められるのだ。リッタのつまらない戦い方。だが、効果的なやり方でもある。
かといってリッタを逃し、成長されては脅威となる可能性がある。
だからリッタは、初めに狩らなければならない竜でもあった。
この結界に閉じ込められるのは仕方がない。
だが今回は世界に魔族を解き放った。彼らが勇者を狩り、国を滅ぼしてくれるはずだ。十数年後、この結界をこじ開ければ、我らの魔族が帝国を築いていることだろう。後は自分が降臨し、人々を滅ぼせばいい。魔王はそう思う。
リッタを狩り終えた後、のこのこと現れた憎き竜を、魔王が見据える。
自分の覇道を幾度となく邪魔をした、呪いの竜。
しかし、今はまだ取るに足らない最弱の竜のはずだが。血迷ったのだろうか。
強くなるまで逃げ回るだけのみすぼらしい竜、ミスティ。
忌まわしいことに殺しても意味がない。酔狂でここにいるのか。
血だまりでうつ伏せになっているリッタの横でミスティが笑みを浮かべた。
「こんばんわ。魔王。やっと見てくれましたね」
「珍しいではないか、ミスティ。いつもネズミのように逃げてばかりのくせに」
何度も阻んだ。憎き相手。
あと一歩……あと一歩で人類を根絶やしにできるところまで行っても必ず阻止される。殺しても無駄と分かっていても、その声を聞くと虫唾が走る。
贋作『邪神殺しの槍グングニル』
リッタから奪った武器。
指でミスティを示す。うなりを上げて、ミスティの腹を貫いた。
彼女の顔が苦痛に歪む。口から血が溢れる。
弱いくせに、不死身のくせに、痛みを感じる。涙さえ浮かべている。
最弱で孤独で、仲間からも忌避されている竜王。
なんと無様な生き方か。
「ごふ。……いいの? 私に血を流させて」
「構わない。今のお前は出がらしだろう? 恨みつらみのない今世ではな」
「いいえ」
ミスティの赤い唇が呪いを告げる。
「今世の私達は……」
「……呪式……英雄、召喚」
血だまりから一人の悪鬼が生まれる。




