第70話 訓練
修道院の離れの道場。
いつも剣術を教えてくれるおじさんがいた。
おじさんはティアに飼われている。多分。ずっと道場にいるから。きっと仕事もしていない。ごく潰しというやつだろう。
彼は道場の奥で座禅を組み、意識を統一している。『気』が溢れ、全身に光を纏っているように見えた。清らかな水の如くよどみがない。
おじさんの視線の先には靴下が飾ってあった。
ふと彼の『気』が揺らいだ。彼は立ち上がり靴下を額縁から外すと、抱きしめ顔をうずめ、グリグリと顔を横に振り始める。
『気』は臭い立つほどに淀んでしまった。
残念だ。
「おじさんは変人だ。……間違えた。師匠は変態だ」
心の声が漏れる。
おじさんは変態だから師匠と呼びたくないが、師匠と呼べと言われているので言い直した。
振り返ったおじさんは、白いひげ、深いシワに、酸いも甘いも見てきたかのようなやさしい瞳、静かな所作、老紳士と呼ぶにふさわしい容貌。
だが変態だ。
「エル。まだ靴下の良さがわからんか」
「分かってたまるか」
「……心の声が漏れているぞ。子供にはわからんようだな。いつか分かる日が来る」
一体どれだけの修羅場を見てきたら分かるようになるのか。
きっと師匠は頭を打ち過ぎて狂っている。
「ほれ、今日は特別だ。触ってみろ。何かを感じるはずだ」
嫌だったが、師匠に渡された靴下を触る。
さらさらとした生地。上等な布、女性ものの靴下だ。色は白。
……無事、何も感じられない。
「ティア様に履いて欲しいとは思わんか」
「思いません」
「――っ。そう、か」
師匠は息を詰める。ひどく傷ついているようだった。
履いて欲しいとは思わなかったが、履いたら似合うだろうな、とは思った。
口には出さない。
……。
月光が古びた道場の天窓から差し込み、埃の舞う空気を照らしていた。
石畳の上、エルは正座していた。
目を閉じ、ゆっくりと呼吸し『気』の巡りをとらえる。師匠曰く、呼吸は血の巡りと筋肉に必要不可欠らしい。『気』の循環を効率よく行えるようになるとのことだった。
『気』の効果は自分の身体が動きやすくなるだけじゃない。周囲の空気がわずかに震えていることすらわかるようになる。気配の探知にも応用できるのだった。
万物には『気』や『魔素』が宿るという。
静かに、けれど確かに、世界に『気』と『魔素』が巡っていることを感じる。
そして改めて、目の前の師匠の化け物っぷりに驚く。
高密度な『気』と『魔素』が彼の老いた身体に巡っているようだ。
師匠は刀を腰に提げ、柄に手をかけていた。
周囲には硬質なスライムが十数体。秩序なく配置されている。
スライムの一体が石を高速で吐き出した――。
それが合図となる。
次々にスライム達が師匠に向かって石を吐き出した。
居合斬り。
石と刀とが接触し、火花が月明りに咲く。
一振りで四つの石を両断。柄の握りを変え、返す刀で残りの七つの石を切り裂く。
そこからは曲芸のようだった。
正面からの投石を切ることはまだ理解ができた。
けれど師匠は背後からの石も、対処してみせた。
見えているはずがないのに、正確に位置をとらえている。
いや、例え見えていたとして、高速で発射される石に対処できるのだろうか。
そもそもこの石は、ティアの特別性のスライムの強化石。一刀両断することすら困難なはずだった。
柔らかなパンを削ぐように、強化石を次々に切り伏せてみせる。
師匠の行う型を目に焼き付けた。
生き残るために。
エルの瞳には、異世界の歴史と同じくらい魅力的に映った。
……。
「『気』を、全身に巡らせる前に……丹田に集めろ。呼吸の流れを意識しろ。空気は血と肉体に必要不可欠。そしてそのすべてが、己の核に凝縮するように想像しろ」
ひょうひょうとした声が響く。
男は柱の影に寄りかかりながらも、その目だけは鋭くエルの型を見ていた。
「無駄な力みはいらん。ただ、空気の流れを視ろ。流れを聴け。エルの動きでどう変わるのか、感じろ」
エルは慣れ親しんだ型を行いながら、集中する。
丹田に、熱が集まる気配がした。気の凝縮。だがそれは、孤児院の子が行うような全身に流れる『気』の動きではない。一か所に圧縮するというのは、危険を感じる不安定な力のように思う。
「いいぞ、エル……もっとだ。もっと溜めろ。だが力むなよ。万物を壊しちまうぞ」
周囲に霧のような白気が立ちのぼる。それは体温の上昇によるものではない。濃密な『気』の奔流が、空気を歪ませていた。
目指すべきは『気』ではなく、『神通力』と師匠は言っていた。
ただそれは制御を少しでも誤れば自壊すら招く危うさを含んでいるとのことだ。
「次だ。圧縮した『気』と――水の『魔素』を重ねろ」
体内から『気』が、周囲から水の『魔素』が手元に集まり渦を巻く。
己と外界……『気』と『魔素』との境界が曖昧になっていく。
「……刀」
半透明な水の刀が精製できた。
「それが『神通力』の核だ。想像しろ。理解しろ。気と魔素が混ざり合う感覚を当たり前のものとするんだ。気も魔素も、所詮はこの世を構成する力の一形態に過ぎん。元は同じ物。想像しづらいから言葉で分けている。あとはエルがそれをどう形にするかだ」
一振り。虚空に水刀の軌跡が浮かぶ。
型を演じる。
わずかに水の刀が揺らいでしまう。
集中。
二振り。型の演舞を行っていく。
月明かりの道場に、刀の存在が希薄になっていった。
刀が消えた頃、おじさんが笑っていたことに気づく。
「消えちゃった」
「好し! 次はあれをやってみるか」
男が柱からゆっくり離れ、鞘に収めたままの刀を渡してくる。
重みを感じる。その柄は魔素を帯びているのか、手に吸い付くようだ。
鞘を抜く。婉曲した刀身。その銀の刃に、天窓から漏れ出る月明りが反射した。
名もない業物の刀。
一回二回と振った。この刀は身体の一部。手の先であると意識する。
『気』と『水の魔素』とを刀に宿していく。
再度鞘に納め、腰に帯刀。
居合術の型。
何度も練習した最速の剣技。
空気。魔素。呼吸。気。足の位置。手と剣先。視線。意識する。
目を閉じた。
静寂。
スライムの魔素が乱れる。
「切り落として見せろ」
周囲の魔素が震えた。
その乱れを腰から斜め上段に一閃する。
切り裂く音。咲き誇る火花。両断された石が耳元を過ぎていく風圧。
次の瞬間には、刀の柄を逆手に取り、刃先の向きを変え、振り下ろす。
再度、甲高く短い金属音と共に火花が咲き乱れた。
「ほぉ……とうとう両断できたじゃないか」
「うん。あでっ」
師匠の声に油断したところに三投目が頭に当たった。
バランスを崩し仰向けになる。
見慣れた天窓の月明り。
刀を天にかざす。
刃こぼれが一切ない、薄青の魔素と、月明りを反射する、魔を滅ぼす銀の美しい刀身だった。
「刃こぼれしない」
「はは。何を言っている。それだけ強化できてれば当然だ。……おっといけない。言い忘れていた。逆に鍛冶師の『気』の入っていない武器を扱う時は気をつけなさい」
「うん」
どういう意味かはわからなかったが、頷いた。あまりに刀と天窓から覗く月明りが美しくて感動していたから。何もかもがどうでもよかった。
「寝ながら刀を眺めるのは危ない」
師匠が手から刀を奪ってしまう。水の魔素が散るのがわかる。
「エルは集中と制御の才能がある。……誰のために剣を振るうかも考えておきなさい」
頷いた。
よく分からなかったけど、師匠の瞳が夜の底で凍えているみたいだったから。
「師匠。そろそろ行くよ。今日もありがとう」
「そうか。靴下持っていくか。お守りになるかもしれん」
「いらない」
帰りの道中、異世界レシピで作った眠気防止の薬を飲んだ。
孤児院カナリスに戻る。
また日常が始まる。




