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極悪辺境伯の華麗なるメイド  作者: かしわしろ
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天界4

門をくぐった瞬間、世界が変わった。


足元の感触がまず違う。魔界の瘴気に満ちた大地でも、人間界の乾いた土でもない。磨き抜かれた白い大理石が、一面に敷き詰められている。継ぎ目は精緻に整えられ、光を反射する表面には雲海の色がうっすらと映り込んでいた。歩を進めるたびに、靴底が石と触れる澄んだ音が響く。


目の前に、街が広がっていた。


「ここは最果ての街、アルケンゼイクです。」

イリスがそう告げた。確かに天界の中心は神殿だ。人間界にもっとも近いこの場所は、天界全体から見れば最果てと呼ぶにふさわしい立地だろう。


街並みは息を呑むほどに美しかった。


白亜の列柱が通りの両脇に整然と並び、柱頭には蔦や花をかたどった彫刻が施されている。列柱の奥には半円形のアーチを幾重にも連ねた建造物が続き、その屋根は赤みを帯びた瓦で葺かれていた。建物の外壁は大半が純白の石材で、壁面には精緻な浮き彫りが施されている。戦う聖族や、祈りを捧げる聖族、楽器を奏でる聖族。その一枚一枚が、太古からの物語を静かに語っているようだった。


通りの中央には水路が流れていた。無色透明の水が絶え間なく流れ、途中に設えられた噴水から水が高く吹き上がっている。噴水の中心には大理石で彫られた翼を持つ像が立ち、その両手から零れ落ちる水が陽光を受けて虹を作っていた。路面にはモザイク画が埋め込まれており、幾何学模様と花の意匠が交互に現れては消えていく。足元を見ながら歩くだけでも、作り手の技術の高さが伝わってくる。


遠くには円形劇場のような建造物が見えた。半円の石段が空に向かって積み上げられ、その上には巨大な鐘楼が聳え立っている。街全体が、白と金と薄紅の柔らかな色調に統一されており、雲の上にあるこの街は、まるで天上に浮かぶ一枚の絵画のようだった。


空気もまた、地上のそれとは違うようで、聖力が満ちていた。魔力の巡りが若干鈍くなる。しかしそれは私にとってはわずかなものだ。戦闘に支障をきたすほどではない。


「……美しい街ですね。」

カルメラが思わずといった様子で呟いた。


「ええ。天界の建造物は、聖族が何百年、何千年という時間をかけて築き上げたものです。人間界の建築とはまた異なる美学がありますね。」

イリスは懐かしそうな目で街並みを見ていた。彼女にとって、ここは故郷だ。四天王であった頃、この街を何度も通ったのだろう。


しかし――。


違和感があった。


「メイド長、街の様子が変です。」

ヴァイオレットが声をかけてきた。その赤い髪が風に揺れる。龍族の鋭い感覚が、何かを捉えているようだった。


「私もそう感じていました。」

これほどの美しい街であるにもかかわらず、人影が少ない。いや、少ないどころではない。

大通りを歩いているのは、遠くに数人見える程度だ。本来であればこの時間、聖族たちが列柱の下を行き交い、市場が賑わい、噴水の縁では子どもたちが水遊びをしているはずだ。ここは天界の玄関口なのだから。


しかし聞こえてくるのは、水の流れる音と、風が柱の間を抜ける音だけ。

窓という窓は閉ざされ、扉という扉も固く閉じられている。開け放たれた店先には商品が並んでいるのに、店主の姿はどこにもない。まるで住民たちが一斉に息を潜めているかのようだった。


「以前来た時は、もっと活気がありました。」

私は呟いた。ご主人様に付き添って一度だけこの街を訪れたことがある。あの時は、通りは聖族で溢れ、市場では様々な声が飛び交っていた。今とは明らかに違う。


「聖族が全くいないわけではないようですが……外に出ている数が、あまりにも少なすぎます。」

そう言いながら私は視線を巡らせる。建物の陰から、こちらを覗いているいくつかの目と視線が合った。しかしその目はすぐに引っ込められる。警戒。あるいは、恐怖。そう感じ取れる目だった。


ここで何が起きているのかを確認するためには、直接聞くのが早い。

通りの先、列柱の陰からこちらを窺っていた一人の聖族に声をかけた。金髪の若い聖族だった。翼を肩の後ろに畳み、頭上には小さな光輪が浮かんでいる。こちらと目が合った瞬間、その顔が明らかにこわばった。


「はじめまし……」

私の挨拶は、最後まで言い切れなかった。


「も、申し訳ありません!」

若い聖族は短くそう叫ぶと、翼を広げて一目散に飛び去っていった。白い羽根が数枚、その場にひらりと落ちる。

私はその後ろ姿を見送りながら、眉を寄せた。


聖族という種族は、一般的に友好的だ。少なくとも以前の天界はそうだった。人間が訪れれば珍しがって近寄ってくるものもいたし、道を尋ねれば親切に教えてくれる。それが聖族のあるべき姿だった。今の反応は、明らかに異常だ。


「やはりおかしいです。」

イリスがもう一度、静かに言った。


元四天王として天界を知り尽くしている彼女が二度もそう口にするということは、この異変は相当なものだ。神殿で起きている何かが、街全体にまで影響を及ぼしている。


「それも全て、神殿に行けばわかるだろう。」

ご主人様が口を開いた。


「行くぞ。」

「かしこまりました。」

私はすぐに時空魔法の詠唱に入った。全員を神殿前まで一気に転送する。この街から神殿までの距離は、飛行でも相応の時間がかかるはずだ。無駄な時間をかける必要はない。


魔力を練り上げ、座標を神殿前に設定する――


「待て。」

ご主人様の声が、私の詠唱を止めた。


「飛ばすのは私とイザベラ、メアリー、イリスだけでいい。」

「おい、俺たちはどうしろっていうんだよ!」

マークが声を上げる。後ろに控えていたスカーレットも、一礼してから口を開いた。


「ご命令を。」

ご主人様は、マークとスカーレットに視線を向けた。


「お前たちは、天界にいるグルンレイドにあだなす存在を殲滅しながら来い。」

一瞬、空気が張り詰めた。


「……わかった。」

マークが頷く。その表情にはいつもの軽薄さがなく、引き締まった勇者の顔があった。


「かしこまりました。」

スカーレットも深く頭を下げた。白い髪が風に揺れ、その横顔にはすでに戦闘に入る者の冷たさが宿っている。


殲滅という言葉に、躊躇はない。今回のご主人様は、徹底的に天界を叩くつもりのようだ。もちろん、普通の聖族に危害を加える必要はない。狙うのは戦闘訓練を受けた兵士、すなわち神兵のような存在だ。ご主人様はそこまで含めて二人に指示を出された。


戦闘部隊の彼女たちとマークのパーティが、相談するのだろうか。一度スカーレットのもとへと集まっていく。


「それでは、移動します。」

私は改めて詠唱に入る。残ったのは、ご主人様、私、メアリー、イリスの四人だけだ。


――今回のご主人様は、いつもより少しお怒りになっている。


魔力を練り上げながら、私はそう感じていた。

普段のご主人様は、どのような状況においても表情を崩さない。しかし今回は、微かにだが、いつもとは違う気配が滲んでいる。魔力の流れが、いつもよりわずかに荒い。


まあ、それも仕方のないことだ。先の攻撃で、ご主人様が飾っていたお気に入りの絵画を地面に落とされ、挙句にはグラスを一つ割られたのだ。天界が滅ぶには、十分すぎる理由だと私は思う。


「ヨグ・ソトース。」

空間が裂け、私たちは神殿の前へと飛んだ。


---


神殿。


ここに来るのは二度目だが、やはり美しいと感じる。


雲海の中に浮かぶ巨大な建造物。その全体が発光しているかのように、白く輝いていた。建築様式は最果ての街と同じ系統だが、規模も格も別格だ。正面には数十本の巨大な列柱が並び、その柱一本一本が人間界の大聖堂の尖塔に匹敵する高さを誇っている。柱の表面は大理石のような白い石材で、聖力を帯びた金の紋様が螺旋状に刻まれていた。


屋根には大きな切妻破風が載り、その中心には巨大な光の輪――聖族の象徴が据えられている。破風の下の三角形の領域には、神話の一場面を彫り込んだ浅浮き彫りが施されていた。神と思しき姿、その周りを舞う聖族たち、膝をつく人間。細部まで完璧な造形だ。


神殿の前には広大な円形広場が広がっている。敷き詰められた石畳には、中心から放射状に走る光の線が刻まれており、その一本一本が聖力を微かに発していた。広場の縁にはアーチを連ねた回廊が取り囲み、その柱の間からは雲海の眺望が覗いている。


光と影のコントラストが美しい。神殿そのものから漏れ出る聖力の光と、構造によって生まれる深い陰影。それらが複雑に絡み合い、この場所全体をまるで一枚の宗教画のように見せていた。


しかしこの美しさに心を奪われている暇はない。

広場の中央に、一人の聖族が立っていた。

白い髪。純白の翼。頭上の光の輪。


「やはり来ましたか。」

グルンレイドの屋敷を襲撃してきた、あの聖族だった。ロンド。まるで私たちが来ることを知っていたかのような、落ち着き払った口ぶりだった。


ご主人様はロンドの前に立ち、静かに口を開いた。


「神は、どうなっている。」

「なんら変わりなく存在しておりますよ。」

ロンドは軽く肩をすくめた。その態度には余裕すら感じられる。先の襲撃の時と同じ、人を見下すような笑みが浮かんでいた。


「会わせろ。」

ご主人様の言葉は短かった。しかしその一言に、交渉の余地はないという意志が込められている。


「それは無理な話です。あなたが神と顔を合わせていたことは知っています。ただ本来であればそれは厳禁。認められることではありません。」

私は実のところ、神という存在を直接見たことはない。以前ご主人様に付き添ってこの場所を訪れた際も、私は神殿の中に入る許可が下りなかった。ご主人様だけが一人で入られ、私は神殿の外で待機していた。神殿の中で何が行われているのか、私は知らない。ただご主人様が神と親しい関係にあったことだけは、断片的な会話から察していた。


「だったら力ずくでも会いに行かせてもらおう。」

「それもできません。」

ロンドがそう言い放つと同時に、空から次々と聖族が舞い降りてきた。


一人、二人、三人――合計十人。

全員が白銀の鎧を身に纏い、白い槍や剣を携えていた。


「神兵十人。神に仕える兵隊です。人間には誰一人として倒すことなどできないと思いますが。」

さようなら、と一言付け加えて、ロンドは神殿の中へと歩き去っていった。

残されたのは、神兵たちに取り囲まれた私たち四人。


私の中で、すでに判断は下りていた。

この神兵たちを今すぐ消す。ご主人様の進もうとしている道を遮るなど、言語道断。生かしておく理由が、どこにある。

しかし勝手に行動するのはメイドとして失格だ。私は動きを抑え、ご主人様の指示を待った。


「どう致しますか。」

「そうだな……。」

ご主人様は少しだけ考え、そして告げた。


「イリス、お前が相手をしろ。」

「かしこまりました。」

イリスが一歩前に出た。


金色の髪が光を受けて輝く。本来あるべき頭上の光の輪はない。しかしその立ち姿は、元四天王にふさわしい凛々しさを放っていた。普段の柔らかな雰囲気の彼女とは違う、別人のような威厳が宿っている。


私は、思わず見入ってしまった。

日々の訓練場で見る彼女とは、纏っている空気が違う。これが元四天王としてのイリスなのだ。ローズの肩書きを持つ彼女の、もう一つの顔。


「四天王ロンド様の命令だ、ここで消え……イリス様?」

神兵の一人が、剣を構えたままの姿勢で固まった。他の神兵たちも、続々と同じような反応を見せ始める。


「あなたたち、剣を下ろしなさい。」

イリスが静かに命じた。

神兵たちは、イリスのことを知っているらしい。少なくとも今、隊長と思しき人物は、明らかに彼女を認識している。


「隊長、あの天使の輪のない聖族は誰ですか!」

後ろにいた若い神兵が、動揺した声を上げた。人間に従っている聖族、しかも天使の輪がない聖族。それは天界の常識からすれば、ありえない存在だ。彼らが困惑するのも無理はない。


「……元、四天王の一人……イリス様だ。」

「し、四天王!?」

神兵たちがざわめいた。


私はその反応に、静かに頷く。イリスがかつて四天王だったと知った時、私も驚いた。しかし日々の訓練でその実力を目の当たりにして、納得した。聖法の扱いにおいて、彼女は別格だ。勇者であるマークに聖法の基礎を教え込んでいるのも、他ならぬイリスなのだから。


「実力差は歴然。あなたたちに勝ち目はありません。下がりなさい。」

イリスは冷静に告げた。

隊長と思しき神兵は、苦渋の表情を浮かべた。


「……それはできません。あなたも知っているはずだ。聖族は、上からの命令には逆らえない。」

「……そう、でしたね。」

イリスは静かに頷くと、剣を抜いた。


聖力を帯びた銀色の刀身が、光を反射して輝く。シド流の剣。聖族独自の戦闘技術を、元四天王の彼女は完璧に使いこなす。


「四天王と言っても昔の話ですよね。そんなに強くないんじゃ……。」

若い神兵の一人が、隊長に話しかけていた。その声は、自分に言い聞かせるような響きがあった。


そして次の瞬間――


その神兵の体が、真横に裂けた。

何が起きたのか、理解が追いつく前に結果だけが目の前にあった。イリスの剣が、いつの間にか振り抜かれている。


「強くないように、見えてしまいましたか?」

イリスが、切っ先から血を払いながら問いかけた。

切られた神兵は、崩れ落ちそうになりながらも致命傷は免れていた。イリスは殺すつもりではなかったのだ。しかし確実に戦闘不能に追い込む、精密極まりない一撃だった。


「くっ……。」

「……申し訳ありません。苦しめるつもりはありませんでしたが、あまりに失礼な発言だったので。」

その声には、元四天王としての誇りと、メイドとしての冷静さが同居していた。剣に付着した血を払う仕草さえも、どこか神聖なものを感じさせる。


普段のイリスは、穏やかで優しい。メイドたちの怪我を癒やす時の柔らかな表情や、見習いたちに聖法を教える時の慈愛に満ちた眼差し。それが本来の彼女の姿だと思っていた。

しかし今の彼女は違う。凛とした立ち姿、迷いのない剣の軌跡、相手の格を即座に見極める判断力。これが四天王としてのイリスの素顔なのだ。


「な、なめるな!」

「行け!」

冷静さを失った数人の神兵が、一斉にイリスに襲いかかった。


「お前たち、やめろ!」

隊長がそう叫んだ時にはもう遅かった。

私が一度だけ瞬きをした、その一瞬で――飛びかかった神兵たちが全員、吹き飛んでいた。


空中を舞い、石畳の上に次々と叩きつけられる。鎧の装甲が甲高い音を立て、砕けた光輪の破片が広場に散らばった。受け身すら取る暇を与えない、完璧な制圧だ。


「体制を立て直し、確実に……。」

残った神兵たちが隊長を中心に陣形を組み直そうとする。しかしイリスの剣先は、すでに次の詠唱に入っていた。


「コールドスリープ。」

静かに、そう唱えた。


その瞬間、残った神兵たちの瞼が、ゆっくりと落ちていった。抗う暇もなく、全員が次々と石畳の上に倒れていく。静謐な旋律を奏でるように、一人、また一人と、眠りに沈んでいった。


「一体何が……。」

「睡眠聖法ですよ、イザベラ様。」

イリスは眠りに落ちていく神兵たちに背を向け、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。


「あの神兵たちも聖法障壁はしっかりと展開していました。ですが、彼らの障壁よりも私の聖力が上回っただけのことです。」

「見事です。」

私は素直に賛辞を送った。


聖族を相手にする時、聖法障壁を展開した相手に睡眠聖法を通すというのは、並大抵の聖力ではできない芸当だ。それをこれほど静かに、それほど無駄なく決めてみせた。流石と言うほかない。


ふと横を見ると、メアリーが神殿の壁面に施された彫刻を興味深そうに眺めていた。途中から戦闘に飽きたのだろう。イリスの強さは疑うべくもなく、メアリーが見守る必要すらないと判断したようだ。彫刻の一つに手を伸ばそうとして、聖力のピリっとした反応に指を引っ込めている。


「それでは神殿の中へ入りましょうか。私がご案内いたします。」

イリスが先頭に立つと言うと、ご主人様は短く頷いた。


「うむ。」

ご主人様が歩き出す。その背中を追うように、イリスが先導し、私とメアリーが続く。


神殿の巨大な扉が、私たちの前にそびえていた。高さは通常の建物の三階分はあろうかという大扉で、表面には神話の物語が連続して彫り込まれている。世界の創造、光と闇の誕生、神と聖族の契約。物語の最後には、光の輪を戴いた人型の存在が描かれていた。これが神なのだろうか。


扉の前に立つと、扉の内側から溢れ出てくる聖力の圧力が一段と強まった。

さらに聖力密度が上昇し、私は少し気分が悪くなる。しかし、この扉の奥にご主人様が向かうのならば、私はその一歩後ろを歩く。それだけのことだ。


巨大な扉が、音もなく開いていった。


その奥に、何が待っているのか。

私は剣の柄に指を添え、ご主人様の背中を見つめながら、一歩を踏み出した。

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