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極悪辺境伯の華麗なるメイド  作者: かしわしろ
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天界3

私たちは魔界の門を経由し、魔王城へやってきた。

普通に移動すれば何日もかかるような距離だが、空間魔法を使用すすればほんの数分で到着できてしまう。


先発隊として送り出したマークたちが、すでに受け入れの準備を進めてくれていた。城門の前にはビクトリアが仁王立ちしており、到着した私たちを見るなり「遅いのじゃ!」と声を張り上げた。ご主人様に向かって無礼だと思ったが、いつものことなので仕方なく許すことにする。


魔王城に足を踏み入れて最初に気になるのは、やはり瘴気だ。


魔界は濃密な瘴気に満ちている。ローズ以上のメイドであれば自身の魔力障壁で十分に対処できるが、見習いたちにとっては負担が大きい。三日程度であれば見習いでも自身の結界で凌ぐことはできる。しかし万が一の事態を考えれば、念には念を入れるべきだ。


「メアリー、魔王城全体に結界を張ってください。」

「かしこまりました。」

メアリーが両手を前に差し出すと、その小さな体から膨大な魔力が放出された。黒い魔力の波紋が城壁を這い上がるように広がり、やがて魔王城全体を包み込む。城の隅々まで行き渡った結界は、外部からの瘴気を完全に遮断していた。メアリーの魔力密度であれば、この規模の結界を維持し続けることは呼吸をするようなものだろう。


見習いたちが結界の内側に入った途端、表情が和らぐのが見えた。さっきまで無意識に張っていた自身の結界を解除し、肩の力を抜いている。


「すごい……瘴気が全く感じられません。」

リアがそう呟いた。リアは悪魔つきであるため瘴気への完全体制がある。


「メアリーさんの結界、前に屋敷で見た時よりも範囲が広いのに、全然隙間がありませんわ。」

アナスタシアが感嘆の声を漏らす。


「そんなことは……これくらい、普通。」

メアリーは顔を赤くしながら俯いた。褒められるのが苦手なのは相変わらずだ。しかし、見習いたちの前でこうして実力を示すことは悪いことではない。先輩の力を目の当たりにすることも、見習いにとっては大事な経験だ。


---


城内は、想像以上に立派だった。


高い天井には魔力を帯びた結晶が埋め込まれ、薄暗い魔界の空気の中でも淡い光を放っている。石壁には精緻な彫刻が施され、廊下の幅はグルンレイドの屋敷の倍はあるだろう。壁にかけられた燭台からは青白い炎が揺れており、魔界特有の禍々しさがありながらも、どこか荘厳な雰囲気を漂わせていた。


グルンレイドの屋敷と比べても、内装は決して劣らない。むしろ規模においてはこちらが圧倒している。ビクトリアが魔王だった頃にどれほどの力を持っていたのか、この城を見ればおのずと理解できた。


「メイド長、こっちの棟が客室です!全部で四十二部屋あるんですけど、とりあえず使えそうなところは掃除しておきました!」


ディアナが廊下の先から手を振っている。先発隊がこの短時間でこれだけの準備を整えたというのは、なかなかの手際だ。


「ディアナ、ありがとうございます。アイラは?」

「アイラは奥の部屋でシーツを替えてます!マークは……たぶん迷子になってます!」

「迷子って……魔王城の主が迷子とはな。」

ヴァイオレットが呆れたような声を出した。


「しょうがないのじゃ、あやつは方向音痴じゃからの。わしが何度案内しても覚えん。」

ビクトリアが腕を組んでそう言う。魔王城の主が自分の城で迷子になるとは、情けないことこの上ない。しかし、こうして見習いの子どもたちやビクトリアが生き生きと動き回っている姿を見ると、ご主人様の判断は正しかったのだと改めて思う。ただ安全な場所に避難するだけではなく、こうした経験を通じてメイドたちは成長していく。


私は見習いたちに部屋の割り振りを指示し、荷物の整理を命じた。各自が自分の部屋に入り、持ってきた最低限の荷物を整え始める。


メアリーにはこの後、屋敷ごと収納した無限空間から必要な物資を取り出してもらう。寝具や日用品はもちろん、ご主人様の食事に使う食材や調理器具も含まれている。たとえ一泊であっても、ご主人様の生活水準を落とすわけにはいかない。


---


夕刻。


ご主人様の部屋に食事をお持ちする。魔王城の中でも最も広い部屋をご主人様に用意させた。元々はビクトリアが使っていた魔王の間だったらしいが、今はご主人様にふさわしい空間として整えられている。


「失礼いたします。」

部屋に入ると、ご主人様は窓辺に立っていた。魔界の空は人間界のそれとは違う。雲はなく、代わりに薄い瘴気の膜が天蓋のように広がっている。その向こうにかすかな光が漂っているのが見えた。


「お食事の準備が整いました。」

「うむ。」

ご主人様は短くそう返事をして、椅子に座った。私はいつもと同じように配膳を行う。限られた環境ではあるが、グルンレイドの屋敷で出すものと遜色ないよう最大限の注意を払った。


食事の間、ご主人様は一言も発しなかった。いつものことだ。ご主人様は食事中に無駄な言葉を発することを好まない。私はただ傍に立ち、必要があれば給仕をする。この沈黙の時間は、私にとってもっとも安らぐ時間のひとつだった。ご主人様のお側にいるという、ただそれだけのことが。


食事が終わり、食器を下げようとした時、ご主人様が口を開いた。


「イザベラ、天界へ連れて行く者たちは決めているな。」

今回の敵の戦闘能力は完全な未知数だ。聖族の兵士がどれほどの力を持っているのか、四天王の残りがどれだけ強いのか。確かに見習いを連れて行くのはあまりにも危険だ。ご主人様の判断は、私の考えと一致していた。


「はい。すでに決めております。」

「ふむ。」

そういってご主人様は再び窓の外に視線を向けた。

私は一礼をして部屋を出る。


廊下に出ると、城内はすでに静まり返っていた。グルンレイドのメイドたちも、この屋敷にもともといる魔族たちも、今は自室で休んでいるのだろう。石壁に反射する青白い灯火の光だけが、長い廊下を照らしている。


ご主人様の隣の、自室として割り当てられた部屋に戻り、机に向かった。


---


翌朝。


魔界の朝は人間界のそれとは異なり、空がわずかに明るくなる程度だ。しかし私の体内時計は狂っていない。いつもと同じ時刻に目を覚まし、身支度を整える。


メイド服の襟を正し、袖を通す。スカートの裾に皺がないか確認する。靴を磨く。髪を整える。鏡に映る自分の姿を見て、メイド長としてご主人様の前に出るにふさわしいかを確認する。これは毎朝の習慣であり、どのような状況であっても変わることはない。


ご主人様に朝食をお出しし、メンバーの報告を済ませた後、全員を集合させた。


見習いたちは魔王城に残る。カルメラが昨夜のうちに見習いたちへの指示をまとめてくれていた。私たちが留守にしている間の行動規範、訓練内容、緊急時の対応。すべてが簡潔かつ的確にまとめられた文書だった。


「三日以内には戻ります。もし三日を過ぎても戻らなかった場合は、コトアルの指示に従いなさい。」

見習いたちの前でそう告げる。


「三日……って、大丈夫なんですか?」

リアが不安そうな顔をした。


「問題ありません。」

それだけ言って、私は背を向けた。三日以内に戻れないような事態になれば、それは私たちが負けたということだ。そんなことは、あり得ない。


選定されたメンバーで魔界の門を抜け、地上へと出る。

門をくぐった瞬間、肌を刺すような瘴気の圧力から解放された。澄んだ空気が肺を満たす。頭上には久しぶりの青い空が広がっていた。


門の前に、一人の存在が立っていた。


コトアル・マリー・ローズ。


魔界の門の守護者。太古の人間たちが生み出したマシニング族。その瞳は虹彩の周りで光が絶え間なく動いている。初めて見た時から変わらない、この世のものとは思えない美しさだ。


「……本日はどちらに?」

コトアルが声をかけたのは、ご主人様の足がいつもと違う方角を向いていることに気づいたからだろう。普段であれば門を出た後、近くにある神秘の洞窟へと足を運ぶ。水晶の群生地を眺めるのがご主人様の習慣だ。しかし今日は違う。ご主人様の背中は、空を向いている。


「神に用があってな。」

その一言で、コトアルの表情が変わった。


「お気をつけて。」

静かに、しかしはっきりとそう言って、コトアルは深く頭を下げた。

顔を伏せたまま、動かない。

私にはわかった。コトアルが何を堪えているのか。


マシニング族は太古の人間が生み出した種族だ。その創造主たちは、神によって滅ぼされた。コトアルにとって「神に用がある」というご主人様の言葉は、単なる行き先の報告ではない。創造主を奪った存在に対して、ご主人様が立ち向かおうとしている。その事実が、コトアルの中にどれほどの感情を呼び起こしているか。


伏せた顔の奥で、唇が震えているのが見えた。


「お前も来るか?」

ご主人様が問いかけた。優しい声ではなかった。いつもと変わらない、淡白な声だった。しかしその問いかけの中に、コトアルへの敬意があることを私は感じ取った。


「申し訳ありません。私は神に逆らうことができません。」

コトアルの声は、かすかに震えていた。


「そうプログラムされているのか?」

「いえ、命令です。」

命令。それはご主人様からの命令ではない。コトアルの創造主――もうこの世界に存在しない、太古の人間たちが残した命令だ。消え去った主人の言葉に、コトアルは今もなお縛られている。


「そうか。」

ご主人様は短く返事をして、背を向けた。

そのまま歩き出すかと思われた。しかし数歩進んだところで、足が止まる。


「ただ、そうだな。一つだけ言っておく。」

振り返らない。背中だけが見えている。


「お前はプログラムされた命令に従うマシンだったのだろうが、それは遥か昔のこと。」

風が吹いた。コトアルの髪が揺れる。


「私は昔から言っていたな。命令を聞くだけではなく、己から動け、と。」

一拍の沈黙。


「お前はもう、グルンレイドのメイドなのだ。」

そう言い残して、ご主人様はまっすぐに歩き始めた。振り返ることはなかった。


コトアルの瞳の中で、光がいつもより激しく揺れていた。虹彩を巡る光の軌道が乱れ、まるで嵐の中の星々のように明滅している。マシニング族の感情表現は人間のそれとは異なる。涙は流さない。しかしあの瞳の揺らぎは、涙と同じものだと私は知っている。


声をかけたかった。


しかし、今はだめだ。ご主人様の言葉の後に、誰かが何かを付け足すべきではない。この瞬間は、ご主人様の言葉だけが空気を満たしていればいい。コトアルが噛みしめるべきは、私の慰めではなくご主人様の言葉だ。


だから私はただ、コトアルの瞳を一瞬だけ見つめて、小さくうなずいた。それだけが、今の私にできる精一杯だった。


「イザベラ、コトアルを除く全てのものを天界まで送り届けよ。」

「かしこまりました。」

私は全員の位置を確認し、時空魔法の詠唱に入る。


目的地は、天界の門。人間界のはるか上空、雲の遥か上に存在する門だ。


魔力を練り上げる。周囲の空気が歪み始める。全員の体が私の魔力に包まれていくのを感じる。


「ヨグ・ソトース。」

空間が裂けた。


---


次の瞬間、私たちは雲の上にいた。


足元に広がるのは一面の白い雲海。見渡す限りの白が、陽光を受けて眩く輝いている。空気は地上とは比べものにならないほど澄んでおり、呼吸をするたびに胸の奥が洗われるようだった。


そして目の前に、天界の門が聳えていた。


魔界の門と同じ形をしている。巨大な二本の柱が左右に立ち、その間に分厚い扉がある。しかし色が違う。魔界の門が漆黒であったのに対し、天界の門は純白だ。柱の表面にはコトアルの体を構成する物質にも似た、古代の素材で作られたと思しき紋様が刻まれている。聖力が門全体から漏れ出しており、私の体内の魔力がわずかに拡散されていくのを感じた。半魔族である私にとって、聖力の満ちた空間はあまり心地の良いものではない。


「なんですか、これは……。」

ヴィオラが上を見上げながら声を漏らした。その金色の髪が風に揺れ、瞳の奥にある神眼が淡く光っている。


「何か見えますか?」

私が問うと、ヴィオラは息を呑んだまま答えた。


「ええ、美しい光が螺旋状に……。」

地上では見えなかったのに、と付け加えた。周囲を見渡しても、他のメイドたちには何も見えていないようだった。私にも見えない。しかし神眼を持つヴィオラには、何か特別なものが映っているのだろう。


「神の眼でしか見えないこともあるだろう。進むぞ。」

ご主人様がそう言って歩き出す。


門に近づくと、その前に一つの存在が浮かんでいることに気づいた。


地面から数十センチほど浮いたまま、微動だにしない。半透明の体が陽光を透かし、向こう側の景色がうっすらと見えている。長い髪が風もないのにゆらゆらと揺れていた。


天界の門の守護者、ミクトラ・マリー・ローズ。


霊族。物理的なものに触れることができず、常に浮遊している存在だ。ご主人様の命令により、この門の守護を任されている。コトアルが魔界の門を守っているように、ミクトラは天界の門を守り続けている。


「天界へ何用か、にんげ……」

ミクトラが口を開きかけて、止まった。半透明の瞳が大きく見開かれる。


「ご、ご主人様⁉」

声が裏返っていた。守護者としての威厳ある態度は一瞬にして消え去り、驚愕と喜びの入り混じった表情が浮かぶ。


「久しぶりだな、ミクトラ。」

「お、お久しぶりでございます!」

ミクトラの半透明の体が、感情の昂りに合わせてわずかに明滅した。霊族は肉体を持たないが、感情によって存在の密度が変化する。今のミクトラは、いつもより少しだけ輪郭がはっきりとしているように見えた。


「ミクトラ、私は長い間お前をここに縛り付けてしまい、すまないと思っている。」

ご主人様がそう言うと、ミクトラは慌てて首を横に振った。半透明の髪が大きく揺れる。


「滅相もございません。時間の概念が無い我が種族だからこそできることです。あの機械とはまた違いますが。」

「あの機械」とはコトアルのことだろう。コトアルもまた時間の概念を持たない種族だが、マシニング族と霊族ではその在り方が根本的に異なる。コトアルは物理的な体を持ち、太陽光をエネルギーとして活動する。ミクトラは物理的な体を持たず、魔力そのものが存在の基盤だ。


ミクトラは門に手をかざした。すると天界の門がゆっくりと開き始める。


門の内側から、聖力が溢れ出した。


魔力の反応は一切ない。あるのはただ、圧倒的な密度の聖力だけ。私の魔力障壁がわずかに軋むのを感じる。聖力と魔力は相反する性質を持つ。聖力が濃い場所では、魔力の効率が落ちる。私にとっては、決して快適な環境ではない。


しかし、不快であるということと、戦えないということは別だ。この程度の聖力で私の実力が大きく削がれることはない。


「それではみな様、いってらっしゃいませ。」

ミクトラは浮かんだまま、美しい礼をした。物理的な体を持たない彼女が見せる礼は、不思議と温かみがあった。それはコトアルが見せる礼と同じだ。グルンレイドのメイドとして教えられた、あの美しい所作。体の在り方が違っても、心は同じということだろう。


私はミクトラに軽くうなずきを返し、門をくぐった。

聖力が体を包む。肌の表面がぴりぴりと刺激されるのを感じる。それを無視して、前を向く。

ご主人様の背中が、光の中に溶け込むように歩いていた。

私はその後ろを、一歩も遅れることなくついていく。

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