極東9
「ネズミが三匹、紛れ込んだようだな。」
極東の中心、その城の最上階でミカエル様はそう言葉を発した。
「申し訳ありません。すぐに始末させます。」
「すでにグレーティアがやられた。」
「なっ!」
相手は人間ではないのか? 聖族が下界に降りて傷を負うことすらありえないというのに。
「人間ごときにやられるとは、聖族の恥だ。」
「申し訳ありま……」
「それは聞き飽きた。」
ミカエル様の声は冷たかった。今回この極東に来て、人間の支配を任されたのはミカエル様を除き四人の聖族だ。グレーティア、ウーテ、ローザ、そして私。皆、聖族の中でも戦闘訓練を積んだ選りすぐりの存在のはずだ。人間に負けるなど、信じられるものか。
「今、ウーテが一人を相手にしている。グレーティアを倒したやつにはローザを、お前は残りのやつを相手にしろ。」
「かしこまりました。」
私はすぐにローザに指示を飛ばし、残りの一人を探しに向かう。といっても場所はミカエル様から指示があった。
この空間では全ての存在の観測魔法が打ち消されている。しかしその聖法を唱えたミカエル様自身は影響を受けない。だから侵入者の居場所も簡単に突き止めることができるのだ。
どうせなら私がグレーティアを倒した人間と戦いたかった。四天王であるミカエル様は別格の強さだとして、ついてきた四人の聖族の中では私が一番強いと自負している。いや——私を"残りのやつ"に当てるということは、グレーティアを倒したやつよりも、この"残りのやつ"の方が強い可能性が高いのかもしれない。
気を引き締めねば。
城内の廊下を飛ぶようにして移動する。ミカエル様が示した場所は、城の二階の渡り廊下付近。侵入者は移動しているようだったが、方向はわかっている。
角を曲がった先に——いた。
「お前が侵入者……。」
確かに人間だった。しかも子供。メイド服を着た、金色の髪をした少女。こんな者がグレーティアの結界を抜け、城の中にまで侵入できるものなのだろうか。
「あ、ばれた。ん、んん、失礼しました。初めまして、私はグルンレイドのメイド、クレアと申します。」
グルンレイド。どこかで聞いたことがある。あ——グレーティアが以前言っていた。脅威となる人間がいるとしたら、その存在だと。ただの妄言かと思っていたが、そうでもないのか。
「やはり私の観測魔法には反応しない……どうしてでしょうか?」
私は敵だぞ。まるで道端で他人に話しかける時のように、気さくに質問をしてくる。この緊張感のなさは何なのだ。
「ミカエル様の聖法により、情報は制御されている。」
答える必要はなかったのだが、つい口にしてしまった。この少女には人の口を開かせる何かがある。
「やはり聖法ですか。」
納得したような表情になった。どこまでも呑気な人間だ。
「今私たちに服従すれば命までは取らない。」
「でも結局奴隷にされるんですよね。それは嫌ですね。」
あっさりと断られた。この状況で——聖族を前にして、こんな返答ができる人間がいるのか。
「自分の置かれている立場がわかっているのか。」
「あなたこそ、自分の立場を確認した方がよろしいかと。」
その瞬間、膨大な魔力がこの空間を包み込んだ。
「その魔力密度は一体……。」
聖族には魔力核が存在しないので魔力酔いこそ起きないが、それでも違和感を覚えるほどの魔力密度だった。この子供の体の中に、これほどの魔力が詰まっているのか。
「その綺麗な顔や体に傷をつけるのは不本意ですけれど、まあ、すぐに直しますから。」
微笑みながらそんなことを言った。直す? 何を——
消えた。
「があっ!」
脇腹が斬られていた。短剣だ。いつ抜いたのかすら見えなかった。激痛が走り、体が傾ぐ。
「ここにいる付き人の聖族は全部で四人でしたね。みなさん美しい女性の聖族と聞きました。」
傷口から聖力が漏れていく。すぐに回復しようとしたが——内部に魔力を流し込まれている。回復聖法が阻害されている。人間の魔法で、聖族の回復を妨げるだと?
「あの、一体どのような手入れをされているのでしょうか?」
この状況に全く似つかわしくない質問。私の気を引いて油断させようとしているのだろう。その手には乗らない。私は質問に答えず、攻撃を仕掛ける。
「セイント……」
「セイントバニッシュルーム」
私の聖法がかき消された。
「なっ……」
なぜ人間が聖法を使えるのだ? ありえない。聖法は聖族固有のもの。人間が使えるのは勇者だけのはず——
「あなた、まさか勇者……。」
「いいえ。勇者ではありませんよ。そしてこれも聖法ではなく、聖法に限りなく似せた魔法です。」
聖法に似せた魔法? 一体何を言っているのだ。
「魔法は魔力というエネルギーを変換することによって唱えることができます。魔力を火に変換することでファイアーアローを、氷に変換することでアイスロックを……。理論上、魔力を変換させて生成できないエネルギー体は存在しないはずなんです。だから聖力に変換させました。」
めちゃくちゃだ。理屈としても技術としても、あまりにも非常識すぎる。しかし——現実にそれが行われた以上、信じるしかない。
「まあ、まだ威力も構築力も全然だめで、スカーレット様には遠く及ばないですけど。」
そうつぶやいていた。
「どうしても聖力に似た何かになってしまいます。まあ、むしろそれでいいのかもしれません。純粋な聖力って、なんか少し怖いですから。」
魔法構築技術が神がかっている。普通ではない。こんな人間が存在していいはずがない。メイド服を着た金髪の少女が、穏やかに微笑んでいた。
「今負けを認めていただければ、命までは取りませんよ?」
悪魔のようだと思った。人間の身で聖族にこれほど啖呵を切ることができるものなのか。今まで出会ってきた人間とはかけ離れすぎていた。
「あまり、舐めるな!セイントアロー!」
光の槍を全力で放った。だが——
「華流・花かんざし」
信じられないスピードで聖法をかわされ、私の肩に短剣が突き刺さった。
「ああっ!」
やはり追いつけない。肩の傷を回復させながら距離を取るが、内部まで魔力を流し込まれているせいで思うように回復しなかった。この少女の魔法は聖族の体の中にまで浸透してくる。今まで戦ってきた人間とはまるで質が違う。
「……やはり倒してしまうのはやめましょうか。まだ知りたいことがたくさんあったのを思い出しました。素直に話していただけると嬉しいのですが……。」
"倒してしまうのはやめる"? そんな言葉が、聖族である私に向けられたのは生まれて初めてのことだった。屈辱だ。こんな子供に、手加減される側になるなど。
「断る。」
私は腰に下げていた剣を抜き、少女に斬りかかった。
「そうですか……。それは残念です。」
しかし短剣一本で、私の剣を止められた。この小さな体のどこにこれほどの力があるのか。身体強化の魔法を使っているのだろうが、それにしても異常だ。
「シンクロナイズ」
精神支配魔法。だが、聖族に対してそれは意味がない。私たちは魔法に対する抵抗が強い。そんな簡単に人間ごときに情報を——
話してもいい?
「……っ!」
なんとか我に返った。確実に意識を持っていかれかけていた。魔法に対しての抵抗値は確かに高い。しかし完全耐性というわけではない。あくまで"効きにくい"だけ。そしてこの少女の魔力密度は、"効きにくい"を"効く"に変えてしまうほどのものだ。
「まだダメでしたか。もう少し弱らせないと。」
淡々とそんなことを呟いている。やはりこの人間は普通ではない。
私は距離を取り、再び攻撃態勢に入った。やるしかない。どれだけ実力差があろうと、ここで退くわけにはいかない。ミカエル様の命令は絶対だ。
「華流・」
「セイントウォール!」
聖法で壁を作った。私が唱えられる中で最も強固な障壁だ。これならば——
「周断」
壁が紙のように切断された。その余波が私の体にまで届き、胸に亀裂が走る。
「がはっ!」
壁がなければ、おそらく私の体は二つに分かれていただろう。それほどまでの切れ味。あの短い刃からどうやってこれほどの斬撃を生み出しているのか、理解できない。
「ヒートボム」
次の瞬間、私のすぐ隣の空間が爆発した。聖法障壁で致命傷は避けたが、衝撃で吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。背中に激痛が走った。翼が折れ曲がっているのがわかる。
「セイントヒール!」
すぐに回復聖法を唱えた。体の修復に全力を注ぐ。肋骨が数本折れている。翼の関節も外れかけている。早く回復しなければ——
「シンクロナイズ。」
「しまっ——」
回復に意識を集中させていた。精神防御がおろそかになっていた。
「やっぱり自身に肉体回復をする時って、精神攻撃対策がおろそかになりがちですよね。」
その声が遠くなっていく。
視界がぼやけ、思考が溶けていく。抵抗しようとしたが、もう体が動かなかった。回復聖法で聖力を使い切りかけていたところに精神支配を重ねるとは——なんという戦術だ。力ではなく、頭で勝ちに来ている。
最後に見えたのは、金色の髪をした少女がしゃがみ込んで、こちらの顔を覗き込んでいる姿だった。
その表情は——怒りでも、軽蔑でもなく、どこか申し訳なさそうな顔をしていた。
意識が、途絶えた。




