極東8
城の中に入った。
まず驚いたのは、この城が主に木でできているということだった。王国の城は石造りで、自らの堅牢さを誇示するように作られている。しかしこの城はそうではなかった。木の柱、木の梁、木の床。素材を隠そうとはしていない。むしろ木の質感そのものを活かすように設計されていた。
廊下は広く、磨き上げられた板の床が光を受けてかすかに艶を帯びている。歩くたびにきゅ、きゅ、と小さな音が鳴った。壁には所々に障子が嵌め込まれていて、向こう側からの光がぼんやりと透けている。
ある部屋の前を通りかかると、中が見えた。広い畳の部屋で、奥の壁には掛け軸のようなものが一幅かけられている。水墨画だろうか。山と川と、一羽の鳥だけが描かれた簡素な絵だったが、不思議と目が離せなかった。
廊下の突き当たりには縁側があった。そこから見える庭園は——息を呑むほど美しかった。白い砂利が波の模様を描くように敷かれ、その中に苔の生えた石がいくつか配置されている。奥には竹林が見え、風に揺れてさらさらと音を立てていた。
こんなに美しい場所に、人が一人もいない。
「やっぱり城内にも人はいないね。」
「そうだね。」
オリビアちゃんと声を潜めて話した。観測魔法をかなり広く展開しているが、何も反応しない。城下町と同じだ。人だけが消えている。
掛け軸の部屋を通り過ぎ、もう一つ奥の大広間に出た。ここも畳敷きの広大な空間で、正面には一段高くなった場所がある。おそらく将軍が座る場所だろう。そこには誰もいなかった。座布団だけが整然と並んでいて、つい先ほどまで会議が行われていたかのようだった。
「違和感を感じて駆けつけてみれば……一体どうやってここに?」
私たちは慌てて声のする方を向いた。観測魔法には何も反応していなかったはずだ。
そこにいたのは、極東特有の鎧を纏った男だった。兜のような独特な形の防具を頭に被り、腰には刀を差している。その体からは分厚い闘気が放たれていた。宿場町の茶屋で話を聞いた時に想像していた、この国の武士だ。……観測魔法には反応していない。
ただ——その目が気になった。私たちを睨みつけてはいるが、その瞳の奥に怒りだけではない何かが見えた。迷い、苦しみ……葛藤のようなもの。まるで本当は叫びたいのに、声を出すことを禁じられているかのような。
「初めまして、私はグルンレイドのメイド、クレアと申します。」
「名など聞いていない。どうやって侵入したのかを聞いているのだ!」
声は怒りに満ちていた。しかし私は気づいていた。この人の闘気が微かに揺れていることに。本気で私たちを排除しようとしている者の闘気は、揺れたりしない。
「普通にここまで飛んできました。」
「聖族はどうした。」
「仲間に任せてきました。」
その言葉に、武士は一瞬だけ目を見開いた。聖族を相手にして無傷でいるということが信じられないのだろう。
「……帰れ。死にたくなければな。」
あれ、思っていた反応と少し違った。侵入者は生かしておけない、と攻撃してくるものかと思っていた。"帰れ"と言うということは——この人は私たちを殺したくないのだ。
「一体ここで何が起こっているのでしょうか。」
「だから、さっさと帰れと……。」
「それを知らなければならないのです。」
私は相手の目をまっすぐに見た。面白半分でここに来たのではない。それが伝わるように、真剣に。
武士の瞳が揺れた。あの葛藤が、さらに強くなった。この人は何かを伝えたいのだ。けれどそれを許されていない。命令か、脅迫か——何かに縛られている。
「何をやっているのですか。」
新たな声が聞こえた。やはり私の観測魔法には反応がなかった。ゆっくりとそちらを振り向くと——聖族だった。先ほどのグレーティアとは別の個体。翼の形も、纏っている聖力の質も違う。徐々に空間が聖力で満たされていくのを感じた。
先ほどまで揺れていた武士の瞳から、一切の感情が消えた。まるで蓋をされたように。
「侵入した事情を聞いておりました。」
鎧をまとった男が目線を下げながらそう答えた。その声はさっきとはまるで別人のようだった。機械的で、従順で、何の感情も含まれていない。
「なぜ、事情を聞く必要が?」
「それは……。」
「なぜ、即座に殺さないのですか。」
笑顔でそんなことを言った。やはり聖族のそういうところが怖い。表情と言葉が一致しない。
「申し訳、ございません。」
「今回は見逃しますが、あなたもあのようになりたくなければ命令には従うことですね。」
"あのようになる"——その言葉の意味はわからなかったが、武士の体がかすかに震えたのは見逃さなかった。
報告しに行きなさい。聖族がそう言うと、武士は即座にこの場を離れていった。上に報告しに行ったのだろう。隠密行動でバレないように調査したかったのに。だって観測魔法が機能しないんだもん。
「こんにちは、お嬢さん方。そしてさようなら。」
ガギィン!
私の目の前で刃が交わった。
「ありがと、オリビアちゃん。」
「別に。」
オリビアちゃんが聖族の斬撃を受け止めてくれていた。しかし——オリビアちゃんの剣がわずかに欠けている。聖力は魔法を打ち消す力がある。魔法障壁で強化された剣でも、聖力を纏った刃には削られてしまうのだ。
「あら、私の剣が止められるとは思っていませんでした。」
再び距離を取りながら聖族がそう言った。表情は崩していなかったが、驚いているようだった。
「あなたたち聖族の目的はなんですか?」
「答えるわけないでしょう?」
聖族が再び斬りかかってきた。翼がある分、剣筋がかなり独特だ。人間ではありえない角度からの攻撃が次々に繰り出される。今はオリビアちゃんが全部受けてくれているけれど。
「後ろに隠れている弱そうな子から始末したかったけど……あなたなかなか強いわね。」
私が弱そう?ジッとその聖族を睨んだが、今はオリビアちゃんにしか目がいっていないようだった。
「クレアが弱そう?冗談はやめて。キレると私も手をつけられなくなるほど、ほんとに怖いから。」
えー、そ、そんなことないでしょ?私はいつだって穏便だよ?
「そう。じゃあ先にあなたを倒して、確かめてみないとね。シド流・宵凪!」
「私もあなたに負けるほど弱くない。華流・周断!」
お互い静かに睨み合っていた。怖いのでそそくさと別の場所に行きたいところだけど——このまま情報がないままでは、いつまでたっても真相に辿り着けない。
そういえば、さっき上に報告しに行ったあの武士。まだそう遠くには行っていないはずだ。
私はオリビアちゃんが聖族の注意を完全に引きつけている隙に、気配を消しながらその武士を追うことにした。
ーー
磨き上げられた廊下を、足音を殺して走る。認識阻害魔法を全力で展開しながら、先ほどの武士の気配を追った。闘気の残り香は、魔力とは違う独特の軌跡を残す。これを辿ることは簡単ではないけれど、できないわけではない。
城の奥へ進むにつれて、廊下の雰囲気が変わった。さっきまでの美しい造りとは違い、質素で機能的な作りになっている。ここは武士たちの詰め所のような場所だろうか。
角を曲がった先に、武士の背中が見えた。
「あの。」
「うおっ!」
「静かに。」
声をかけると飛び上がるほど驚いていた。骨格からして極東出身の人間で間違いない。
「少しお話をしたくて。」
「話せることはない!」
だから静かにしてほしい。さっきみたいに聖族がやってきたら面倒なことになる。
さっき城の大広間で見た、この武士の瞳の揺れを思い出した。あの葛藤は演技ではない。この人は何かに苦しんでいる。何かを伝えたいのに伝えられない。
「仕方ないですね。シンクロナイズ。」
「精神支配か!」
あれ、あまり効いていない。頭に被っている独特な形の防具——兜に聖法が付与されている。精神支配対策。どこまでも用心深い。
「私の魔力密度の前では、ないようなものですけど。シンクロナイズ。」
その上からさらに精神支配魔法を重ねた。普通のシンクロナイズでダメなら、魔力密度を上げればいい。聖法障壁ごと押し潰してしまえば関係ない。
「それでは、いろいろと教えてください。」
「ああ、わかった。」
支配完了。
武士は力の抜けた表情で壁に寄りかかった。精神支配下では自発的な意思は抑制されるが、質問に対しては正直に答えるようになる。
「まずは……あの聖族たちは何?」
「あれは、私たちを支配する存在。」
支配。極東は独立国家だ。そう簡単に支配されるとは思えない。けれど、相手が聖族であれば話は別だろう。人間が正面から勝てるような種族ではない。
「聖族はなぜ極東の支配を?」
「魔族を滅ぼす足がかりに……。」
魔族? なぜそこで魔族という言葉が出てくるのか。さらに話がわからなくなった。ただ、聖族と魔族が良好な関係でないことは座学で習っている。完全に無関係だと切り捨てることはできない。
「この騒動の首謀者は?」
「聖族だ。」
「もっと詳しく。」
「四天王、ミカエル。」
体が固まった。
四天王。神に直接仕えているとされる、聖族の頂点ともいえる存在の一人。座学で名前だけは習った。しかしそれは歴史の教科書に出てくるような、遠い存在だと思っていた。
それが今、この極東にいる。
私たちが相手にしていいレベルの存在ではない。メルテちゃんとリアちゃんとアナスタシアちゃんの三人がいたとしても、勝てるかどうかわからない。
「極東の港は普段と変わらず、この場所には人がいない。これはどういうこと?」
「侵攻がまだ港まで進んでいないだけだ。いずれ極東の全てが支配されるだろう。」
現在支配されているのは、この城下町だけということか。だから港町は普通に機能していたのだ。
「なんで港の人たちはここが支配されていると気づかないの?」
物流がある限り、極東の中心の出来事は情報として運ばれるはずだ。なのになぜ港には何の情報も届いていなかったのか。情報の遮断? あ——
「あの聖法障壁について教えて!」
私たちがここに来る時に通り抜けた、あの不思議な結界のことだ。
「情報遮断を目的とした聖法障壁だ。」
「もっと具体的に。」
「わからない。」
ここに来た商人を殺して情報を止めるということはしていないはずだ。戻ってこない商人が増えれば、それ自体が怪しまれる。必ず元の場所へ帰還させている。ということは、あの障壁の効果が発動するのはここから出る時——おそらくこの場所で見聞きした記憶を消す、もしくは改変するような効果があるのだろう。これ以上は推測の域を出ないが。
一つ一つの情報が、頭の中で繋がっていく。黒海の魔物の異常発生。聖族による極東の支配。四天王ミカエル。情報遮断の結界。城下町から消えた人々。
規模が大きすぎる。見習いの私たちが手を出していいレベルの問題ではない。これはグルンレイドに持ち帰って、メイド長やご主人様に判断を仰ぐべきだ。
でも——
「じゃあ最後に、あなたたち極東の人は、どうしてほしい?」
最後にそれだけ聞いておきたかった。
武士の口から、精神支配下にもかかわらず、震えた声が出た。
「……助けてくれ。」
その声は、精神支配魔法で引き出された無機質な回答ではなかった。魂の底から絞り出されたような、生の感情だった。
「多くの人間が奴隷のように扱われている。力を持った我々武士も、民の命を人質に取られては従うしかない。」
その言葉を聞いた瞬間、奥歯を噛みしめた。
しかし、四天王が相手だ。私たちでは勝てない。それはわかっている。
でも——"助けて"という言葉を聞いて、何もしないまま帰ることが私にできるだろうか。
……できない。
「ありがとう。もう寝ていいよ。私たちがなんとかしておくから。」
精神支配を解くと同時に、睡眠魔法で武士を眠らせた。壁に寄りかかったまま、静かに目を閉じる。
最後の"助けてくれ"は、精神支配の効果ではない。あれはこの人自身の言葉だ。その言葉の熱が、柄にもなく私の胸を焼いていた。
私は人間だから人間の味方をするわけじゃない。種族なんてこの際どうでもいい。ただ——誰であろうと、生命の尊厳を踏みにじるような行為は絶対に許さない。
だから私は聖族を止める。
……止められるかどうかは、まだわからないけど。
少しずつ、この"違和感"の本質が見えてきた。さっきまでの恐怖が嘘のように、頭が冷えていくのを感じる。
やるべきことは三つ。
一つ、オリビアちゃんとレイリンちゃんと合流する。二つ、得た情報を共有する。三つ、この場所を離れて、グルンレイドに報告する。
四天王と戦うのは私たちの仕事じゃない。でも情報を持ち帰ることは、私たちにしかできない。
私は眠っている武士に軽く頭を下げてから、来た道を戻り始めた。オリビアちゃんが聖族と戦っている音が、城の奥から微かに聞こえている。
「待っててね。すぐ行くから。」
私は廊下を駆け出した。




