人間界調査2
キサラ
『一度グルンレイドの屋敷に顔を出してみてはどうでしょうか? その方が人間界の調査もしやすいでしょう。』
そのようにくせ毛のメイド――ソフィアという名前だったか――から言われたが、正直グルンレイドのメイドという存在に近づきたくはない。さっきも殺されそうになったばかりだというのに。
「キサラ、どうするの?」
「……はぁ、仕方ない。挨拶に行こう。」
イリーナにそう答えた。私たちが人間界で生きていくためには、どのみちグルンレイドのメイドは避けて通れないのだ。あの門を守っていた半透明のメイド、学園にいた金髪のメイドとくせ毛のメイド。彼女たちは人間界における一つの巨大な勢力であり、敵に回すことは避けなければならない。
「怖い。」
サナが小さな声でそう言った。あの金髪のメイドにコテンパンにやられてからというもの、グルンレイドのメイドをかなり怖がってしまっているようだ。首を切断されて、目が覚めたら元通りになっていた。あんな体験をすれば当然といえば当然か。普段は怖いもの知らずのサナが、こうまで萎縮するとは。
「心配することないよ。こっちから手を出さなきゃ何もしてこないから。……多分。」
「うん。」
あの超絶わがままな性格のサナがこれほどまで素直に頷いている。グルンレイドのメイド恐怖症は深刻なようだ。
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とりあえくせ毛のメイドの指示通りに、王国から南西にある山へと向かっていた。上空を飛びながら、眼下に広がる人間界の大地を眺める。
やはり周囲の人間たちは弱いものばかりだった。魔力の気配はほとんど感じられず、私たちが近づくだけで瘴気に当てられて死んでしまうような、そんな脆弱な存在。しかしむやみやたらに人を殺す必要もないし、何よりグルンレイドのメイドに殺されるのは御免だ。私たちの体から自然と溢れ出る瘴気が地上に届かないよう、十分な高度を保って飛んでいる。
「夜になるとちょっとだけ瘴気が濃くなるわね。」
イリーナがそう言った。すでに太陽は沈み、あたりは真っ暗な夜になっている。確かに昼に比べれば瘴気密度が上昇しているように感じる。魔法で地上を観測してみると、瘴気だまりからモンスターが生まれてくるのが見えた。魔界で読んだ文献によると、人間はこのモンスターを「魔物」と呼んでいるらしい。魔界の魔物たちも同じ名前で呼ばれているのだと知ったら、たまったものではないだろう。
「魔界に生まれるモンスターに比べてかなり脆弱だわ。」
「そうだね。」
山頂にいるグリフォンもかなり小柄で、魔力量も少ない。さっきの平原で見かけたゴブリンなんて弱すぎて、モンスターという言葉すら似合わない。魔界のゴブリンは人間の村を一つ壊滅させるくらいの力を持っているが、こちらのゴブリンは子どもの冒険者にすら倒されるレベルだろう。
そんなことを考えながら空を飛んでいると、再び平野に出た。遠くには大きな森が見える。その手前には、王都にも引けを取らないほどの街並みが広がっていた。
「……綺麗。」
思わず、その言葉が口から漏れた。
夜だというのに、街全体が温かな光で照らされていた。建物の窓から漏れる灯り、通りに並ぶ街灯、広場を飾る装飾。それらが暗闇の中にぽっかりと浮かぶ光の島のように見えた。二人を見ると、サナもイリーナも光り輝く街に視線が釘付けになっていた。
「魔法?」
「ええ、おそらく。」
二人の会話が夜に溶けていく。ふと意識を外に向けると、何かが違った。空気が澄んでいる。王都周辺と環境は大きく変わらないはずなのに、ここは不思議なエネルギーに包まれているようだった。魔力でもなく、瘴気でもない、もっと穏やかで温かいもの。
「たぶん、精霊の加護がついてる。」
サナがそう言った。私にはそういうものを感じ取る能力はないが、サナは生まれつき感覚が鋭く、さまざまなものを感知することができる。
「しかも最強クラスの精霊。」
確かに街や平野だけでなく、奥に広がる森全体をも包み込んでいるようだった。最強クラスの精霊がこの領地を守護しているということは、ここが普通の領地ではないということだ。
「じゃあ、向かおうか……っ!」
私がそう言って街へ飛んでいこうとした瞬間、違和感が体を駆け巡った。まるで全身をなぞられたような感覚。目に見えない糸が私の体に触れて、そのまま情報を吸い上げていくような。
これは――結界。
おそらく私たちが上空にいることが探知された。
「どうしたの?」
「キサラ?」
二人は感じていないようだ。結界の感知精度が高すぎて、私にしか分からないレベルの術式なのだろう。いや、それでいい。下手に不審な行動をして怪しまれるよりは、堂々と正面から向かった方がいい。
ということで、特に何も対策をせずゆっくりと街へ移動していった。
「……ここが人間の、いいえ、グルンレイドの街ですか。」
地上に降り立った瞬間、言葉を失った。形容しがたい街並みが広がっていた。
石畳の道は磨き上げられたように滑らかで、その両側に建つ建物はどれも精緻な造りをしていた。窓枠には細やかな装飾が施され、看板の文字は一つ一つ丁寧に書かれている。通りを歩く人々の服装も清潔で、表情には穏やかさが漂っていた。魔界で見た人間の集落とはまるで別物だ。あれは瘴気に汚染された辺境の村でしかなかった。ここは、文明そのものだった。
見るもの全てが新しいもので、サナなんて口を半開きにしながらキョロキョロと周囲を見回している。さっきまでの怖がりようが嘘のようだった。念のために、周囲の人間からは私たちが人間に見えるように魔法をかけている。角や尻尾を隠す程度の簡易的なものだが、普通の人間には十分だろう。
「お、そこの嬢ちゃんたち! 新作を作ってみたんだ、味見してくれねぇか!」
急にそのように声をかけられた。振り向くと、小さな屋台のような場所に一人の男が立っていた。エプロンを巻いた恰幅のいい男で、満面の笑みを浮かべている。
「私たち……?」
「そうだ!」
そう返事をするやいなや、何やら小さな塊を差し出された。茶色い、丸い、つやつやとした何か。
「これは……。」
「新作のチョコレートだ。さ、食べてみてくれ。」
男はこちらをじっと見ている。期待に満ちた目だった。
「毒の可能性もあるわ。」
「やめたほうがいいと思う。」
二人の声が聞こえる。確かに私もそう思う。見知らぬ人間から渡されたものを口にするなど、魔界の常識では考えられない行為だ。そう思うのだが……なんだこの甘い香りは。鼻をくすぐる芳醇な匂いが、私の理性を溶かしていく。体が、この塊を食べたいと欲していた。
ぱくっ。
口に入れた。
「おっ!」
「あっ!」
「大丈夫⁉」
すぐにイリーナが回復魔法を唱えようとするが、それを手で制する。
「お、おいしい……。」
二人は驚いた表情でこちらを見つめていた。
「だろ! 新作なんだ!」
なんだこれは。舌の上でとろけるような甘味。感じたことのない柔らかさと濃厚さが口の中いっぱいに広がっていく。膝から崩れ落ちそうになった。魔界で食べてきたどの食べ物とも違う。これが……チョコレートというものなのか。
「わ、わたしも。」
「サナまで!」
結局三人とも男からチョコレートをもらっていた。イリーナも口に入れた瞬間に目を見開き、サナは体をくねらせながら甘さに悶えていた。
「あ、甘いー!」
「甘いわ。」
イリーナの表現は控えめだが、その頬はほんのりと紅潮している。
「よーし、これで次の食会では優勝間違いなしだ! ありがとな、嬢ちゃんたち。おかげで自信がついたぜ。」
男は満足そうに笑いながらそう言った。私たちを味見要員に選んだだけのことだったのだ。試食をしてもらい、その反応で手応えを確かめたかった。ただそれだけ。
屋台を離れながら、私はまだ口の中に残るチョコレートの余韻を噛みしめていた。
「これが人間?」
私たちの知っている「人間」とは大きくかけ離れた存在だった。魔界で聞いていた人間像は、残虐で非道で、魔物を殺し、時に同族すら殺す野蛮な種族。しかし目の前の人間は、見知らぬ者に笑顔でチョコレートを差し出すような、温かい生き物だった。
「やっぱり私、キサラについてきてよかったわ。」
イリーナがそう呟いた。その目には街の灯りが反射して、小さな光が宿っていた。水色の長い髪が夜風に揺れている。
「私も面白い!」
さっきまでグルンレイドのメイドに怯えていたくせに、この街に入った途端すっかり元気を取り戻したサナもそう言った。
「そう、ならよかった。」
私は人間を滅ぼすために調査しているのではない。私はただ、本当のことを知りたかっただけなのだ。魔界で語り継がれてきた人間像が正しいのか、それとも別の真実があるのか。それを自分の目で確かめたかった。
そうして私たちの前に、一人のメイドが現れた。
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「こんばんは、今夜はどのようなご要件でしょうか。」
言葉の丁寧さとは裏腹に、鋭い目つきが私たちを突き刺した。街の通りに一人のメイドが立ちはだかっていた。背はそれほど高くなく、落ち着いた佇まいの少女だ。夜の街灯に照らされたメイド服が、藍色の光沢を放っている。
グルンレイドのメイドのことだ。私たちの居場所などすぐに特定できるだろうと思っていたので、見つかったこと自体には驚きはない。あの結界に引っかかった時点で、こうなることは予想できていた。
「ここを攻撃しようってわけじゃないよ。ほら。」
私はすぐに通行証を見せた。学園での一件で学んだのだ。これを早めに見せないと大変なことになると。あの金髪のメイドに首を切られたサナの姿が脳裏をよぎり、自然と手が速くなった。
「ミクトラ様の……失礼いたしました。」
メイドがそう言って頭を下げた。その所作が流れるように滑らかで、一瞬目を奪われてしまう。頭の角度、手の位置、腰の曲げ方。すべてが計算し尽くされたような美しさだった。
「私はグルンレイドのメイド、クレアと申します。本日はどのようなご要件でしょうか。」
「えーっと……ちょっと挨拶をしにね。一応ね。」
なんか変な感じの説明になってしまった。まあ、ニュアンスを汲み取ってくれ。
「かしこまりました。ご主人様への謁見ということですね。今夜はすでに日が落ちておりますので、明日によろしくお願いいたします。宿泊場所はご用意いたします。こちらへどうぞ。」
すらすらとそう言い切ると、クルリとターンをした。メイド服の裾がふわりと舞い、そのまま大きな通りをゆっくりと歩き始める。迷いのない足取りだった。
「……野宿のつもりだったんだけど。」
「私も。」
「ええ。」
私たちは顔を見合わせたが、せっかく宿に泊まれるのだからおとなしく後ろをついていくことにした。魔界では地面で寝るのが当たり前だったから、屋根のある場所で寝られるだけでも贅沢だ。
「私たちが今歩いている場所はメインストリートと言います。真っすぐ進むとご主人様のお屋敷へとつながっております。」
歩きながらクレアが説明をしてくれた。メインストリートと呼ばれるその通りは広く、両側には色とりどりの看板を掲げた店が並んでいる。夜だというのにまだ営業している店もあり、灯りが通りに温かい色を落としていた。
「そしてこちらにはさまざまなお店が並んでおります。あちらがお菓子を販売しているお店、そちらが異世界の物品を販売しているお店です。」
異世界の物品。その言葉に興味を引かれたが、今はクレアの後ろをついていくのが先だ。どの店も初めて見るもので、興味が尽きることはなかった。
「本日はこちらにお泊まりください。」
案内された場所を見上げて、三人とも固まった。
これは……魔貴族の城ではないだろうか。白い壁面に金の装飾が施された巨大な建物が、夜空に向かってそびえ立っていた。入口には磨き上げられた石の階段があり、扉は重厚な木製で、精巧な彫刻が刻まれている。
「……すごいわね。」
「おっきぃ……。」
サナは上を見上げすぎて、そのまま後ろに倒れそうになっていた。イリーナが咄嗟に肩を掴んで支える。
「その前に、ここでは人間化の魔法は不要ですので解かせていただきます。」
クレアがそう言った瞬間、私たちにかけていた魔法が解除された。本来の姿に戻ってしまう。サナの額には小さな角が現れ、イリーナの耳は尖った形を取り戻した。私の瞳も、人間に擬態していた茶色から本来の赤色に戻ったはずだ。
「これでは……。」
「問題ありません。私たちのメイドにも魔族の方はおりますので。」
恐る恐る宿の中に入ってみた。
「いらっしゃいませ。」
受付にいた人間が、何の驚きもなくそう挨拶した。角の生えた魔族が三人、目の前に立っているというのに。声を上げることもなく、逃げ出すこともなく、ただ普通に接客をしている。
「ここでは外の常識は通用しません。あなたたちが私たちの敵でない以上、何の不自由もなく生活することができます。」
クレアがそう言い切った。
敵になった瞬間にどうなるか。いや、考えるのはやめておこう。
「それでは私はこれで失礼いたします。後はこちらのホテルの案内にしたがってください。」
「失礼いたします」と頭を下げて、クレアは帰ってしまった。来た時と同じように、流れるような所作で。
「ご案内いたします。」
受付の人間に導かれるまま、私たちは部屋まで案内されていった。
「それではごゆっくり。」
扉が閉められたが、私たちはまだ動けないままでいた。
目に入るもの全てが超一級品だった。広い部屋の中央には天蓋付きの巨大なベッドが三つ並んでいて、壁には繊細な模様の壁紙が貼られている。窓際にはソファとテーブルが置かれ、テーブルの上には果物とチョコレートの盛り合わせが用意されていた。床は柔らかい絨毯で覆われていて、足を踏み入れた瞬間にふかふかと沈み込む。
やはりここは魔貴族の城の中なのではないか。
「キサラ、すごい。」
「サナ……さっきからそれしか言ってないよ……。」
でも確かにすごい。建物も、景色も、そしてここにいる人間たちも。魔界でどれだけ力を持った魔族でも、これほど洗練された空間を作り上げることはできないだろう。力と文明は別物だということを、改めて思い知らされた。
「私たちが見ていた世界って、案外狭いものだったのかもしれないわね。」
イリーナが窓の外を眺めながらそう言った。魔族として生まれて、そこからは戦いに明け暮れる日々。狭いというよりは、知ろうとしていなかっただけだと思う。目の前に広がる世界から目を背けて、魔界の中だけで完結していた。
「……これから、どうする?」
「……どうしようかしら。」
輝かしい部屋の中で、私とイリーナは顔を見合わせた。サナはすでにベッドの上でぴょんぴょん跳ねている。
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翌朝。
私たちはクレアに連れられて、グルンレイドの屋敷へと向かった。
……終わりだ。何が終わりかって。私たちの人生だ。こんな人間がいるなんて聞いていない。
「貴様らか、人間界を見たいといっている魔族は。」
「は、はいっ!」
絞り上げるように声を出した。グルンレイドの屋敷の中。巨大な謁見の間に通された私は、「神」にも等しいと思える存在の前に頭を下げていた。
ジラルド・マーグレイブ・フォン・グルンレイド。
椅子に座っているだけだった。ただそこに座っているだけなのに、部屋の空気が押し潰されるように重い。そばにいる黒髪のメイドも只者ではなかった。短く整えられた黒髪と、静かな瞳。穏やかな表情をしているのに、その奥に底知れない力が蓄えられているのが分かる。
「わ、私はキサラ、そ、そしてこちらがサナ、こちらがイリーナ……です。」
二人の方を見ると、今にも死にそうな表情をしていた。呼吸が不規則で、手足が震えている。想像を絶する魔力密度に、魔力酔いを起こしかけているのだ。
早く。早くこの場を離れたい。
「ふむ。」
全てを知っているかのような目でこちらを見ていた。力だけでなく、全てを見通す知恵まで持っているというのか。
「こちらの三方は知識欲を満たすための、人間界の調査が目的ということでした。」
クレアが説明してくれた。言い方はあれだが、その通りだ。私たちは人間という生き物について知るためにここに来た。決して侵略目的ではない。それをこの恐ろしい存在に理解してもらわなければ。
「そういうことなら問題ない。好きにするといい。ただ、むやみに人間に危害を加えることは許さん。」
「は、はい!」
ここで「危害を加えるかもしれない」などと言える存在が、果たしてこの世に存在するのだろうか。あの目の前で嘘をつけるほど強靭な精神を持った魔族がいるとは思えない。
「初めての人間界に戸惑うこともあるだろう。どこを見るべきかクレアに聞くといい。」
「は、はい!」
それだけ言うと、領主の話は終わったようだった。クレアが私たちのそばに寄り、立ち上がるように促す。
私は震える足を無理やり立たせた。イリーナもなんとか立ち上がろうとしているが、サナがもう一歩も動けないほどにその場で固まってしまっていた。顔面蒼白で、目が虚ろになっている。
「……仕方ないですね。」
クレアがそう言うと、ペタンと座り込んでいるサナを魔法で浮かせ、こちらへと引き寄せた。宙に浮いたまま運ばれていくサナ。なんともシュールな光景だった。私はイリーナに手を貸して立たせ、震える足でこの部屋を退出した。
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「あんな人間がいるなんて聞いてない!」
屋敷を出てしばらく歩いたところで、徐々に元気を取り戻したサナがそう叫んだ。
「……聞き捨てならない言葉遣いですね。」
「ご、ごめんなさい……。」
クレアの静かな視線にビクッと怯えながら謝る。もうすでにグルンレイド恐怖症は完全に定着しているようで、サナはメイド服を着た人を見かけるだけで私の後ろに隠れるようになってしまった。ただ、クレアに対しては何度か会話をしているからか、そこまで顕著に発症するわけではないらしい。
「まあ、これで私たちも堂々と調査できるわけだからよかったよ。」
「そう、よね。」
イリーナはまだ少し震えているようだったが、あの領主が怖いのであってメイドたちが怖いというわけではないらしい。街ですれ違うメイドたちと会話する姿も少しだが見かけた。見た目から人付き合いが苦手そうに思われがちだが、案外イリーナのコミュニケーション能力は高い。
「人間界で押さえておきたい場所などを細かく説明したいので、もう一泊していただけませんか?」
クレアからそう提案された。
「別にいいけど、私たちこのくらいしか魔石を持ってないよ?」
袋の中にある全ての魔石をクレアに見せた。人間界の貨幣に換算すると金貨三枚程度だろう。食事は狩りをすればいいし、寝る場所は地面で十分。正直、私たちが生きる上で魔石を使う機会なんてほとんどないのだ。
「魔石は必要ありません。が、もしよければ少しご協力していただきたいことが……。」
その協力とは、私たちが得た調査結果をグルンレイドに提供してほしいということだった。私たちとしては調査結果を共有したところで減るものではないし、何より「人間界で押さえておきたい場所」という情報を得られるのは非常にありがたい。正直、人間界のどこを見ればいいのか全く分かっていなかったのだ。
「うん、いいよ。私も正直人間界のどこを見ればいいかとかわからなかったし。」
「ありがとうございます。」
ということでもう一日グルンレイド領に滞在することになった。クレアは明日丸一日かけて、人間界の地理や主要な都市、注意すべき場所などを教えてくれるらしい。
しかし、それは明日の話だ。
あの領主の圧から解放されて、ようやく体中の緊張がほぐれてきた。部屋に戻り、ベッドに腰を下ろす。昨夜は興奮してあまり眠れなかったが、今夜こそはこのふかふかのベッドを堪能しよう……と思った矢先。
「どうするって……出かけるしかないでしょ!」
サナが窓から外へ飛び出した。
「ま、待ちなさい!」
イリーナが叫んだが、すでにサナの姿は夜空に消えていた。金色の髪が月光にきらめいて、あっという間に街の灯りの中に溶けていく。
もう声が届かないと悟ったイリーナは、額に手を当てて深く首を振った。
サナ、また勝手なことを。魔石もろくに持っていないくせに、どうやって買い物をするつもりなんだ。いや、そもそもあの子は買い物の仕方を知っているのだろうか。通貨という概念を理解しているかすら怪しい。
窓の外に目を向ける。グルンレイドの夜の街が、柔らかな光に包まれて広がっていた。チョコレート屋の灯り、果物屋の看板、通りを歩く人々の笑い声。全部が温かくて、全部が新しい。
正直なことを言えば、私もこの街をもっとじっくり見たいと思っていた。
「私たちも行こうか。」
「そうね。」
イリーナの目にも、昨夜と同じ光が宿っていた。街の灯りを映した水色の瞳は、魔界にいた時よりもずっと生き生きとしていた。
そうして、私たちも窓から夜の街へと飛び出した。
冷たい夜風が頬を撫でる。眼下に広がるのは、私たちがまだ知らない世界。魔界で聞かされてきた「人間は残虐で非道な存在」という常識が、この街にいると嘘のように感じられた。
この世界は、まだまだ知らないことで溢れている。




