柏城・春3
「何度も申し上げますが、ハルさんは寝るだけでかまいません。」
「私、寝つきが悪い方なのでうまく寝られるかわかりません……。」
リアちゃんが困ったように微笑む。その笑顔を見ると少し安心するのだけれど、やっぱり緊張はする。初めての場所で、しかも自分が実験の被験者で、どこかから観測されているかもしれないという状況で、すんなり眠れる自信がまるでない。
「リアとメルテも気にせずに寝てかまわないからね。」
メイド長さんが穏やかな声でそう言った。部屋の入り口に立つその姿は、いつ見ても凛としていて美しい。
「はい。」
「分かりました。」
リアちゃんとメルテちゃんがそれぞれ返事をして、自分のベッドに入っていく。シーツの擦れる音が静かな部屋に小さく響いた。
「それでは、お休みなさいませ。」
メイド長さんはそう言って部屋を出ていった。扉が閉まると、部屋の中に夜の静寂が降りてくる。窓の外では虫の声がかすかに聞こえていた。
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アシュリー
メイド長の部屋へ向かう廊下を歩きながら、私は今夜の観測について頭の中で整理を行っていた。
この世界と異世界のつながりを観測する目的で、異世界人のハル・カシワシロをこの屋敷に招いている。リアとメルテの部屋で寝るそうだが、特に問題はない。むしろ、リラックスした状態で眠ってもらえる方が実験としては都合がいい。
「アシュリー、うまくいきそうですか?」
イザベラ様が声をかけてくる。廊下の灯りに照らされたその横顔は、いつもと変わらず穏やかだったが、瞳の奥にはかすかな緊張の色が見えた。
「見ないことには分かりませんね。」
正直な回答だった。私の観測魔法は、自身の魔力を媒介として、あらゆる事象に干渉することができる。そして干渉した事象のすべての情報を観測できる。この能力はグルンレイドのメイドの中でも特殊なもので、だからこそ今回の実験で私が観測の要を務めることになった。
しかし今回の対象は、異世界と異世界の接続という前例のない現象だ。何が起きるか、正確には予測できない。
「今回は、私、あなた、ヴィオラ、そしてミクトラで観測を行います。」
イザベラ様がメンバーを告げた。
ミクトラが来るとは意外だった。あの気まぐれな霊族が、こういう地道な観測に参加するとは。しかし、ご主人様やメイド長の指示だとすればすんなりと従うということだろう。今回の目的が魂の動きを追うことだと考えれば、霊族であるミクトラの参加は必然だった。魂に関する知見と感覚において、ミクトラの右に出る者はこの屋敷にはいない。
「天界の門の守護は……。」
「マークにやらせています。」
「マークさんの付き人は……。」
「コトアルです。」
マーク様もいろいろと大変だ。本来ミクトラが担当している天界の門の守護を急遽任されたわけだから。そしてコトアルが付き人とは……だからさっきの風呂でヴィオラが不機嫌だったのか。合点がいった。
でもヴィオラ、心配しないで。確かにコトアルは従順で真面目で、そして規律を守る完璧なメイドだけど、あなたも負けてないよ。
……これ、フォローになってる?
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「集まりましたね。」
イザベラ様の部屋に四人が揃った。
イザベラ様の部屋はご主人様の部屋ほどの豪華さはないものの、整然と片付けられた空間にはメイド長らしい几帳面さが表れている。壁際の本棚にはびっしりと資料が並び、デスクの上には今回の実験に関するメモが広げられていた。
「ヴィオラ、今頃マークさんとコトアルはうまくやってるかなー?」
私がそう言うと、ヴィオラが振り返った。
「……っ!」
その視線に射抜かれた瞬間、私はさっと目をそらした。普通に怖い。神眼持ちに睨まれると、魂まで見透かされているような気分になる。
「アシュリー、からかうのはやめなさい。」
「すみません。」
イザベラ様にたしなめられてしまった。でもヴィオラは反応がかわいいから、つい構いたくなるんだよね。からかいがいがあるというか。
「でも二人が天界の門にやってきた時は手をつないでいたわよ。」
「ミクトラさん、それは本当ですか!」
ミクトラの爆弾発言に、ヴィオラの声が裏返る。反応がかわいい。
いや、マークさんは飛べないのだから、天界の門まで行くには手をつないで運んでもらうしかないじゃないか。冷静に考えれば当然のことなのだけれど、ヴィオラはそこまで頭が回っていないようだ。帰ってきてからマークさんが質問攻めに遭う未来が容易に想像できた。ちょっとかわいそうだけど。
「それでは始めますよ。ミクトラは姿を消してハル様のもとへ。」
「かしこまりました。」
ミクトラの半透明な体がさらに薄くなり、やがて完全に見えなくなった。霊族特有の消失だ。魔力反応も感じ取れなくなる。ハルさんの部屋に潜んで、近距離から魂の動きを観測するのがミクトラの役割だった。
それ以外の三人はこの部屋で遠隔観測を行う。
ヴィオラの目が青く染まった。藍色の瞳が蒼い光を帯び、部屋の空気がかすかに揺らぐ。次の瞬間、私の頭の中にリアたちの部屋の情景が浮かび上がった。
記憶の共有。
神眼はこんなこともできるのだ。ヴィオラが見ている映像をそのまま私たちの脳に送り込んでいる。まるで自分がその部屋にいるかのように、細部まで鮮明に見える。
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『えー、リアちゃんってもともと冒険者だったの⁉』
『荷物持ちでしたけどね。』
三人で楽しそうに話をしている。ハルさんのベッドの上で、リアとメルテがそれぞれ自分のベッドに座り、夜更かしのおしゃべりに花を咲かせていた。リアが少し照れくさそうに過去のことを話し、ハルさんがそれに大げさなリアクションで応じる。メルテは時折短い言葉を挟むだけだったが、その表情は穏やかだった。
今のところ、特に変わった様子はない。やはり完全に眠った状態でなければ変化は起きないのかもしれない。だがハルさんは初めて寝るような場所ではあまり寝つきがよくないと言っていた。これは時間がかかるな……。
私は魔力を薄く広げ、部屋全体の事象を観測し続ける。空間の歪み、魔力の揺らぎ、時間の流れ。すべてが正常な数値を示していた。
『ハルさん、寝られそうですか?』
『うーん、私あまり寝つきがいい方じゃないからね。』
『ゆっくりでいいですからね。私も初めての場所じゃ寝つきがいい方ではないですし、気持ちは分かります。深呼吸をすれば眠りやすいと聞きましたよ?……あれ? ハルさん?』
……嘘でしょ。
彼女は寝ていた。
一秒前まで楽しそうに会話をしていたのではなかったか? 文字通り一瞬で意識が途切れたかのように、ハルさんは穏やかな寝息を立て始めていた。いつでもどこでもすぐに寝られるという自負がある私よりも早いのではないだろうか。それくらいの速度で眠りについていた。
寝つきが悪い……?
『ハルさん……。』
リアも驚きのあまり言葉を失っている。メルテはすでに毛布を被って目を閉じていたが、おそらく同じことを思っているだろう。
「ヴィオラ、何か変化は?」
イザベラ様が静かに問いかける。
「特にありません。」
神眼は異常を検知していない。私の観測魔法でも、特に感じ取れるものは――。
っ!
「イザベラ様! 時空の裂け目が生まれています!」
それは一瞬だった。
ハルさんが眠りについてからわずか数分。部屋の空間に、ごく微細な亀裂が走ったのを私の観測魔法が捉えた。目に見えるようなものではない。音もない。ただ、この世界の空間を構成する何かが、極めて細い線に沿って裂けていく感覚があった。
まるで薄い布の繊維が一本ずつ解けていくように、時間と空間の境界が曖昧になっていく。
「ミクトラ! 気をつけて!」
イザベラ様がメッセージを飛ばす。
「はい!」
ミクトラからの返答が脳内に響いた。声には緊張が滲んでいたが、まだしっかりとしている。
時空の裂け目は神眼のような特殊眼でしか、基本は見ることができない。
「ハル様の魂が出てきています!」
私の目には見えないが、ヴィオラがそう言った。神眼は魂を知覚できる。そしてミクトラは霊族として、魂の動きを直接感じ取ることができる。
「確かに魂と肉体のつながりが薄くなってきています。」
ミクトラもそう報告してきた。二人の証言が一致するということは、まさに今、ハルさんの魂が肉体から離脱しようとしているのだ。
私の観測魔法が時空の裂け目の情報を捉え続ける。裂け目は少しずつ広がっていた。しかしその速度は緩やかで、どこか自然な流れのようにも感じられる。これがハルさんにとっての日常なのだ。毎晩眠りにつくたびに、この現象が起きていたのか。
「……っ! 魂が消えました!」
ヴィオラの声が鋭く響いた。
「時空の裂け目も消失しました!」
私の観測でもそれを確認する。裂け目が閉じたのだ。ハルさんの魂が裂け目の中に入り、そして裂け目ごと消滅した。まるで最初から何もなかったかのように、部屋の空間は元通りの静けさを取り戻していた。
ハルさんの体は穏やかな寝息を立てたまま、ベッドの上に横たわっている。傍目には何も変わっていない。ただ眠っているだけに見える。しかし今、この体の中に魂は存在しない。
「ミクトラ、大丈夫ですか?」
イザベラ様がメッセージを飛ばす。
返事がない。
「……ミクトラ?」
沈黙。部屋の空気が凍りついたように重くなった。
「ミクトラさんの姿が見えません……。」
ヴィオラが唇を噛みながらそう言った。神眼をもってしても、ミクトラの存在をどこにも感知できないということだ。
「っ!」
イザベラ様の表情が厳しく引き締まった。
時空の裂け目に巻き込まれた可能性が高い。ミクトラは霊族だ。実体を持たない存在であるがゆえに、空間の歪みに対する耐性は低い。裂け目が生じた際に、そのまま引きずり込まれてしまったのだろう。
裂け目の中に入ったとしても、即座に消滅するということはないはずだ。ミクトラの魂は強靭だし、グルンレイドのメイドとしての力もある。しかし、戻ってこられなければ意味がない。あの裂け目がどこにつながっているのか、そしてそこからどうやって帰還するのか――それは誰にも分からなかった。
「ど、どうしますか、イザベラ様!」
私は声を上げた。普段は冷静でいられる自信がある。けれど、仲間が行方不明になるという事態に、平常心を保てるほど私は鉄の心臓を持ち合わせていなかった。
時空の裂け目を観測することは私にもできる。しかし、裂け目を生み出すことは私の力の範疇にはない。ヴィオラの神眼をもってしても、今の裂け目はすでに消失してしまっている。
「早急にご主人様に報告を。」
「かしこまりました。」
三人でご主人様の部屋へと向かった。
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深夜のグルンレイドの屋敷は、昼間とはまた違った静けさに包まれている。廊下を歩く三人の足音だけが、石造りの壁に反響して消えていく。
ご主人様の部屋の前に立つと、扉を開けるまでもなく声が響いた。
「入れ。」
私たちの気配を察していたのだろう。ご主人様は椅子に座ったまま、鋭い眼光でこちらを見据えていた。深夜だというのに、その存在感には微塵の衰えもない。部屋に充満する高密度の魔力が、肌をぴりぴりと刺激してくる。
「ミクトラが時空の裂け目に飲み込まれた、だと?」
イザベラ様が状況を報告し終えると、ご主人様はその一言だけを発した。
「申し訳ありません! 私の失態です。」
イザベラ様が深く頭を下げる。
鋭い眼が光った。ご主人様が真剣に考えを巡らせると、それだけで周囲の魔力密度が跳ね上がる。部屋の空気が物理的に重くなったような感覚がした。呼吸が浅くなる。
「時空の裂け目か……どうすることもできんが、完全に消滅したというわけではないだろう。明日の朝まで様子を見る。それでも戻ってこなかったら、私が出よう。」
「かしこまりました。」
イザベラ様が頭を下げたまま返答する。
ご主人様が出る。その言葉の意味を、私は正確に理解していた。グルンレイドの主が自ら動くということは、すなわちあらゆる手段を講じるということだ。それがどれほど大きな力を必要とするものであっても。
私たちは部屋を辞した。廊下に出ると、先ほどよりもさらに空気が重く感じられた。それは魔力のせいではなく、不安のせいだった。
「……明日の朝まで様子見か。」
私は小さく呟いた。
本当にミクトラは戻ってくるのだろうか。あの裂け目の先に何があるのか、誰も知らない。ミクトラは霊族だから物理的なダメージで死ぬことはない。けれど、魔力のない世界に放り出されれば、形を保てずに霊界へ送られてしまう可能性がある。そして、この世界とは異なる霊界に送られた場合、帰還する手段があるのかどうかすら分からない。
ヴィオラは黙ったまま歩いている。イザベラ様もまた、いつもの穏やかな表情を保ちつつも、その瞳の奥に静かな炎を宿していた。
ミクトラ。
あの気まぐれで、態度の大きい霊族。ご主人様とイザベラ様とスカーレット様以外の言うことはほとんど聞かないし、からかわれると本気で怒るし、面倒くさがりのくせに何だかんだで面倒見がいい。
頼むから、無事に帰ってきてくれ。
夜空を見上げると、満天の星が瞬いていた。この星の光が届く先の、さらに向こう側に、ミクトラはいるのだろうか。それとも、まったく別の場所に――。
答えのない問いを抱えたまま、長い夜が始まった。
ーー
ミクトラ
ここはどこだ。
霊界――ではない。霊界特有の魂の気配がまるで感じられない。かといって、次元のはざまのような時間と空間が入り乱れた場所でもない。あそこに漂う独特の圧迫感がない。
ただ、何もない真っ白な空間を、私は進んでいた。
上も下もない。右も左もない。遠くも近くもない。白が果てしなく続いている。音もなく、匂いもなく、温度すら感じられない。まるで世界が始まる前の、何者にもなれなかった空白のような場所だった。
ハルさんの魂と思われるものが、私の前方を飛んでいる。あの裂け目が生じた瞬間、気がつけば私はこの空間に引きずり込まれていた。咄嗟にハルさんの魂にしがみついたのは、本能的な判断だった。この何もない空間で、あの魂から離れてしまえば、永遠にここをさまよい続けることになるだろう。目印も方角もない世界で、行き先を知っているのはあの魂だけだ。
「ハルさん。」
声をかけたが、返事はなかった。
魂はどれもそうだが、はっきりと人の形をかたどってはいない。白い靄のような、ぼんやりとした光の塊。けれどその動きには迷いがなかった。右往左往することもなく、まっすぐに、確信を持って進んでいく。毎晩この道を通っているのだとしたら、もう体が――魂が覚えているのかもしれない。
しばらく飛んでいると、突然、目の前の空間が裂けた。
真っ白な世界に一筋の亀裂が走り、その向こう側から色彩があふれ出してくる。暖かい光。柔らかい空気の匂い。生き物の気配。
そして私の魂とハルさんの魂は、その裂け目に吸い込まれていった。
---
ピピピピ。
聞いたこともないような音がする。高く、短く、規則正しい音の連続。耳障りだが、どこか清潔な印象を受ける機械的な音だった。
「春姉さんー。三度目のアラームですよー。起きてくださいー。」
今度は人の声。聞いたことのない、若い少女の声だった。
「はーい!」
――そう、私の口から声が出た。
いや、違う。これは私の口ではない。声を出そうと思ったのは私ではないし、この声はハルさんのものだ。
体を起こす。しかし、体を起こしたのは私ではない。ハルさんが自分の意志で体を動かしている。私はその中に、間借りをしているような状態だった。
二つの魂が一つの肉体に宿っている。
普通ならばあり得ないことだ。二つの意識が一つの器に入れば、互いに干渉し合い、器が崩壊するのが道理だ。しかし霊族である私は、それが可能だ。
「だ、誰?」
ハルさんの声が響いた。部屋にはハルさん以外、誰もいない。けれどハルさんは何かの気配を感じ取ったのだ。私の存在を。
『驚かないでください。私はグルンレイドのメイド、ミクトラ・マリー・ローズと申します。』
声を出すのではなく、意識に直接語りかける。霊族としては基本的な伝達手段だ。
「グルンレイドの⁉」
ハルさんの声が大きくなった。驚くのも無理はない。自分の頭の中に見知らぬ声が聞こえてきたら、誰だって驚く。
「何叫んでるんですかー。早く降りてきてくださいー。」
階下から先ほどの少女の声が再び聞こえてきた。
『ミクトラさん、すみません、後で詳しく。』
『分かりました。』
ハルさんはすぐに状況を受け入れてくれた。パニックを起こすかと思ったが、さすがは異世界を行き来している人間だ。この手の非常識な事態に対する耐性が高い。
どうやら私は異世界に来てしまったらしい。
周囲を観測してみる。魔力が、一切感じられない。
霊族である私の体は魔力によって構成されている。もとの世界のような魔力の満ちた環境では問題なく存在を維持できるが、魔力のない世界に飛び出してしまえば、自分の魔力を消費して形を保ち続けることになる。ということは、いつかは底をつきて分散し、二度と戻れなくなってしまうと考えられる。そうなれば霊界へ強制送還されるだろう。しかし、この世界の霊界がどこにあるのか、そもそも存在するのかすら分からない。
今のところハルさんの体の中にいる限りは安全だ。しかし外に出ることは、事実上の自殺行為に等しい。
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「朝ごはん早く食べてくださいね。」
「ありがとう、りんごちゃん。」
階段を降りると、そこには一人の少女がいた。
これがハルさんの世界。部屋の形、物、窓から差し込む光の質、空気の匂い。そのほとんどが私の知るものとは全く異なっていた。壁は平らで均質な素材でできていて、窓には透明な板がはめ込まれている。あちこちに見慣れない道具や装置が置かれていて、その用途を想像することすらできないものも多い。
台所では、りんごと呼ばれた少女が朝食の準備をしていた。ハルさんの妹だという。
「……春姉さん。どこか調子悪いですか?」
ぎくり、とハルさんの心臓が跳ねたのを感じた。
この子は、私の存在に気づいているのだろうか。いや、そんなはずはない。魔力のないこの世界で、霊的な存在を感知できる人間がいるとは思えない。けれど、りんごという少女の目はどこか鋭かった。直感的に何かを感じ取っているのかもしれない。
「そ、そんなことないよー。」
「そうですか。」
あっさりと引き下がったものの、その背中にはわずかな疑念が漂っているように見えた。
『あの子はりんごちゃんっていいます。中学三年生の私の妹です。』
『ちゅうがく?』
聞き慣れない言葉だ。しかし、ハルさんが補足してくれた。
『えっと……リアちゃんくらいの歳? です。』
『へぇ、それにしては立派ですね。』
『……確かにそうですね。』
ハルさんの視線が、りんごという少女の胸元へと移動した。
いや、私が「立派」と言ったのは、その歳で朝食を一人で作っているということが立派だという意味だったのだが。まあ、確かに体つきも、リアと同じくらいの歳とは思えないほどに発育がよかった。
「いただきます。」
ハルさんがそう言って朝食を食べ始める。テーブルの上にはライスと卵を焼いたもの、野菜、細長い茶色の肉のようなもの、そしてスープが並んでいた。
ハルさんは「はし」と呼ばれる二本の細い棒を器用に操り、食べ物を口に運んでいく。あの棒だけで食事をするなんて、なかなかに高度な技術だと思う。こちらの世界でいえば極東の人々が似たようなものを使っていたはずだ。
「お、おいしい……。」
「春姉さん毎日いってますよね……。」
「だっておいしいんだもん。」
くっ。
こういう時に食事ができない、味覚のないこの体が恨めしい。霊族は痛覚はあるのに味覚がない。食事を楽しむという行為そのものが、私にとっては永遠に手の届かないものだ。痛覚があるのだから味覚があってもいいだろうと思うのだが、ないものは仕方がない。
ハルさんの感覚を通じて、かすかに伝わってくる「おいしい」という感情。それだけが、わずかな救いだった。
「ごちそうさまでした。」
食べ終わると、ハルさんは食器を洗い、身支度を整えた。鏡の前に立ち、髪を整え、見慣れない衣服を身にまとう。
「いってきまーす。」
扉を開けた瞬間、光と音があふれ出してきた。
---
『すごいですね……。』
思わず声が漏れた。
外の世界は、私の想像をはるかに超えていた。
道は灰色の硬い素材で舗装されていて、どこまでもまっすぐに伸びている。その上を、四つの黒い輪を持った金属の箱が猛烈な速度で走り抜けていく。建物は石でも木でもない不思議な素材で造られていて、ガラスの壁面が朝日を反射してまぶしく輝いていた。空は透き通った青色で、雲ひとつなく澄み渡っている。
魔法はどこにもない。なのに、この世界はここまでの文明を築き上げているのだ。
『ふふっ、この世界が、ですか?』
ハルさんは少し嬉しそうだった。自分の世界を褒められるのは、やはり嬉しいものなのだろう。
『私もあっちの世界に行った時は、すごく驚きましたからね。その気持ちはよくわかります。』
確かにそうだろう。魔法が存在する世界と、魔法が存在しない世界。どちらの住人にとっても、相手の世界は驚きの連続だ。
今日一日、ハルさんの中から異世界の風景を眺めていた。
ハルさんが通う「大学」という場所では、同年代の少年少女たちがまばらに座り、一人の大人が前に立って何かを教えていた。その光景は、王国の魔法学校とどこか似ている気もしたが、規模も設備もまるで違った。
昼には友人たちと食事し、夕方には街を歩いた。
巨大な金属の箱の中に大勢の人間が詰め込まれて移動する乗り物。ハルさんは「バス」と呼んでいた。さらに驚いたのは「電車」と呼ばれるもので、鉄の線路の上を信じられない速度で走る長大な箱だった。魔法なしでこれだけのものを動かしているのか。この世界の人間は、別の意味で途方もない力を持っている。
店に入れば、見たこともない食べ物や道具が山のように並んでいる。透明な容器に入った飲み物、色とりどりの菓子、薄い板のような道具を指で触ると光の文字が浮かび上がる。すべてが新鮮で、すべてが驚きだった。
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『本日はすみません。あまりまとまった時間が取れなくて。あとは寝るだけですので、今なら大丈夫です。』
夜。ハルさんは自分の部屋のベッドに腰かけ、私に語りかけてきた。一日中ずっと私の存在を意識しながら生活するのは、相当に疲れただろう。それでもハルさんは嫌な顔一つしなかった。
『い、いえ。こちらこそ勝手にハルさんの中に……。』
申し訳なさが込み上げる。好き好んでハルさんの体に居候しているわけではないが、事実として私はこの人の体を間借りしている。プライバシーもなにもあったものではない。
『問題ありませんよ。私もちょっと楽しかったですし。』
楽しかった
その言葉に、少し救われた気がした。
『ところでミクトラさんは元に戻れるのですか?』
『分かりません……。』
正直に答えた。元の世界に帰れるかどうか、私には分からなかった。きっとハルさんはいつも通りにあっちの世界に戻れるのだろう。あの白い空間を通って、あの裂け目をくぐって。けれど私はどうなるのだろうか。ハルさんの魂にしがみついてここまで来たが、帰りも同じようにいくという保証はない。
もしハルさんの魂と離れてしまえば、この魔力のない世界で私は存在を維持できない。霊界に送られるか、あるいは消滅するか。どちらにしても、仲間たちのもとへ帰ることはできないだろう。
イザベラ様は心配しているだろうか。アシュリーは、ヴィオラは。
スカーレット様に報告は行っているだろうか。ご主人様は――。
『私は、きっと戻れると思います。』
ハルさんの声が、静かに、しかし確信に満ちた響きで脳内に広がった。
『それはどうして……。』
『ミクトラさんはなんか、今は私と一心同体って感じがするんですよね。』
一心同体。
確かに、今の私たちの状態をそう表現するのは間違っていない。同じ体を共有し、同じ景色を見て、同じ時間を過ごしている。ハルさんとの魂の結びつきが強ければ強いほど、安全にあちらの世界へ戻ることができるような気がした。根拠のない直感だが、霊族としての長い経験が、それを肯定している。
『そういってもらえると私も安心します。』
『それは……よかった、です……。』
ハルさんの声が徐々に小さくなっていく。言葉の輪郭がぼやけて、意識が薄れていく感覚。
『ハルさん?』
私が声をかけた時には、すでにハルさんは眠りについていた。
さっきまで普通に会話していたのに。本当に一瞬だった。この人の寝つきの良さは、ある意味で才能だと思う。寝つきが悪いと言っていたのは一体何だったのか。
ハルさんの穏やかな寝息が、暗い部屋の中に静かに響いている。
窓の外には、見知らぬ星空が広がっていた。あちらの世界で見る星空とは、星の配置が違う。同じように瞬いているのに、どこかよそよそしく感じる光。
けれど、不安は少しだけ和らいでいた。
ハルさんが「戻れる」と言ってくれた。この人の言葉には、不思議な説得力がある。根拠がなくても、この人が言うなら大丈夫なのかもしれないと思わせてくれる。明日の朝。ハルさんの魂があちらの世界へ戻る時、私も一緒に帰れるだろうか。答えは分からない。けれど、きっと大丈夫だ。
一心同体なのだから。
ーー
「おはようございます。ハル様。」
イザベラ様の声が聞こえた。
穏やかで、けれど芯のある声。その声を聞いた瞬間、全身に――いや、魂に、安堵が広がった。
戻ってきた。
あの真っ白な空間を再び通り抜けた。ハルさんの魂に寄り添うように飛び、裂け目をくぐり、意識が途切れて、そして気がついたらここにいた。体にはなんの異常もない。ハルさんの魂から離脱しても、この世界には大量の魔力がある。霊界に送り込まれることなく、ここに留まることができる。
よかった。本当に、よかった。
「おはようございます。」
ハルさんがベッドの上で目を擦りながら返事をした。
「お目覚めのところ申し訳ありませんが、ミクトラという者を知りませんか?」
イザベラ様の声には、わずかに焦りが滲んでいた。それだけで、どれほど心配してくれていたかが伝わってきた。
「安心してください。ミクトラさんは無事です。」
ハルさんがそう答えてくれた。
「ほ、本当ですか!」
イザベラ様の声が、いつもの抑制を少し外れて高くなった。
私はハルさんの体から抜け出し、姿を現した。この屋敷の中は魔力に満ちている。霊体を維持するのに不足はない。半透明な体が、朝の光を透かしてぼんやりと輪郭を浮かび上がらせた。
「おはようございます。イザベラ様。」
「よかったです……。」
イザベラ様の目が潤んでいた。
こんな姿のイザベラ様を見るのは、すごく久しぶりだ。いつも完璧に、冷静に、美しく。グルンレイドのメイド長としての佇まいを崩すことがほとんどないこの人が、わずかに目を赤くして私を見ていた。
私をこんなに心配してくれていたのか。
その事実が、じんわりと胸の奥に沁み込んでくる。
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「何が起こったのか話を聞かせてください。」
イザベラ様にそう促され、私はあちらの世界で見聞きしたことを話し始めた。
真っ白な世界を通ったこと。ハルさんの魂に寄り添って飛んだこと。裂け目をくぐった先に、魔力のない世界が広がっていたこと。
そしてあちらの世界のこと。
建物は石や木ではなく、見たことのない素材で造られていた。道路は灰色の硬い物質で舗装されていて、金属の箱のような乗り物が恐ろしい速度で走り抜けていく。ハルさんはそれを「車」と呼んでいた。さらに鉄の線路の上を走る巨大な乗り物は「電車」。人々はそれに詰め込まれるようにして移動する。
食べ物は豊富だった。あらゆる種類の食材が店に並び、チョコレートすらどこでも手に入る。こちらの世界ではグルンレイド領でしか買えないものが、あちらの世界では当たり前のように売られている。
魔法はない。しかしその代わりに、「技術」と呼ばれるものが世界を支えていた。火を起こすのも、水を得るのも、光を灯すのも、すべてが魔法ではなく技術によって実現されている。魔力を一切使わずにここまでの文明を築き上げたという事実は、素直に畏敬に値した。
イザベラ様はメモを取りながら、一つ一つ丁寧に聞いている。時折ハルさんが補足説明を加えてくれたので、より正確な情報になったはずだ。「バス」や「電車」の仕組み、「学校」という教育機関の構造、「スマートフォン」と呼ばれる小さな板のような道具の多機能さ。ハルさんの説明は分かりやすく、イザベラ様のペンが止まることはなかった。
それらのすべては文書としてまとめられ、厳重に保存されるだろう。グルンレイドのメイドはその文書が保存されている部屋に限り閲覧を許可されているが、外部への持ち出しは固く禁じられている。このような重要な情報は莫大な財産だ。その点においても、グルンレイド領は他の追随を許さない力を持っているといえる。
「ありがとうございました。ご主人様にはメッセージであなたの安否を伝えておきましたが、実際に顔を見せるべきでしょう。」
「かしこまりました。」
そうして私はご主人様の元へ連れて行かれ、無事を証明した。ご主人様は「うむ」とだけ言い、それ以上の言葉はなかった。けれどその一言の中に、安堵があったと――そう思いたい。
---
柏城 春
「どうでしたかハルさん。」
「どうって聞かれてもね……私はただいつも通りに寝ただけだし……。」
グルンレイド領でもう一泊することになった私に、リアちゃんが顔をのぞかせながら聞いてくる。
実験の報酬をいただけるということだったのだけれど、グルンレイドのメイドたちは当然のように金品を提示してきた。けれど私が望んだのは「グルンレイドでもう一泊」という報酬だった。ちょっとわがままな提案かなと思ったけれど、みんな少し意外そうな顔をしつつも快く承諾してくれたのでよかった。
だって、あの食事をもう一回食べられるんだよ? あのお風呂にもう一回入れるんだよ? お金なんかよりよっぽど価値がある。少なくとも私にとっては。
「正直ミクトラ様が羨ましいです。」
リアちゃんがそう呟いた。
「確かに異世界に行く機会なんてないしねー。」
「そうですが……ハルさんと一緒にあちらの世界で過ごせたということが羨ましいです。」
ちょっと顔を赤らめながらそう言った。何この生き物。かわいすぎるんですけど。
リアちゃんの言葉は、私の心臓を直撃した。異世界に行けることが羨ましいのではなく、私と一緒に過ごせたことが羨ましい、と。そんなことを照れながら言われたら、もうどうすればいいのか分からない。
「今度絶対あっちの世界で遊ぼうね。」
気がつけばそう口にしていて、そのままリアちゃんに抱きついていた。衝動的だった。でも抱きしめずにはいられなかった。リアちゃんの体は思ったよりも華奢で、腕の中に収まるくらい小さい。メイド服の上からでも分かる細い肩と、ほんのり温かい体温。この子がグルンレイドのメイドとして戦場に立つのだという事実が、なんだか信じられなくなるほどに、今の彼女はただの少女だった。
「むぎゅ……く、苦しいです。」
潰れたような声を上げるリアちゃんの頭のてっぺんから、石鹸のいい香りがした。昨日のお風呂の香りだ。
私はリアちゃんから離れながら、もし本当にリアちゃんがこっちの世界に来たら何をして遊ぼうか、と真剣に考え始めていた。まずは回転寿司。あの子は絶対に驚く。ベルトの上を流れてくるお皿を見て目を丸くするリアちゃんの姿が容易に想像できる。次はショッピングモール。かわいい服をたくさん試着させてあげたい。それからカフェでパフェを食べて、プリクラを撮って、ゲームセンターに行って……。
計画は尽きない。
「ここの領主様ならなんか二つの世界をつなげられそうな気がする。」
リアちゃんの方を見ながらそう言った。ジラルド様。あの人は怖い。会うだけで呼吸困難になる。けれど、あの人が本気で何かをやろうとしたら、おそらくこの世界のあらゆる不可能が可能になるのだろう。それくらいの存在感がある。
「そうですね、ご主人様ならすべてを可能にすることでしょう。」
リアちゃんの目には、なんの疑いもなかった。
確信に満ちた瞳。ご主人様がやると言ったことは必ず実現される。それはこの子にとって信仰に近いものなのかもしれない。けれど、盲目的な信仰とは違う。実際にこの目で領主様の力を目の当たりにし、このメイドたちの能力を知った今、私もその確信を否定することができなかった。
「その時は、私がハルさんの元へおじゃましに行けるようにお願いしてみますね。」
そう言って微笑むリアちゃんの姿は、見た目に反してどこか大人びていた。普段のあどけない表情とは違う、静かな決意を秘めた笑顔。この子は、本気でそれを実現するつもりなのだ。
りんごちゃんといい、私の周りにいる少女たちはどうしてこうも大人びているのだろう。年齢だけで人を測ることの無意味さを、この世界に来てからずっと思い知らされている。
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「さ、ハルさんお待ちかねの夜ご飯ですよ。」
リアちゃんの声で、私の思考が引き戻された。
「今日はどんなメニューかな。」
「なんでしょうね。昨日は洋風でしたから、今日は和風かも……。」
和風。この世界にも和食的なメニューがあるのだろうか。極東という地域があるらしいから、そこの文化が反映されているのかもしれない。どちらにしても、昨日のフレンチが最高だったのだから、今日の料理も間違いなく美味しいだろう。
廊下を歩きながら、私は隣を歩くリアちゃんの横顔を見た。
この子に出会うことができて本当によかった。
普通に生きていたら絶対に出会うことのない子。日本の高校生である私と、異世界のメイドであるリアちゃん。住む世界が違うどころか、存在する次元そのものが異なっている。けれど、それが私の知るよしもない奇跡によって巡り会えた。
最初の出会いは偶然だった。命を救ってもらったあの日、私はただ怯えていただけだった。けれど今は違う。こうして一緒に街を歩き、クレープを食べ、お風呂に入り、チョコレートを分け合う。そんな何気ない時間を過ごせることが、どれほど特別なことなのか。
もしいつか本当に二つの世界がつながったら、私はこの子を回転寿司に連れて行こう。ショッピングモールで服を選んであげよう。公園でアイスクリームを食べながら、たわいもない話をしよう。そして「こっちの世界もいいでしょ?」と自慢してやるのだ。きっとリアちゃんは目を輝かせて、「すごいですね」と言ってくれる。その日が来ることを、私は信じている。だって、グルンレイドのメイドは不可能を可能にする人たちなのだから。
「ハルさん、どうかしましたか?」
「ん? ああ、何でもないよ。」
にっと笑って、リアちゃんの少し先を歩く。
窓の外では、昨日と同じ夕焼けがグルンレイド領を照らしていた。オレンジ色の光が石畳を温かく染め上げ、屋敷の白い壁が淡い茜色に変わっていく。
明日になればここを発つ。冒険者としての旅が待っている。エミナさんやユウトさんとも合流しなければならない。けれど、この場所で過ごした時間は、きっとずっと私の中に残り続けるだろう。




