柏城・春2
「貴様が柏城・春。異世界人だな。」
「は、はい!」
帰りたい。今すぐこの場から逃げ出したい。その圧倒的な威圧感の前で、私は立っているだけで精一杯だった。
グルンレイド領はかわいいメイドさんたちばかりで、楽園のような場所かと思っていた。けれど、そりゃ領なんだから領主もいるよね。当たり前のことを失念していた自分が恨めしい。
ジラルド・マーグレイブ・フォン・グルンレイド。
その名が示す通り、グルンレイド領を治める辺境伯その人が、私の目の前にいた。大柄な体躯に、鋭い眼光。椅子に座っているだけなのに、部屋全体が彼の存在で圧し潰されそうな錯覚を覚える。呼吸をいくらしても酸素が足りない感じがする。
私たち異世界人は魔力酔いを起こすことがない。体に魔力を蓄える機能や場所が存在しないからだ。魔法はすべてスキルによって制御されている。だから、どれだけ高密度の魔力空間に放り込まれようと、原理的には平気なはずだった。ちなみに瘴気は別で、長く浴びすぎると普通にダメージを負う。
――ではなぜ、魔力酔いを起こさないはずの私がこんなにうまく呼吸ができないのか。
答えは単純だった。領主様の、純粋な圧力である。魔力とか魔法とか、そういう次元の話ではない。この人がそこに座っているという事実だけで、空気が重くなる。存在そのものが暴力だった。
……怖い!
「身の安全は私が保証する。協力してくれ。」
「は、はい!」
私は深々と頭を下げた。というか頭を下げる以外の選択肢が存在しなかった。おそらく周囲は高密度の魔力で満ちているのだろう。普通の人間ならとっくに倒れているはずだ。私は魔力酔いこそ起こさないけれど、この人の前に立っているだけで心臓が締め上げられるような感覚がある。
「詳しいことはイザベラに聞け。」
それだけ言うと、領主様はどこかへ行ってしまった。まるで嵐が去ったかのように、部屋の空気が一気に軽くなる。
「は、はぁ……。」
膝から力が抜けそうになった。
「どうされました?」
そばにいたリアちゃんが、心配そうに声をかけてくれる。
「リアちゃんは大丈夫なの?」
「何がですか?」
けろっとした表情でそう返された。領主様の隣に立っていたメイド長さんも、特につらそうな様子は微塵もなく、いつもの穏やかな微笑みを浮かべてそこにいた。彼女たちにとっては、あれが日常なのだ。毎日あの圧の隣で仕事をしているというのか。グルンレイドのメイドが規格外だということを、改めて思い知らされた。
「いや……何でもない。」
グルンレイド領に泊めてもらえるのはとてもありがたい。けれど、できればもう領主様とは顔を合わせたくないなと心の底から思った。
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「リアから聞いていると思いますが、ハル様は寝ていただくだけでかまいません。」
メイド長さんが静かな声で説明を始めた。領主様が去った後の部屋は、嘘のように穏やかだ。
「私たちの仮説では、おそらく魂がこの世界とあちらの世界を行き来しているという結論になりました。それを観測させてください。」
魂が行き来している。確かに思い当たる節はある。こちらの世界で負った傷が、あっちの世界では跡形もなく消えていたりする。ということは肉体そのものが移動しているわけではなく、魂だけが世界を渡っているということなのだろう。言われてみれば納得がいく。
「ということはリアちゃんの部屋に、観測する方たちが来て私をずっと見ているってことですか?」
正直、人に見られていると緊張してしまう。私は寝つきがいい方ではないので、誰かの視線を感じながら眠るのはかなりハードルが高い。
「いいえ、別室で観測させていただきます。」
なるほど、監視カメラを設置されるようなものか。それだったらまだマシかもしれない。存在を直接感じなければ、あまり気にせずに寝ることができるだろう。でも寝顔を見られるのはちょっと恥ずかしいな。寝相が悪かったらどうしよう。
「質問はありますか?」
「特にありません。」
私もどのようにして私の魂が世界を移動しているのか気になる。この謎がずっと引っかかっていた。この場所なら、きっと解き明かしてくれる。そんな確信めいた予感があった。
「それでは、食事にしましょうか。」
「ほんとですか! やった!」
グルンレイド領の食事は最高。これはもう、この世界の常識と言っていい。華宴の時に食べた料理の記憶が蘇ってきて、自然と頬が緩む。
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食事は部屋で食べてもよかったのだけれど、食堂のようなところもあるらしい。一度見てみたいと言ったら、そちらで食べることになった。
「メイド長はまだお仕事があるので、私とメルテちゃんで行きましょう。」
リアちゃんがそう言って、三人で食堂へと向かった。廊下を歩きながら、さっきの領主様との謁見で強張った体がようやくほぐれてきたのを感じる。
「基本的にここで働いている者が食事をする場所です。」
「え、本当に私がいっていいの?」
「かまいませんよ。」
食堂の扉を開けると、中には数人のメイドが食事をしていた。広さはそこそこで、四人ほどが座れる大きさのテーブルが六席ほど配置されている。壁には温かみのある間接照明が灯されていて、落ち着いた雰囲気だ。メニューはどのテーブルを見ても同じもののようだった。
「量は変更できますが、メニューは変更できませんのでご了承ください。」
「すごくおいしそう。」
既に食事をしているメイドたちの皿を横目で見ると、どれもレストランのような盛り付けがされている。こんなものが毎日出てくるのだとしたら、ここで働きたい人は後を絶たないだろう。
「栄養バランスなどを考えられて作られておりますので、体にもいいそうですよ。」
この調理もグルンレイドのメイドが行っているようだった。ちらっと厨房の中を覗くと、ウェーブのかかった金髪のお姉さんが魔法を使って調理をしていた。鍋やフライパンが宙に浮かび、空中に火が灯り、その火の上で複数の料理が同時に調理されている。まるで指揮者がオーケストラを操るように、その人は両手を優雅に動かしながら、いくつもの料理を同時進行で仕上げていた。
「エミリアさん、三人分お願いします。」
「はーい。ライスかパンどっち?」
「私はライスで。」
「パンで。」
「ライスでお願いします。」
ここは当然ライスだ。もちろん今日寝ればあっちの世界で妹のりんごちゃんが作ったおいしい朝ごはんを食べることができるのだけれど、こちらの世界でのライスはかなり貴重だ。以前ユウトさんがお米をもらった時に「みんなで分ける」と言ってくれたけれど、ユウトさんは元の世界に戻ることができない。そのことを考えると、もらうのは気が引けたので、まだ食べていない。
「はいどーぞー。」
三分。たった三分で料理が完成した。厨房にはエミリアさん一人しかいないはずなのに、メインディッシュにスープ、サラダ、そしてデザートまで――それが三人分、完璧に揃えられて出てきた。
は、早い。早すぎる。魔法による調理がここまで効率的だとは。あっちの世界の時短料理が霞むレベルだ。
「ありがとうございます。」
三人でお礼を言って、近くのテーブルに座る。
「いただきます。」
目の前に並んだ料理は、見た目からしてフレンチのようだった。白い皿の上に、鮮やかな色彩の食材が芸術的に盛り付けられている。ソースのツヤが照明を反射してきらめいていて、もう見ただけで美味しいことが分かる。
フォークで一口分を切り取り、口に運ぶ。
「お、おいしい!」
思わず声が大きくなった。肉は柔らかく、噛んだ瞬間にじゅわっと肉汁があふれ出す。添えられた野菜はシャキシャキとした食感を残しつつも、ソースの旨味がしっかりと絡んでいる。そしてライスがまた素晴らしい。粒が立っていて、甘みがあって、このソースとの相性が抜群だ。
「それは良かったです。」
リアちゃんが嬉しそうに微笑む。
冒険者として各地を旅する中で、宿の料理を食べる機会はたくさんあった。でも正直、おいしいと言えるものはほとんどなかった。食べられれば十分、というレベルのものが大半だ。けれどここの料理は、あっちの世界の本物のフレンチに匹敵するような美味しさだった。いや、もしかしたら超えているかもしれない。
「私、ここに、住みたい。」
「なぜカタコトなんですか!」
あまりの感動にうまく言葉が出てこなかった。脳が美味しさの処理に全リソースを持っていかれている。
「あー、美味しかった。ごちそうさまでした。」
デザートのプリンまで完食した。プリンもまた絶品で、カラメルの苦味と卵の甘さが絶妙なバランスで舌の上で溶け合っていた。幸せとは食事のことだと思う。
食べ終わった食器類は返却口に入れるらしい。
「え、本当にいいの? 割れるよ絶対。」
テーブルの上の食器を改めて見ると、どれもかなり上等なものだった。薄くて繊細な磁器で、もちろんプラスチックなどではない。この返却口に無造作に入れてしまったら、割れる可能性の方が圧倒的に高い。
「大丈夫ですよ。はい。」
リアちゃんが軽い調子でそう言うと、お盆ごと食器を返却口の中に入れた。
――音がしない。
皿の割れる音はおろか、皿と皿がぶつかる音すらしなかった。ど、どういうこと?
「魔法障壁ですよ。食器一つ一つに薄い魔法障壁を施すことで、割れなくなります。それに汚れも簡単に取ることができます。」
魔法、すごい。食器洗いの概念が根本から覆された。これがあれば洗剤もスポンジもいらないし、食洗機もいらない。
いや、でもこっちの世界だって負けてはいないはず。回転寿司とかすごいし。ベルトコンベアの上をお寿司が流れてきて、タッチパネルで注文できて、新幹線型のレーンで届く。リアちゃんに見せたら絶対驚くだろうなー。そんな機会はないと思うけど、もしあったらぜひ連れて行きたい。
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「それでは部屋に戻って少しゆっくりしましょうか。」
「チョコレート、みんなで食べよう。」
メルテちゃんがぽつりとそう言った。
「いいの?」
「はい。」
なんていい子なんだろう。おまけにかわいい。三人でリアちゃんとメルテちゃんの部屋に戻った。
「はい、チョコレートです。」
先ほど購入した箱をテーブルの上に置き、蓋を開ける。九個のチョコレートが行儀よく並んでいて、表面にはうっすらとココアパウダーがまぶされていた。ほんのりと甘い香りが漂ってくる。
「ありがと。ではいただきます。」
メルテちゃんが左上の一つをつまんで口の中に入れた。一瞬、その表情がふわりと緩むのが見えた。
私も一つ手に取る。外側のチョコレートを歯で割ると、中からとろりとした柔らかいチョコレートがあふれ出した。外の硬さと中のなめらかさのコントラストが絶妙で、口の中でゆっくりと溶けていく。これは高級チョコの味だ。あっちの世界で散々チョコレートを食べてきたけれど、これに匹敵するものはそう多くない。
これを作った領主様はやっぱりすごい人だなと改めて実感する。怖いけど。
「リア、はい。」
「あ、ありがとうございます。」
メルテちゃんが右上のチョコを取ったかと思うと、リアちゃんの口元まで持っていった。
ま、まさか。あーんするの⁉
リアちゃんが恥ずかしそうに口を開き、パクッとチョコレートを受け取る。その時にメルテちゃんの指先にリアちゃんの唇がふれていた。
……いいね。美少女同士のあーん。これは眼福だ。
「ところで二人は今日は訓練とかないの?」
特にリアちゃんは昼から私とずっと一緒にいるけれど、グルンレイドのメイドとしての仕事や訓練はないのだろうか。サボっていたら怒られるんじゃ。
「ちゃんとやってますよ。」
「えっ?」
「ほら、しっかりと見てください。」
リアちゃんが自分の足を指さす。じっと見る。かっこいい靴だなと思った。磨き上げられた革靴で、メイド服との調和が取れている。
――あれ?
地面から浮いている。
「ドラ〇もん⁉」
「ドラ……? まあ、本日は空中移動の訓練でしたので。」
「ちなみに私は午後は休みでした。」
メルテちゃんが淡々とそう付け加える。休みもしっかりあるんだ。ブラック労働じゃなくてよかった。
というかリアちゃん、私と会った時からずっと空中に浮いていたの⁉ クレープを食べている時も、チョコレート屋に入った時も、ずっと? フライの魔法は簡単なものではないはずだ。それを何時間も中断することなく続けられるというのは、いったいどれほどの力を持っているのだろうか。
「やっぱりグルンレイドのメイドはたくさんの魔力を保有してるんだね……。」
「そう、ですが、ハルさんの言い方だとちょっとニュアンスが違う感じがしますね。体積としての魔力保有量はどんな人でもあまり差はありません。」
どういうことだろう。もしそうなら、他の人もリアちゃんと同じように魔法を使えるはずだ。
「違うのは密度です。」
「あー、そういう感じね。」
私は魔力というものを扱えないので感覚的にはよく分からないけれど、今少し理解できた気がする。要するに、魔力を蓄えるタンクの大きさは誰でもほぼ同じ。でもそのタンクの中に詰まっている魔力の濃さが違うということだ。
「訓練によって魔力密度を高めることができますが、あまり高すぎると暴走してしまいます。まあ、どれだけ訓練しようと普通は無縁のことですが。」
私も魔力を扱えたらいいのにな。話を聞いていると、自分でもやってみたくなってくる。もちろんスキルを使えば火も出せるし水も出せるのだけれど、それはあくまでスキルの力であって、自分自身の力という感じがしないのだ。ゲームのボタンを押して技を出しているような、そんな間接的な感覚がある。
「はい、難しい話終わりね。」
パン、とメルテちゃんが両手を叩いた。
「せっかくハルさんが来たんだから、もっと楽しいことしよう。」
メルテちゃんはあまり難しい話が好きではないようだ。けれど私もその案には賛成。せっかくのお泊まり会なんだから、楽しいことをした方がいいに決まっている。
「うん、そうだね。」
リアちゃんも頷く。
「ということで、お風呂に行きませんか?」
「唐突!」
リアちゃんのツッコミ。これは初めて聞いた。思わず笑ってしまう。その後にこちらを見て、少し顔を赤くしているところもかわいい。一緒にお風呂に入ることを意識しているのだろうか。
みんなお風呂には賛成らしく、そそくさと準備を始めていた。
「私たちメイドは基本的には大浴場で入浴します。この部屋にもシャワーはありますが……。」
「さあ、大浴場へ!」
「ですよね……。」
リアちゃんは私のあまりの勢いに苦笑いを浮かべている。当たり前だ、グルンレイド領に来て大浴場に入らないなんて選択肢は存在しない。
「あ、でも部外者の私が大浴場に行っていいのかな……。」
「それは問題ありませんよ。」
よかった。メイド専用だったらどうしようかと思った。普通の冒険者が泊まるような宿にはシャワーすらないことがほとんどだから、お風呂に入れるだけでもありがたいのだけれど。せっかくグルンレイド領に来たんだったら、あの大浴場を堪能しないわけにはいかない。
「はい、こちらがハンドタオルとバスタオルです。」
メルテちゃんが手渡してくれる。ふかふかだ。触った瞬間に分かる、上質な繊維の感触。吸水力も肌触りも、あっちの世界の高級タオルに引けを取らない。
「ありがとー。」
「それと、着替えです。」
「一応私も自分の着替えを持ってきてるんだけど……。」
差し出された着替えに触れた瞬間、迷いは消えた。私の手持ちの服とは素材の格が違いすぎる。肌に吸い付くような滑らかさ、それでいて通気性も良さそうだ。ありがたく借りることにした。
「それでは向かいましょうか。」
三人で大浴場に向かう。
大浴場の入り口の前に立った瞬間、懐かしさが込み上げてきた。
「温泉だね。」
間違いなく、温泉だった。入り口ののれん、脱衣所の配置。あっちの世界で何度も見た、あの温泉の構造そのものだ。
「ハルさんは大浴場を知っているのですか?」
「まあ、あっちの世界にもあるからね。」
「ということはルールもご存じということで。」
もちろん温泉の入り方は知っている。改めて説明を受ける必要はなかった。周囲の衣服入れを見ると、現在入浴している人も何人かいるようだ。
私も服を脱いで、タオルを手に取り、扉を開ける。
「す、すごい……。」
息を呑んだ。
私の知っている温泉とは、まるで違った。映画に出てくるような洋風の温泉――というのが一番近い表現だろうか。壁や床は大理石のような白い石材で造られていて、ところどころに金属の装飾がきらめいている。天井は高く、湯気が緩やかに立ち上っては消えていく。窓からは夕暮れの淡い光が差し込んでいて、湯面がオレンジ色にきらきらと反射していた。
まずは三人でシャワーのある場所に向かう。体を洗いながら、隣にいるリアちゃんのことがふと気になった。メイド服を着ている時にもちらりと見えていたけれど、リアちゃんの体には顔や腕、足だけでなく、全身のいたるところに黒い痣があった。それがこの子の持つ力と関係しているのだろうということは、なんとなく察しがつく。だからといってどうということはないし、触れるべきことでもない。
全身を綺麗に洗い、軽く体を拭いてから、いよいよ温泉へと向かう。
湯に足を浸した瞬間、全身の力が抜けた。ちょうどいい温度のお湯が、じんわりと体の芯まで温めてくれる。冒険者として走り回って蓄積された疲労が、溶けるように消えていく。
「久しぶりね。」
お湯につかっていた人から声がかかった。超絶美人だった。まあ、この屋敷の中にいる人たちは超絶美人か超絶美少女しかいないのだけれど。でも、この人は私のことを知っている?
「私よ。柏城さん?」
「有紗さん!」
アリサさんだ。黒い長い髪が湯に浸かってしっとりと濡れていて、切れ長の目が柔らかく細められている。この人も異世界から来た人で、日本人だ。こちらの世界ではグルンレイドのメイドとして活躍しているらしい。
私もお湯の中に入り、アリサさんのそばに寄った。
「アリサさん、こんばんは。」
「リア、メルテ、こんばんは。」
リアちゃんとメルテちゃんもそれぞれ挨拶を交わす。
「あら? こんなところにお客様? 珍しいね。」
湯気の奥から、もう一人の美人が姿を現した。金色の髪が湯気の中でほのかに光って見える。
「ヴィオラさん。本日より数日間、こちらに滞在するハルさんです。」
リアちゃんが紹介してくれた。
「初めまして。ヴィオラと申します。……メイド服を着ていない状態ではあまり様になりませんね。」
美しい目だと思った。深い藍色の瞳で、ずっと見続けていると、どこまでも吸い込まれていってしまいそうになる。長い金髪がしっとりと濡れて肩に張り付いていて、その姿は絵画のように完成されていた。
「こんばんは、ハル・カシワシロと申します。あ、あのよろしくお願いします。」
「こちらこそよろしくお願いいたします。」
軽く会釈をするヴィオラさんの動きに合わせて、しっとりと濡れた金髪とふくよかな胸が揺れる。こんな方に仕えられている領主様は、前世でいったいどんな徳を積んだのだろうか。
「ふふっ、私が仕えているのはジラルド様ではありませんよ。今は本当に世話のかかるご主人様です。」
「……!」
この人、すごく勘がいい。まるで私の考えを読んでいるかのようだった。
「といいながら、結構気にかけてますよね。」
メルテちゃんがぽそりとそう言った。
「なっ! そ、そんなことはっ!」
顔を真っ赤にして反論するヴィオラさん。何これ。恋バナじゃん。大好物だ。
「でもヴィオラさん、私と会うたびにいつもマーク様の話をしているわよね。」
アリサさんまで参戦した。四方から攻め立てられるヴィオラさんの表情がどんどん崩れていく。
「それは日々の生活でつもりに積もった愚痴というか……。」
三人から質問攻めにあっているヴィオラさんは少しかわいそうだとは思ったけれど、見ている分にはとても楽しいのでそのままにしておくことにした。湯船の中で美女が顔を真っ赤にして狼狽している光景は、なかなかお目にかかれるものではない。
「じゃあ、どこがかっこいいの?」
「ま、まあ、しいて言えば……いつもはだらしないのに、いざという時は私を守ってくれるところとか、いやいやながらも結局はやることをやってくれるところとか……。あくまで主人としてだから!」
んー甘い。甘すぎる。チョコレートよりも甘い。ヴィオラさんは必死に取り繕っているけれど、もう完全に好きな人のことを語る女の子の顔になっていた。
私もこんな恋がしてみたいなー。話を聞けば聞くほど、マーク様という人のことが気になってくる。ここには領主様とメイドさん以外はいないと思っていたけれど、勇者という存在がいるらしい。
「マーク様って誰ですか?」
リアちゃんに小声で聞いてみた。
「勇者、ですね。とても強いんですよ?」
やっぱり異世界には勇者っているんだ。
「それってリアちゃんよりも?」
「もちろんです。私なんて本気を出したマーク様相手だったら、数分持つだけで上出来だと思います。」
あのリアちゃんでも数分が限界。そんなに強いのか。リアちゃんだってとんでもない実力者のはずなのに。
「領主様とはどっちが?」
「もちろんご主人様です。マーク様でも数秒持ったらすごいと思います。」
数秒。
……いや、考えるのはやめよう。私の知らない世界があってもいいじゃないか。上を見たらキリがない。特にこの屋敷の住人たちに関しては。
「ヴィオラさん。アタックするなら早い方がいいですよ。」
「ハル様まで!」
のぼせているのか恋バナのせいなのか判別がつかないほど顔を真っ赤にしたヴィオラさんを目に焼き付けて、私は温泉から上がった。
体中がぽかぽかと温かい。肌がすべすべになった気がする。このお湯には何か特別な成分でも含まれているのだろうか。あっちの世界のどんな入浴剤よりも効果がありそうだ。
脱衣所で体を拭きながら、私は思う。グルンレイド領は本当にすごい場所だ。食事も、お風呂も、そして何より人が素晴らしい。かわいくて、美しくて、強くて、優しい。こんな場所が本当に存在していいのだろうかと思うくらいに、ここは特別な場所だった。
明日は実験の本番だ。私はいつも通りに寝るだけでいい。でも、こんなに楽しい夜の後だと、なんだかぐっすり眠れそうな気がした。




