王国魔法学校12
夜の訓練場は、昼間とはまるで別の場所のようだった。
月明かりが石畳を青白く照らし、周囲の木々が夜風にざわめいている。訓練場を囲む壁の影が長く伸び、静寂の中に虫の音だけが響いていた。
貴族寮には門限がない。といっても夜七時以降の外出は推奨されていないが。それでも私はこうして夜に訓練をすることがあった。昼間は人目があり、華流を使うわけにはいかない。だが夜、人のいない訓練場であれば——少しだけ、本来の自分に戻ることができる。
認識阻害の魔法を訓練場全体にかけ、音も光も外に漏れないようにする。そして剣を構える。
「華流・花かんざし。」
久しぶりに口にする技名。剣先が描く曲線が月明かりに照らされて、淡い光の軌跡を残した。体が覚えている。グルンレイドで何千回と繰り返した動き。
「華流・一線。」
踏み込み、斬り上げる。空気が裂ける音。腕に伝わる確かな手応え。
「華流奥義——」
「おっと。」
声がした。
私は咄嗟に剣を止め、声の方を向いた。訓練場の入り口——石壁の陰に、一人の人影が立っている。月明かりに照らされた黒い髪。
「カズトさん……。」
「悪い悪い、びっくりさせちゃったね。」
カズトさんが両手を上げて無害をアピールしながら訓練場に入ってくる。軽装で、腰に剣を差している。どうやら同じように夜の訓練に来たらしい。
「認識阻害がかかっていたのに、なぜ気づきましたの?」
「ん?ああ、なんかこの辺りの空気が変だなって思って覗いてみたら、光が見えたから。」
認識阻害を見破った——わけではないようだ。魔法の光がわずかに漏れていたのだろうか。私の認識阻害は完璧なはずだが、カズトさんのあの「未知の仕組み」であれば、普通の魔法とは異なる感知の仕方をしている可能性がある。
「すごい剣技だったね。見たことない流派だ。」
「……見ていらしたんですの?」
「最後のちょっとだけ。邪魔して悪い。」
カズトさんは悪びれた様子もなく、しかし申し訳なさそうに頭を掻いた。いつもの仕草だ。
「俺も夜に訓練するのが好きでさ。昼だと人が多くて集中できないっていうか。」
「奇遇ですわね。私も同じ理由ですの。」
「じゃあ——一緒に訓練しない?」
カズトさんがそう提案した。屈託のない笑顔。断る理由は——正直なかった。カズトさんの戦い方をもっと近くで観察する機会でもある。
「よろしくお願いいたしますわ。」
カズトさんとの手合わせは、合同授業の時とはまた違った発見の連続だった。
「行くよ。」
カズトさんが剣を構える。踏み込みの瞬間——またあの違和感が走った。体から直接、完成された形で魔力が放出される。身体強化のようだが、通常の身体強化魔法とは根本的に仕組みが違う。
「はっ!」
剣が振り下ろされる。速い。だが——ヴァイオレット様の剣速を知っている私には、対処できない速度ではない。
「バルザ流・風斬り。」
私の反撃をカズトさんが横に跳んで避ける。その回避の動きにも、あの「過程のない魔力」が使われていた。体が勝手に最適な行動を取るような、不自然なまでに自然な動き。
「すごいね、アナスタシアさん。闘気の使い方が本当にうまい。」
「カズトさんこそ。その身のこなし、独特ですわね。」
「そう?まあ、自己流だからね。」
自己流——その言葉に嘘がある気がした。自己流にしては完成度が高すぎる。だが訓練の痕跡がないのも事実だ。
何度か剣を交わした後、二人とも息を切らして地面に座り込んだ。月が雲の間から顔を出し、訓練場を青白い光で満たしている。
「はぁ、いい運動になった。」
カズトさんが仰向けに寝転がる。空を見上げながら、ぽつりと呟いた。
「こういうの久しぶりだな。気兼ねなく戦える相手って、なかなかいないからさ。」
「私もですわ。普段は力を抑えなければなりませんから。」
「だよね。俺もさ、いつも加減しなきゃいけなくて。全力出すとみんなびっくりしちゃうし。」
「お気持ちわかりますわ。」
本当によくわかる。入学試験の時にやりすぎてクラスメイト全員に怖がられた経験が蘇る。
しばらく二人で黙って夜空を見上げていた。星が無数に瞬いている。グルンレイドの夜空に比べると少し光が少ないが、それでも十分に美しかった。
「あー、こういう時にシャワーがあったらなぁ。」
カズトさんが汗を拭きながらそう呟いた。
「汗かいた後にさっとシャワー浴びて、冷たい飲み物飲んで——ってのが最高なんだよね。」
「わかりますわ。シャワーの後のあのすっきりした感覚は格別ですわよね。」
「だよね!って——え?」
カズトさんが体を起こした。目を見開いてこちらを見ている。
「今、シャワーって言った?」
「ええ。シャワーですわ。温かいお湯が上から降り注いで体を洗い流すものですわよね。」
「……知ってるの?」
カズトさんの表情が明らかに変わった。驚きと、戸惑いと、そして——期待が入り混じっている。
「もちろんですわ。私は毎日シャワーを浴びておりますわよ。お風呂も入りますし。」
「お風呂⁉ お風呂って——湯船にお湯張って、浸かるやつ⁉」
「そうですわ。石鹸で体を洗って、シャンプーで髪を洗って、リンスで整えて——」
「シャンプー⁉ リンス⁉」
カズトさんが立ち上がった。声が裏返っている。さっきの戦闘中よりもよほど興奮しているようだ。
「ま、待って待って。アナスタシアさん——もしかして、日本出身……なの?」
「に、にほん?」
「いや、だって——シャワーもお風呂もシャンプーもリンスも——こっちの世界にはないはずなんだ。俺の知る限り、この世界でそういうものを知ってるのは——」
カズトさんの目が私を真っ直ぐに見つめている。
「あっちの世界から来た人間だけのはずなんだ。」
あっちの世界——。カズトさんが「こっち」「あっち」と言い分ける、その意味が今はっきりと理解できた。
「カズトさん。あなたは——異世界から来た方なんですわね。」
カズトさんが息を呑んだ。沈黙が訓練場に落ちる。月明かりの中で、二人の影が地面に伸びていた。
「……バレた、か。」
カズトさんが力なく笑った。
「ずっと隠してたんだけど——っていうか、誰にも言えなかったんだけど。」
「お気持ちはわかりますわ。」
「でもアナスタシアさんが日本出身じゃないなら——なんでシャワーとか知ってるの?」
「私は日本の出身ではありませんわ。ですが——日本という国についてはかなり詳しいですの。」
「え? どういうこと?」
私は少し考えてから話し始めた。
「この世界には、あなたのように異世界——日本から来た方が何人もいらっしゃいますの。その方たちから日本の文化や技術が伝えられ、取り入れられている場所があるんですわ。」
「えっ……マジで⁉」
カズトさんの目がさらに見開かれた。
「シャワーも、お風呂も、石鹸も、シャンプーも——全て日本の知識をもとに作られたものですの。唐揚げやたこ焼きといった食べ物も。」
「唐揚げ⁉ たこ焼き⁉ この世界に唐揚げがあるの⁉」
カズトさんが両手で頭を抱えた。感動しているのか混乱しているのか——おそらく両方だろう。
「他にも——エレベーターという箱の中に入ると上の階に移動できる装置ですとか——」
「エレベーター⁉ 」
「ございますわ。」
「うそだろ……。」
カズトさんが地面にへたりこんだ。そして——笑い始めた。声を上げて。目に涙を浮かべながら。
「は、ははは……すげぇ……。俺、こっちに来てからずっと——ずっと一人だったんだ。日本のこと話せる人なんて誰もいなくて。シャワーが恋しいって言っても誰もわかってくれなくて。唐揚げが食べたいって言っても笑われるだけで。」
声が震えていた。笑っているのに、泣いている。
「でも——いるんだ。わかってくれる人が。この世界に。」
「ええ。あなたは一人ではありませんわ。」
カズトさんが袖で目元を拭った。しばらく無言だった。虫の音と、遠くで鳴く鳥の声だけが聞こえる。
「……ありがとう、アナスタシアさん。マジで、ありがとう。」
「お礼を言うのはこちらの方ですわ。あなたのおかげで、異世界の方と直接お話しする貴重な機会をいただけましたもの。」
カズトさんが少し落ち着いてから、改めてこちらを見た。目が真剣だ。
「でも——どうしてそこまで詳しいの? 日本から来た人がいるっていうのはわかった。でも、アナスタシアさんは貴族の令嬢だよね。そんな特殊な知識を、どうやって?」
この質問が来ることはわかっていた。日本の文化を日常的に取り入れている場所——この世界でそれが可能な場所は限られている。カズトさんが聡い人間であれば、遅かれ早かれ気づくだろう。
「……カズトさん。」
「うん。」
「これから話すことは、絶対に誰にも言わないでいただきたいですの。」
カズトさんの表情が引き締まった。冗談ではないということが伝わったようだ。
「もちろん。俺だって異世界人だってこと、誰にも言ってない。秘密は守る。」
「私は——アスター家の令嬢ではありませんの。」
沈黙。
「本当の名前は、アナスタシア。グルンレイドのメイドですわ。」
「グルンレイド——。」
カズトさんがその名前を反復した。聞いたことはあるのだろう。この学園でも、ソフィアさんの件でグルンレイドの名前は広まっている。
「あの——ソフィアさんと同じ?」
「ええ。ソフィアさんも私も、グルンレイドのメイドですの。日本の文化を取り入れている場所というのは、グルンレイド領のことですわ。」
カズトさんが言葉を失っている。しかしすぐに何かを考え始めたようだった。表情がめまぐるしく変わっていく。
「だから——あのシャワーとかお風呂の知識。」
「はい。グルンレイドでは日常的に使われておりますわ。」
「あの戦闘力も——。」
「グルンレイドのメイドは全員、戦闘訓練を受けておりますの。」
「……なるほど。全部繋がった。」
カズトさんが深く息を吐いた。
「それで——これがバレたらどうなるの?」
「おそらく、この学校にはいられなくなりますわ。私がここにいるのは——任務なんですの。」
「任務……。」
「詳しいことは申し上げられません。ただ、この学校を去ることになれば——ミアさんやアメリさん、エリザベスさんとも会えなくなりますわ。」
そして——日本の話ができるカズトさんとも。
カズトさんが立ち上がった。まっすぐにこちらを見る。
「絶対に言わない。」
声に迷いがなかった。
「俺、こっちに来てからずっと一人だった。日本の話ができる人がいるってだけで——どれだけ救われたかわかんないくらいだ。そんな人を学校から追い出すようなことは、絶対にしない。」
「……ありがとうございますわ。」
胸の奥が温かくなった。この人は——本当に真っ直ぐな人だ。
「それに——グルンレイドのメイドだってわかった方が、むしろ色々聞きたいことが増えたし。唐揚げの作り方とか、お風呂の仕組みとか。」
「ふふ、お教えいたしますわ。」
カズトさんが手を差し出す。私はその手を取った。握手。合同授業の時に握ったシャルロッテさんの手とは違う。剣だこはあるが、どこか柔らかい。温かい手だった。
「それじゃ——今日のところは帰ろうか。さすがに夜も遅いし。」
「そうですわね。」
二人で訓練場を出る。月明かりの中を並んで歩く。
寮の前で別れる時、カズトさんが振り返った。
「アナスタシアさん。出会えてよかった。本当に。」
「私もですわ。おやすみなさいまし。」
「おやすみ。」
カズトさんの背中が男子寮の方へ消えていく。私は部屋に戻り、静かに扉を閉めた。
ソフィアさんとアナさんはもう眠っていた。小さな寝息が二つ、規則的に聞こえてくる。
ベッドに入りながら、今夜のことを反芻する。カズトさんに正体を明かしてしまった。カルメラさんに報告しなければならないが——後悔はなかった。あの涙と、あの笑顔を見て、隠し通すことはできなかった。
それに——異世界人の情報を直接得られるというのは、任務にとっても大きな収穫だ。カルメラさんもきっとそう判断してくれるだろう。……たぶん。
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翌朝、教室に向かう途中のことだった。
「おはよう、アナスタシアさん!」
廊下の向こうから、カズトさんが手を振りながら歩いてくる。大きな声で、満面の笑みで。昨日まではすれ違っても軽く会釈する程度だったのに、まるで旧知の友人のような距離感だ。
「おはようございますわ、カズトさん。」
「今日も寒いね。こういう日は——温かいお味噌汁が飲みたくなるよね。」
「お味噌汁、いいですわね。お豆腐と油揚げの。」
「わかる⁉」
カズトさんが目を輝かせた。
「じゃあまた。」
少し急いでいたのか、あまり長時間話すことはなく、カズトさんが手を振って走っていった。
——その瞬間、背後に複数の視線を感じた。
ゆっくりと振り返ると、廊下の壁際に、数人の女子生徒が固まっていた。全員がカズトさんの取り巻きだ。普段はカズトさんの周りで楽しそうに笑っている子たちだが——今、その目は笑っていなかった。
じとり、とした視線がこちらに向けられている。
「……あのアナスタシアって子、最近カズトくんと仲良すぎない?」
「しっ、様をつけないと、聞かれてたらどうするの。」
「貴族だからってなんでもしていいと思っているのかしら。」
小声だが、私の耳にはしっかりと届いていた。グルンレイドで鍛えた聴覚は伊達ではない。
……面倒なことになりそうだ。
「アナスタシア様、どうされました?」
ソフィアさんが後ろから声をかけてくる。私の表情の変化に気づいたのだろう。
「いいえ、何でもありませんわ。」
教室に入ると、ミアさんがいつもの席で手を振ってくれた。その奥ではエリザベスさんが教科書を開いて予習をしている。
「おはようございます、アナスタシアさん。」
「おはようございますわ。」
席に座る。隣のエリザベスさんがちらりとこちらを見た。
「アナスタシアさん、今朝カズト・ホシカワと一緒に歩いていましたわね。」
「ええ、偶然お会いしましたの。」
「偶然、ですか。」
エリザベスさんが少しだけ——本当に少しだけ——ニヤリと笑った。
「やめてくださいまし。そういう関係ではありませんわ。」
「何も言っておりませんわよ?」
「その顔が何かを言っていますわ。」
「おーっほっほ。」
エリザベスさんが上品に笑う。あの高飛車な笑い方が、最近ではからかいの笑いとして使われるようになっていた。成長というべきか、ある意味退化というべきか。
その日一日、カズトさんは廊下で会うたびに声をかけてきた。昼休みには食堂で「おすすめの料理ある?」と聞かれ、放課後には「また夜に訓練しない?」と誘われた。
そのたびに——取り巻きの女子たちの視線が刺さった。氷のような目。無言の圧力。
「……ソフィアさん。」
「はい。」
「私、何か変なことをしてしまいましたかしら。」
「変なことはしていません。ただ——学年で人気の高い男子生徒と親しくしているだけです。」
「それだけで、あの視線ですの?」
「女性とはそういうものだと、カルメラさんが言っておりました。」
まあ、嫉妬の視線くらいなら耐えられる。オーロラさんの平手打ちに比べたらずっと軽い。
それよりも——カズトさんとの会話の中で得た情報は非常に有益だった。異世界人がこの世界でどのように生きているのか、どのような力を持っているのか。直接聞くことでしかわからないことが山ほどあった。
カズトさんの力——あの「過程のない魔力」の正体はまだわからない。本人に聞いても「うまく説明できない」と言われた。だが少なくとも、それがカズトさん固有のものではなく、異世界人に共通する何らかの仕組みであるという手がかりは得られた。
今夜のレポートには、そのことも書いておこう。
——そして、カズトさんに正体を明かしたことも。カルメラさんに怒られるかもしれない。
……たぶん、怒られるだろうな。
でも——後悔はしていない。




