王国魔法学校4
「やっぱりお風呂に入りたいですわ!」
ソフィアさんとの戦いでこうも汚れてしまっては、シャワーだけでは物足りない。ドレスは砂埃にまみれ、髪には土が混じり、肌には乾いた汗がこびりついている。もちろんグルンレイド製の石鹸などは持ってきているので汚れを落とすこと自体は可能だ、可能なのだがやはり物足りない。体を清潔にするだけではなく、湯に浸かるという行為そのものに意味があるのだ。
「私もお風呂に入りたいと思っていました。」
ソフィアさんもコクコクとうなずく。先ほどの戦闘で壁に叩きつけられたとは思えないほど元気だが、やはりお風呂への渇望は私と同じらしい。眼鏡の奥の瞳が、先ほどの戦闘時とは違う種類の真剣さで輝いていた。
「お、お風呂とは?」
少しずつ冷静になってきたアナさんがそう言った。いったん私たちの戦いについてのことは考えることをやめたらしい。先ほどから何度も出てくる「お風呂」という単語について聞いてきた。
「お湯を張って、そこに浸かるということですわ。」
「それは、何のために行うのでしょうか。」
何のためと言われればよくわからない。しかしそれをするとしないとでは満足感が全然違うということは体験済みだ。グルンレイドの屋敷で初めてお風呂に入った時の衝撃は今でも忘れられない。あの温かさが全身を包み込む感覚。疲れが湯に溶け出していくような心地よさ。
「入ってみればわかることですわ。」
といっても、この広いバスルームにはシャワーが一つと大きめのバスタブのみ。バスタブにお湯を張ってしまえばそれまでだが、それでは味気ない。グルンレイドのお風呂はもっと広くて、もっと深くて、もっと——温かかった。
「魔法障壁をお風呂の形にするというのは?」
ソフィアさんがそう提案する。
「できますの?私はできませんわよ?」
魔法障壁は基本的に四角い形で生まれる。また、形に沿って——例えば私の体のラインに沿って展開することも可能である。しかし何もない空間に浴槽のような複雑な形の魔法障壁を展開するには、尋常ではない魔法制御が必要だ。神がかった魔法制御が可能であるスカーレット様なら可能かもしれないが、私たち見習いには到底無理だ。
「そうですよね……。」
ソフィアさんが肩を落とす。
今からグルンレイド領に戻る?いや馬車がない中で戻るとなると時間がかかりすぎる。魔法を使って身体強化を行い走るという方法もあるが、さすがに大変だ。それに明日は入学式なのだ。そんなことをしている場合ではない。
「どうにかしてメイド長やリアさんなどに伝わればいいんですけど……。」
ソフィアさんが思案するようにそう呟く。時空間魔法を使用できる方に伝えることができれば、あとは簡単である。この部屋にお風呂を運んできてもらうだけだからだ。
「ですが私たちには伝える手段がないですわ。」
魔法によるメッセージもこれだけ距離が離れてしまえば届きはしない。私も時空間魔法を使えたらと思うが、それほどの魔力密度を練ることは難しい。私たちの様子を確かめに来てくれる方がいれば——確かめる?
「いますわ。」
私たちを"観測"してくれている方が一人だけいる。常にグルンレイドの全てのメイドを観測し続けている、あの方だ。
「アシュリーさんですわ。」
あの方のことだから、きっと全てのメイドの安否をどこにいても観測していることだろう。ということは何かしらのメッセージを飛ばせば、それを拾ってくれる可能性がある。
「そ、それです!」
ソフィアさんの目がぱっと輝く。
『アシュリーさん、聞こえていますか?』
早速魔法によるメッセージを空に向かって飛ばす。届くかどうかはわからない。しかしアシュリーさんの観測魔法の精度を考えれば——
『ん?珍しいね。』
そんな声が頭の中に響いた。繋がった。
「ソフィアさん、やりましたわ!」
思わず声を上げてしまう。ソフィアさんも拳を握って喜んでいた。
『ちょっと待ってね。今アナスタシアの方を見るから。』
そう言うと周囲の空間に違和感が生じた。魔力密度が上がったというわけでも、瘴気が発生したというわけでもない。なのに、何かに見られているような——空間そのものが薄い膜のように震えるような感覚。アシュリーさんの観測魔法が私たちに焦点を合わせたのだ。
『この違和感に気づくのはさすがグルンレイドのメイドだね。で、どうしたの?』
『お、お風呂に、入りたいですわ!』
『……。』
急に本題に入りすぎた……。アシュリーさんも困っている様子……。もう少し段階を踏んで説明すべきだっただろうか。
『それは死活問題だね。』
いや、そうでもないようだった。この空間にお風呂が存在しないことを瞬時に判断し、私たちが陥っている状況を理解してくれたようだ。さすがアシュリーさんだ。観測魔法でバスルームの構造まで把握したのだろう。
『イザベラ様に伝えてみるよ。ちょっと待ってて。』
「ソフィアさん、何とかなりそうですわ。」
「ほ、本当ですか!」
その表情はとても嬉しそうだった。目が潤み、両手を胸の前で組んで、今にも飛び跳ねそうだ。それに比べてアナさんはまだお風呂という存在がわからないのか、驚く様子はなかった。何やらきょとんとした顔でこちらを見ている。
待つこと数分、この部屋の空間が歪んだ。空気がぐにゃりと曲がり、そこに一つの裂け目が生まれる。
「うまくやれそうですか?アナスタシア。」
「メイド長!問題ありません。」
時空間魔法を使用して、メイド長がこの部屋にやってきた。黒い髪を結い上げ、完璧なメイド服を身に纏ったその姿は、ここが異国の寮であることを忘れさせるほどの存在感だった。
「なっ!」
またもやアナさんが驚いていたが、口を出すことはなかった。もう驚くことに疲れてきたのかもしれない。
「ソフィアもお疲れ様です。」
「ありがとうございます。」
ソフィアさんが深く頭を下げる。
「浴槽を持ってきました。」
「やりましたわ!」
メイド長が空間魔法で運んできてくれたのは、グルンレイド製の浴槽だった。バスタブの代わりにとても大きな浴槽がバスルームに設置される。五人くらいで入ってもまだ余裕がありそうなほど広い。白い陶器のような素材で、縁には繊細な模様が刻まれている。シャワーもちょうどいい場所へと移動させた。
「これでいいでしょう。」
「ありがとうございます。お手数をおかけして申し訳ありません。」
「何を言っていますか。これは最重要事項です。」
そう言ってメイド長が微笑んだ。その言葉に冗談の響きはない。メイド長にとっても、お風呂というのはそれほどまでに重要なものなのだ。グルンレイドのメイドは皆そうだ。
「ご主人様とアシュリーさんにお礼をお願いいたします。」
「伝えておきます。」
そう言うとメイド長はグルンレイド領へと帰っていった。空間の裂け目が閉じ、何事もなかったかのように空気が元に戻る。
さて、準備は整った。あとはお風呂へ入るだけ。
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「三人で入りますわよ!」
「いいですね。」
「お、お二人とも、なぜ服を脱いでいるのですか!」
アナさんは私たちが一斉に服を脱ぎ始めたことに驚いているようだ。服を脱がないとお風呂に入れないではないか。私はドレスのボタンを外しながら、ソフィアさんはメイド服のエプロンを解きながら、それぞれ手早く脱いでいく。
「アナさんも脱いでくださいまし?」
「大勢で湯を浴びるなんて聞いたことがありません!」
顔を真っ赤にして後ずさるアナさん。
「お風呂とはそういうものですよ?物は試しです、一度一緒に入ってみては?お風呂の良さを知るいい機会です。」
フィアさんも続けてそういう。穏やかな口調だが、お風呂に関しては一歩も引かないという意志が感じられた。お風呂というのはどんなものか気になったのか、渋々という様子だったがアナさんも私たちに続いて服を脱ぎ始める。ボタンを一つ外すたびに、ちらちらとこちらを窺っていた。
「あら、アナさん。お肌はすごくきれいですが、髪は少し傷んでいますわね。」
服を脱いだアナさんの体を見る。傷一つない綺麗な肌だ。陶器のようにきめ細かく、触れたら壊れてしまいそうなほど白い。しかし髪の状態はいいものとは言えなかった。毛先がぱさぱさに乾いていて、艶もない。この世界にはシャンプーもリンスもないのだから、当然といえば当然だ。
「アナスタシア様、ソフィア様は何というか、素晴らしいですね。」
私とソフィアさんの体をじっくりと見るとそう言った。視線がこちらの肌や髪をなぞるように動いている。別にそこまで気にかけて手入れをしているわけではないので、どう反応していいかわからない。グルンレイドの石鹸とシャンプーのおかげだろう。
「ではさっそくお風呂に入りますわよ。」
まずはシャワーは一つしかないので、順番に浴びていくことにする。その間に私は魔法を唱える。
「ウォータールーム。」
浴槽を満たすほどの水を空中で生成する。透明な水の塊が宙に浮かび、バスルームの灯りを受けてきらきらと光った。
「ヒートボール。」
魔法により水を熱空間で包み込む。じわじわと水温が上がっていくのを魔力の感覚で確認しながら、温度を適温まで調整し、お湯を作る。熱すぎず、ぬるすぎず。指先で確かめて——よし、完璧だ。私が初めて覚えた生活魔法である。戦闘魔法よりも先にこれを覚えたのは、お風呂に入りたかったからにほかならない。
「……すごい。」
小さい声だったが、アナさんがそうつぶやくのが聞こえた。魔法学校にいると魔法を目にすることは日常茶飯事なのだろう。だからこそ、この魔法の難しさもわかるようだ。大量の水を空中に保持しながら均一に加熱するというのは、見た目よりもずっと繊細な制御を要する。
お湯が浴槽に注がれていく。ざぁぁという心地よい音がバスルームに響き、湯気がふわりと天井に向かって立ち昇った。あの匂い。水蒸気の中に混じるわずかな温もりの匂い。これだ。
「体を洗い終わりました。」
ソフィアさんがシャワーから出てくる。
「ソフィアさんは先に入っていてくださいまし。私はアナさんの体を洗いますわ。」
「わかりました。」
ソフィアさんが嬉しそうに浴槽へと向かう。
「い、いえ、私の方がアナスタシア様のお体を洗わなければ……。」
「さ、座ってくださいまし。」
タオルを胸の前に抱えて言葉を発していたアナさんを、椅子にそっと座らせる。華奢な肩が小さく震えていた。緊張なのか、恥ずかしさなのか。
「よ、よろしいのでしょうか?」
「私があなたの体を洗いたいからそうしているだけですわ。」
すごく申し訳なさそうな様子だが、覚悟が決まったようだ。背筋を伸ばして前を向く。
「これは、なんでしょう?」
私が手に持っているものを見てアナさんが尋ねる。
「グルンレイドの石鹸ですわ。」
白い固形の石鹸を見せる。ほのかにラベンダーのような香りがする。やはりこちらには石鹸やシャンプー、リンスというものがないらしい。毎日水だけで髪を洗っていたらそれはごわごわにもなる。
「これで体を洗いますと汚れが落ちて綺麗になりますのよ?」
「す、すごいですね!」
アナさんの目が輝き出す。やはり綺麗になるという言葉には誰しもが興味をひかれるようだ。身を乗り出すようにして石鹸を見つめている。
「背中を洗いますわ。」
ボディースポンジを忘れてしまったので、手で洗うしかない。私は石鹸を両手の間で泡立てる。白い泡がもこもこと膨らんでいき、ラベンダーの香りがバスルームに広がった。それをアナさんの背中へ。
「はうっ。」
「ごめんなさい。冷たかったですわね。」
アナさんの肩がぴくりと跳ね上がる。徐々に体温で手の石鹸の温度が馴染んでいく。泡が肌の上を滑るように広がり、やさしい摩擦が汚れを浮き上がらせていく。やはりアナさんの肌はすべすべで触り心地がいい。肩甲骨のあたりを丁寧に洗い、背骨に沿って手を動かしていく。アナさんの体から、少しずつ力が抜けていくのがわかった。
「流しますわ。」
シャワーのお湯で泡を流していく。白い泡が足元に流れ落ちて、排水口へと消えていった。
次は髪を洗わなければ。順番的には髪を洗ってから体を洗う方が、汚れが上から下へと流れていくのでいいらしいのだが、今回はこの髪なので最後にすることにした。まずは石鹸で汚れを落としてから、シャンプーとリンスの効果を最大限に発揮させた方がいいだろう。
「目をつぶっていてください。」
「はい。」
アナさんがぎゅっと目を閉じる。長いまつ毛が震えていた。
髪を濡らして、手にシャンプーを取りわしゃわしゃとしていく。最初は泡立ちが悪い。水だけで洗っていた髪には汚れが蓄積されているのだ。しかし丁寧にほぐしていくと、徐々にシャンプーが髪に浸透していき、滑らかになっていく。指の間を通る髪の感触が、明らかに変わってきた。
仕上げにリンスで整えて再びシャワーで流すと完成である。リンスをつけた瞬間に、ぱさぱさだった毛先がしっとりとまとまっていくのを手のひらで感じた。
「す、すごい、サラサラになっている。」
自分の髪を触って驚いているようだ。両手で毛先を持ち上げ、信じられないというように何度も指を通している。先ほどまでの枯れ草のようなごわつきが嘘のように消えていた。
「さ、お風呂へどうぞ。」
「い、いえ、次は私が。」
アナさんが立ち上がりかける。
「大丈夫ですよ。今日は私がアナスタシア様のお体を洗いますから。」
ソフィアさんが浴槽の中からそう言った。湯に浸かりながら、ほわりとした表情を浮かべている。
「アナさんにはまずお風呂というものを味わってほしいのですわ。」
「わ、わかりました。」
するとアナさんは恐る恐る浴槽に近づき、並々と張られているお湯の中に足を入れていく。つま先が水面に触れた瞬間、小さな波紋が広がった。
「タオルは入れないでくださいね。」
ソフィアさんの忠告を聞くと、アナさんは胸元のタオルをそばに置く。
「熱っ!」
「最初だけですわ。」
つま先から徐々に入れていき、ふくらはぎ、膝、太もも。腰まで浸かり——そして肩まで浸かる。お湯が彼女の体を包み込んでいく。湯面がゆらゆらと揺れて、湯気がアナさんの周りをふわりと漂った。
「ふ、ふぃー……し、失礼しました。」
声が漏れ出てしまったことが恥ずかしくて顔を赤くしていた。口元を手で覆い、目を伏せている。
「気にしませんわ。」
「誰でもそうなりますよ。」
ソフィアさんも穏やかに笑っている。初めてお風呂に入った人間の反応はみんな同じだ。あの温かさに全身を預けた瞬間、理性がどこかへ飛んでいってしまうのだ。
アナさんは脱力して天井を見上げる。目が半分閉じていて、口元が緩んでいて、頬がほんのりと湯気で紅潮している。私と出会ってからの数時間、常に気を張っていた様子だった。貴族を前にした緊張、メイドの戦闘を見た衝撃、空間から人が現れた驚愕——それら全てが、今この湯の中に溶け出していくように消えていく。このような気の抜けた感じを見ると私も少し安心する。一緒に生活を送っていく上で常に気を張っているというのはとても大変なことだからだ。
「溶けて、しまいそうです。」
「眠っては駄目ですわよ?」
「は、はい!」
ビクッと体を震わせ、姿勢を整えていた。だがすぐにまた力が抜けて、お湯に身を委ねている。抗えないのだ。お風呂の力には。
私はソフィアさんに体を洗ってもらう。ソフィアさんの手は丁寧で優しく、背中の隅々まで石鹸の泡を行き渡らせてくれた。戦闘で傷ついた肩のあたりを、特に気をつけて洗ってくれている。髪もソフィアさんが洗ってくれた。頭皮を指の腹で揉むように洗われると、戦闘の疲れが頭の中からすうっと抜けていくようだった。
「ありがとう、ソフィアさん。」
「いえ、これくらいは。」
体を流し終えると、私もお風呂に入る。
「やっぱりこれですわ。」
ザブーンという音とともに、お湯がちゃぷんと揺れて縁から少しこぼれ落ちる。さすがに三人一緒に入るとかなりの水量が溢れていくようだった。だがそんなことは些細な問題だ。全身をお湯に沈めた瞬間、今日一日の全てが報われた気がした。戦闘の疲れも、慣れない環境への不安も、お湯の温かさが全部引き受けてくれる。
三人で浴槽に浸かる。ソフィアさんが向かい側に、アナさんが隣に。湯気が天井に向かってゆらゆらと立ち昇り、バスルーム全体がぼんやりとした温かい光に包まれていた。
「私、今こうして仕えるべき方とお風呂というものに入っているのが信じられません。」
アナさんが小さな声でそう言った。湯面を見つめる横顔には、戸惑いと、それから少しの幸福が入り混じっていた。
「私に仕えるということは、そういうことですわ。」
私が仕えている方——ご主人様がそうだったように、私も仕えてくれる方を大切にしたいと思う。ご主人様は奴隷だった私を見捨てず、力を与え、居場所をくださった。もしこのまま奴隷にならずに貴族として生活をしていたら、このような気持ちを持つことはあったのだろうか。人の上に立つことが当たり前で、仕える者の気持ちを考えることもなく——もしそんな人間になっていたとしたら、奴隷になってよかったと私は思う。
「これから、よろしくお願いしますわ。」
「はい!」
アナさんが元気よく返事をした。声が弾んでいる。先ほどまでの怯えた声とは全く違う。やっぱり話してみると素直でいい子だと思った。
湯気の向こうで、ソフィアさんが穏やかに微笑んでいた。三人で過ごす最初の夜は、お湯の温かさとローズマリーの香りに包まれて、静かに更けていく。




