過去編:ヴァイオレット4
目の前に倒れている赤髪の龍族は、私の想像の遥か上をいく強さだった。
今までたくさんの戦いを経験してきた。奴隷商の兵士、王国の魔法師、賞金稼ぎの傭兵たち。しかし彼女の剣技は、そのどれよりも一番と言っても過言ではないだろう。
聖剣という未知の武器。シド流という聖族の剣技。龍族特有の狂乱。その全てが、私にとって初めて経験するものだった。ギリギリの戦いだったが、そのおかげで私も強くなれた。シド流の技を覚え、空間魔法を戦闘中に使えるようになり、絶唱の感覚も掴んだ。
正直、感謝している。
「始末が終わりました。」
「よくやった。」
ご主人様はただ一言だけそう告げた。しかし私はそれだけで満足感が心を満たしていく。ご主人様に褒められるということが、どれほど嬉しいことか。たった四文字で、体中の痛みが和らぐような気がした。
「イザベラ、死なせるな。」
「かしこまりました。」
イザベラさんは地面に倒れて血を流しているヴァイオレットに駆け寄り、回復魔法をかけ始めた。先ほどまで私と死闘を繰り広げていた龍族の少女。こんなに血まみれになるほど戦って、この里を守る覚悟は認める。
しかし私と同じくらいの歳だろう。龍族は見た目と年齢が異なるのかもしれないが、少なくとも外見上はそう見える。一人でこの里を守る重責を背負うには、いささか荷が重いのではないかと感じた。
「スカーレット。」
ご主人様が私の方を向いた。
「龍族の姫のところまで皆を飛ばせ。」
イザベラさんは回復魔法の最中だからだろうか。ご主人様は私にそのようなことを言った。しかし、私は時空間魔法を使用することができない。見たことはある。イザベラさんが唱えるのを何度も見てきた。魔力の流れも完璧に覚えている。しかし実際に自分で唱えたことは一度もなかった。
「今のお前なら、呼吸をするようにそれを発動することができるはずだが?」
言葉に詰まった私に、ご主人様はそのようなことを言った。
呼吸をするように。あの戦闘の中で私が覚えたこと。一度見たものは全て自分のものにできるという、この才能。ヴァイオレットのシド流を数分で覚えたのと同じように、イザベラさんの時空間魔法も覚えているはずだとご主人様は言っている。
「かしこまりました。」
時空間魔法はイザベラさんのもとで何度も見てきた。魔力の流れは完璧に覚えている。だから私はそれができるはずだ。
目を閉じ、魔力を練り上げる。空間の座標を設定する。先ほどの姫の部屋。あの場所の空間構造は、戦闘前に通った時にしっかりと記憶に刻んでいた。
「超級第三位魔法、ヨグ・ソトース!」
時空の歪みが私たちを飲み込んだ。
一瞬の浮遊感の後、私たちは姫の寝室に立っていた。
「ヴァイオレット!」
「ギ、ギン様?」
「気がついたか!」
ギンという龍族がヴァイオレットに駆け寄っていた。さすがイザベラさんだ、ヴァイオレットの傷は完璧に修復されていた。先ほどまで血まみれで倒れていたのが嘘のように、傷一つない状態で目を覚ましている。もはや戦う前よりも体調が良くなっているのではないだろうか。
ちなみに私の傷は自分で回復させた。私の回復なんかでご主人様やイザベラさんの手を煩わせる必要はない。実際に使ってみてわかったことだが、回復魔法は魔力密度がそのまま回復力へ変換されるようで、絶唱が使えるのと使えないのではかなりの差がある。絶唱を使えるようになった今の私であれば、聖剣による傷の回復阻害も突破できる。
「き、貴様ら!」
そう言って急にヴァイオレットが立ち上がり、剣をこちらへ向けた。が、すぐによろめいて体勢を崩してしまう。傷は治っていても、体力と精神の消耗はまだ回復していないのだろう。
「よい、もうよいのだ。」
ギンがそう言って、ヴァイオレットの肩を支えた。
本当にそうだ。今回私が戦ったのは、ご主人様の思いつきに他ならない。正直、私とヴァイオレットが戦う理由なんてこれっぽっちもない。ご主人様は「龍族の力を知りたかった」と言っていたが、それは私の力を試すためでもあったのかもしれない。
「おいギンとやら、貴様は私に何か望みはないかと言っていたな。」
「そうだ。なんでも言ってくれ。」
ご主人様がギンに問いかけた。姫を治した恩に報いるためなら何でもする、と先ほど言っていた。一体どのような要望をするのだろうか。
「その龍族の娘をよこせ。」
ヴァイオレットの方を見ながら、ご主人様はそう言った。
「な、ヴァイオレットはこの里の守護者だ。」
ギンが声を荒げた。周囲の龍族たちもざわめいている。守護者を差し出せなどという要望は、龍族の誇りに関わるものだろう。
「こんな少女に守られている里など、滅びて当然だろう?」
ご主人様の周囲の魔力密度が上昇する。これはお願いではなく命令なのだ。圧倒的な力の差を見せつけながら、有無を言わさず要求を通す。
しかし、ご主人様の言葉には理がある。現に私もヴァイオレット単独で里を守り切れていたとしても、いつかボロが出ると感じていた。一人では限界がある。今回だって、私が来なければヴァイオレットは屋敷の侵入を防ぎ切れていただろうが、ご主人様やイザベラさんが本気で攻めてきたら、手も足も出なかっただろう。
「くっ……。」
ご主人様の言葉が正しいと感じたのか、ギンは言葉を詰まらせてしまった。
「ギン様!私はこの里を守り続けます!」
ヴァイオレットが叫んだ。その声には悲痛な叫びが混じっていた。
「貴様の存在が、この里の自衛力低下につながっているということがわからないのか?」
「ど、どういうことだ!」
「訓練をしなくても、結局貴様がなんとかしてくれると、心の中では皆がそう思っているということだ。」
「そんなことは……。」
「ない」とは言わなかった。きっとヴァイオレットにも思う部分があったのだろう。
確かに彼女は強い。だがそれ以外の龍族はどうだった?ザンは確かに強かったが、私に抑え込まれた。ギンの配下の若い龍族は華流の一撃で倒れた。少なくとも私には、脅威となりうる存在はヴァイオレット以外に誰一人としていないように思えた。
ヴァイオレットが強すぎるがゆえに、他の龍族が育たない。彼女がいなくなることで、初めてこの里は自分たちの力で立つことを学ぶだろう。ご主人様はそれを見抜いている。
「わかりました。」
その言葉を発したのは、ギンでもヴァイオレットでもなかった。
「ひ、姫様!」
ベッドの上で身を起こした少女が、静かにそう告げた。先ほどまで黒い痣に苦しんでいた姫が、今は真っ直ぐにこちらを見ている。体はまだ弱々しいが、瞳には驚くほど強い光が宿っていた。
「グルンレイド様、私を助けていただいたこと、深く感謝申し上げます。」
そう言って頭を下げる。さすが姫という感じで、とても様になっていた。幼い見た目にもかかわらず、その所作には品格がある。龍族の中枢で育てられた者の気品が、自然と滲み出していた。
「姫様、なぜです!」
ヴァイオレットが悲しそうな顔で姫を見ている。その目には涙が浮かんでいた。この里を守ることが自分の全てだった少女にとって、姫がそれを許したということは、自分の存在意義を否定されたに等しいのだろう。
「私も、私たちも心のどこかであなたに甘えていた部分がありました。これを機会に私たちは、一つの集団として強くなるべきなのです。」
姫の言葉は柔らかかったが、その奥には鋼のような意志があった。
「ですが、私は……。」
「ヴァイオレット、あなたの気持ちはとても嬉しいです。しかし、見ていてください。あなたの力を借りずに立ち上がる、この里の力を。」
先ほどの優しそうな雰囲気とは打って変わって、その表情からは強い意志を感じる。この姫は、自分が病に倒れている間に里の現状を理解していたのかもしれない。一人の守護者に頼り切っている里の脆さを。
「でももしあなたが嫌だというのなら、私は龍の里全てをもって、ヴァイオレットを守ります。」
そう言って次は私の方を見た。
あの目は本気だ。私の力を知ってなお、龍の里の全てを敵に回す覚悟でヴァイオレットを守ると言っている。まだ体も十分に回復していない姫が、それだけの胆力を見せた。尊敬に値する。
私よりも幼いであろうこの姫からは、早くも威厳というものを感じることができた。きっとこの姫に任せれば、龍の里も安泰だろう。
「わ、私はこの里の守護者で……。」
「守護者?笑わせるな。」
納得できていないヴァイオレットに、ご主人様がさらに厳しい言葉を投げかけた。
「さも自分がこの里を守りきっているような言い分だな。」
「……なに?」
「私のメイドに負ける程度の強さで、こんな里など守れんと言っているのだ。」
ヴァイオレットが私を見た。
その目には屈辱が浮かんでいた。しかし同時に、否定できないという苦しみも見えた。
確かに私に負けるくらいでは、例えばイザベラさんやご主人様がこの里を滅ぼすつもりで攻めてきたら、手も足も出ないだろう。私が勝てなかった相手に、ヴァイオレットが勝てるはずがない。守護者という肩書きは、その時点で意味を失う。
「私の元に来い。もとより貴様に選択肢などないのだ。」
ヴァイオレットは黙っていた。拳を握りしめ、唇を噛み、目を伏せている。答えられないのだ。里を捨てることも、ご主人様に逆らうこともできない。
そしてご主人様は私の方を向いた。
「ヴァイオレットを連れて、王国まで来い。私は先に行っている。」
「か、かしこまりました。」
当初の目的は王都に行くことだ。ここで時間をかなり食ってしまったので、ご主人様だけでも急いで先に行く必要があるということだろうか。
「スカーレット、お願いします。」
「はい。」
イザベラさんはご主人様についていくようだ。実際に私一人でご主人様の命令をこなすということが初めてなので、不安ではある。ヴァイオレットをどう説得すればいいのか。反抗されたらどうすればいいのか。しかし不安を口にするわけにはいかない。ご主人様に任された以上、やり遂げなければ。
「また来る。さらばだ。」
そう言うと、イザベラさんの作り出した時空間魔法でご主人様たちは人間界へ戻っていった。
やはり私の時空間魔法よりも格段に美しい。空間の歪みがなめらかで、まるで水面に石を落とした時の波紋のように、規則正しい揺らぎを見せている。私のヨグ・ソトースはもっと荒々しく、力任せの部分があった。違いは何なのだろうか。もっと鍛錬を積み重ねる必要がある。
そしてこの場所には、私を含め四人が取り残される状況になってしまった。
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「ご主人様はあなたがこちらに来ることを望んでいるわ。だから来なさい。」
私はヴァイオレットにそう告げた。直球すぎるかもしれないが、私は遠回しな言い方が得意ではない。
「少し質問を……貴様は……そうやってあの貴族のメイドになったの……ですか?」
敬語?
さっきまで普通に、というか敵意むき出しで話していたのに、なぜか急に敬語になっていた。語尾がぎこちなく、慣れていない感じがする。
その疑問が顔に出ていたのだろうか。ヴァイオレットは少し照れくさそうに答えた。
「龍族として自分より強い者には、敬意を示すのが当たり前です。」
……なるほど。力で勝った相手には敬語を使うという文化があるのか。私が戦闘で彼女を上回ったから、敬語に切り替わったということだ。実に龍族らしい、力を基準にした判断だ。
「それでは今後ご主人様とイザベラさんに会った時は、敬語を使いなさい。私よりも圧倒的に強いから。」
「そ、それは本当ですか⁉」
「えぇ、本当よ。」
ご主人様の実力は想像がつかないが、イザベラさんは毎日のように戦闘訓練に付き合ってもらっているので、その強さは知っている。あの二人は私が戦ってどうこうできるような存在ではなかった。ということはヴァイオレットも太刀打ちできる相手ではないということだ。
ヴァイオレットは信じられないという表情をしていた。私を上回る存在が、さらに二人もいるということが衝撃なのだろう。
「それでさっきの質問ね……。結論から言うと、そうね。こんな感じでメイドになったわ。」
「ではなぜ……。」
私がこうしてメイドになっているのが信じられないという表情だった。確かに、私も昔の自分が今の姿を見たら、考えられないと思うだろう。貴族を殺して回っていた私が、貴族に仕えている。笑い話だ。
「理由は二つね。まず一つは、今の状況のように私も首を横に振れる状況ではなかったから。」
当時は首を横に振ろうものなら、私の首が飛ぶと思っていた。あの圧倒的な力の差を前にして、拒否など選択肢にはなかった。
しかし今となっては、ご主人様が言っていた『私は別にいいのだ。貴様が断ろうとな。』という言葉は、案外本当のことだったのかもしれないと思い始めていた。あの方は嘘をつかない。それはグルンレイドで過ごすうちに、よくわかるようになった。
「そしてもう一つは、メイドとして過ごすうちに、ご主人様は他の貴族どもと違うと思うようになったから。」
最初はイザベラさんの言っていたことが信じられなかった。「ご主人様は、そういう方なのです」と言われても、貴族はみんな同じだとしか思えなかった。あのお風呂の日も、信じてみますとは言ったものの、心の奥底では疑いが完全に消えてはいなかった。
しかし、日々を過ごすうちに気づいていった。私が思っている以上にこの屋敷の生活は何一つ不自由がないこと。奴隷として扱われるのではなく、メイドとして、一人の人間として扱われていること。そのうち、「ここを抜けて何かメリットがあるのか?」と思うようになり、現在に至る。
それに私の願い――貴族をこの世界から消すということも、ご主人様と一緒にいた方が実現できる可能性が高いのだ。ご主人様もまた、腐った貴族を嫌っている。
「一度来てみるといいわ。」
「……姫様。」
私の話を聞き、ヴァイオレットは姫の方を向いた。
「私はヴァイオレットの背中を押すことしかできません。それで前に進むかどうかはあなたが決めてください。」
私よりも幼いであろう姫からは、はやくも威厳というものを感じることができた。言葉の一つ一つが丁寧で、しかし芯がある。きっとこの姫に任せれば龍の里は安泰だろう。
「でももしあなたが嫌だというのなら、私は龍の里全てをもって、ヴァイオレットを守ります。」
そう言って、再び私の方を見た。
……この姫は先ほども同じことを言った。そして今回もまた本気の目で言っている。私の力を知ってもなお、それを口にするという胆力。これが龍族の姫というものか。
「……行きます。姫様の気持ちを無碍にするほど私は愚かではありません。私を、グルンレイド領に連れて行ってください。」
ヴァイオレットはそう言って頭を下げた。
……まずは礼の仕方から教えなければいけないようだ。龍族式の礼は、グルンレイドのメイドの礼とはだいぶ違う。力強さはあるが、優雅さが足りない。
けど、私はその真っ直ぐな瞳は嫌いではない。あの戦闘の中で見た、最後まで剣を下ろさなかった目。龍族の誇りをかけて最後の一瞬まで戦い続けた、あの目。
「この瞬間より、ヴァイオレットはグルンレイドのメイドとして私と同行してもらうわ。……よろしく。」
「は、はい!」
……今まで私は従う立場だったから、このような存在をどうやって扱えばいいのかわからない。イザベラさんは上手くやっているように見えるが、あの人は特別だ。私にあんな包容力はない。
まあ、なんとかなるだろう。ならなかったら、イザベラさんに聞けばいい。
「それじゃあ、ご主人様のもとへ……。」
「待て。」
ギンに呼び止められた。
「お前の主人はこのような手紙を置いていった。見るといい。」
手紙を受け取り、中を見てみる。確かにこれはご主人様の字だった。
『王との面会は明日の午後だ、それまでに間に合えばいい。』
そうとだけ書かれていた。これは……一体どういうことだ。
「泊まっていけ。お前の主人はそう言いたいのだろう。」
「それは……そういうこと、なのかしら?」
確かにそう受け取ることもできるが、わざわざ龍の里に一泊する理由が思いつかない。私とヴァイオレットの親交を深めさせるため?龍族との関係を構築するため?それとも、単に私が疲れているだろうから休ませてくれているのか?
ご主人様の考えは、いつも私には読み切れない。何気ない一言に深い意味があることもあれば、深い意味なんてないこともある。剣の時のように。
「それは素晴らしいです。ぜひ泊まっていってください。龍の里の威厳にかけて、恩人には最高のおもてなしをさせていただきます。」
姫がそう言った。恩人といっても私は何もしていないのだが。ヴァイオレットと戦っただけだ。これはご主人様が受けるべき祝福なのではないだろうか。
だが、このような手紙を残すということは何かしらの理由があるはずだ。それを知るためにも、私はここで一夜を過ごすことに決めた。
「……ここに一泊させてもらってもいいかしら?」
「ええ、もちろんです。まずはその汚れを落とした方がすっきりするでしょう。ヴァイオレット、案内を。」
「はい、わかりました。」
というと早速、水浴びをするところまで連れていかれた。
龍族の水浴び場は、岩場を削って作った天然の泉のような場所だった。冷たい清水が上から流れ落ちている。自然のままの姿は素朴で美しいが……。
お風呂を知ってしまった私にとっては、水浴びは拷問に近いものだ。
冷水はもう無理だ。あのお湯に浸かる温かさを知ってしまったら、もう後戻りはできない。イザベラさんに教えてもらったあの日以来、私はすっかりお風呂というものに取り憑かれてしまった。
せめて魔法を使用して、お湯にしてから浴びることにしよう。




