過去編:ヴァイオレット2
「に、人間!」
ヴァイオレットは腰に下げている剣を抜き、構えた。その動作は流れるように自然で、訓練された戦士のものだった。赤い髪が怒りに揺れる。
それと同時に、私もご主人様とイザベラさんの前に出て短剣を構えた。ヴァイオレットの敵意は明確にこちらに向けられている。この速度で剣を抜くということは、相当な修練を積んでいるのだろう。
「なぜ姫様の部屋に人間が!」
「ヴァイオレット!剣を……。」
ザンが「おろせ!」と言いたかったのだろう。しかしその言葉は最後まで発せられることなく、急にザンが床に倒れてしまった。
これはご主人様の魔力。一体なぜ。
部屋を見渡すと、先ほどまで起きていたはずの龍族たちが全員眠っている。ご主人様が彼らを眠らせたのだ。……戦闘が起きることを予見して、巻き添えにならないようにしたのだろうか。いや、おそらくもっと別の意図がある。
「貴様ら、ザン様に何をした!」
「少し眠ってもらっただけだ。」
「この……人間がぁぁっ!」
ヴァイオレットはザンが殺されたと思っているのだろう。これは本当にただ眠っているだけだ。しかしそんなことを伝える間もなく、ものすごいスピードでこちらへ向かってくる。
人間のそれとは比べ物にならない速度だった。龍族の身体能力は話に聞いてはいたが、これほどまでとは。私が瞬きをする間に、すでに間合いに入っている。
「エアヴェール。」
空気の層を展開し、振り下ろされた剣を受け止める。剣が空中で止まった。空気の壁が剣身を押し返す。
しかし次の瞬間、
「魔法……唸れ、雷龍!」
止まっていた剣から、電撃が巻き起こった。
空気の層を伝って、稲妻が四方八方に飛び散る。壁が焦げ、床に放電の痕が走る。この電撃は魔法ではない。剣そのものから発せられている。まるで剣が生きているかのように。
「……っ、エアヴェール!」
私は新たに空気の層を展開し、ご主人様とイザベラさんを覆った。電撃が空気の壁に弾かれ、天井に向かって散る。ご主人様に被害が行くすんでのところで守り切ることができた。
「よかった……。」
「お前は無傷ではないようだがな。」
確かに私はダメージを負っていた。最初のエアヴェールが突破された時に、電撃が右腕を掠めていた。痺れるような痛みが腕に走っている。しかしご主人様とイザベラさんに被害がいかなくてよかったという意味で言ったのだ。私の怪我など、後で回復すればいい。
「ここでは狭かろう。イザベラ、外へ飛ばせ。」
「かしこまりました。ヨグ・ソトース。」
イザベラさんが時空間魔法を唱えた。空間が歪み、次の瞬間には景色が一変している。ご主人様、イザベラさん、私、ヴァイオレットの四人が、建物の外の荒野まで飛ばされていた。
見渡す限りの荒れ地。岩肌が露出した大地に、乾いた風が吹いている。ここなら建物を壊す心配はない。
「なっ!」
ヴァイオレットは周囲を見渡して驚いている。一瞬で場所が移動したことに戸惑っているようだ。確かに、私も最初に体験した時はかなり驚いたものだ。魔力の流れ自体は理解できていても、まだ私の魔力密度ではこの魔法を唱えることはできなかった。
「人間……何が目的だ。」
ヴァイオレットは私にそう問いかける。……そう言われても別に私は目的なんてない。ご主人様の命令に従ってここにいるだけだ。
「……ちょっとわからないわ。」
「何をふざけたことを!」
ごもっとも。目的は何ですか、という念を込めてご主人様の方を振り向いた。
「そうだな、龍族の力を知りたかった。というところか。」
ご主人様がそう答える。なるほど、龍族の最強の存在の力を測りたかったということか。姫の治療は手段であり、真の目的はこちらだったのかもしれない。
「それで、ザン様を……許さない!」
いや、死んでないわよ?しかしまたもやそれを伝える前に、私に切りかかってくる。ヴァイオレットの怒りは頂点に達しているようで、会話を聞く気配がまるでなかった。
「燃えろ、炎龍!」
剣から炎の龍が出てきて、こちらへ向かってくる。
炎で構成された龍の形をしたエネルギー体が、うねりながら突進してくる。熱波が先に届き、肌がピリピリと焼けるような感覚。これは相当な温度だ。
「バニッシュルーム……消えない!くっ!」
拡散魔法を唱えたが、炎の龍は消えなかった。バニッシュルームは魔力を拡散させる魔法だ。これが効かないということは、この炎は魔力によるものではないということだ。
避けきれず、右手が焼けてしまった。魔法障壁を張っていなかったら骨まで燃えていただろう。それほどまでに温度が高い。皮膚が赤く腫れ上がり、鋭い痛みが走る。
「魔法ではない……。」
バニッシュルームで拡散できなかったということは、これは魔力によるものではないということだ。一体なんだ。
「この剣は聖剣だ。聖なる力をまとっている。」
ヴァイオレットが剣を掲げながらそう言った。聖なる力。聖力。魔力とはまた違った力。私の「一度見れば覚えられる」という才能は、魔力の範疇でしか効果がない。聖力となると、まるで未知の領域だ。
つまり、私の最大の武器が通用しない相手ということだ。
「華流・華かんざし。」
それでもやるしかない。私は短剣に魔力を流し込み、ヴァイオレットに向かって斬り込んだ。
「シド流・宵凪!」
二つの剣が重なり合う。金属と金属がぶつかる澄んだ音が荒野に響き渡る。しかし、私の方が押し返されてしまった。
すごい力だ。龍族の膂力は人間とは次元が違う。さらに魔力を体内に流し込んで身体強化をしようとするが、聖剣によって魔力の流れがせき止められてしまう。聖力が魔力を阻害している。まるで川の流れに巨大な岩を置かれたような感覚だ。
「華流……っ!」
次の攻撃を放とうとした時には、すでにヴァイオレットが私の懐まで潜り込んでいた。速い。人間の速度ではない。振るわれた剣をすんでのところでかわす。風圧で頬が切れた。
この龍族、強い。剣技だけで言えば、私の遥か上を行っている。
「シド流・月下。」
剣先が消えた。
いや、消えたように見えたのだ。速すぎて目で追うことができない。剣の軌道を予測しようとするが、聖力で構築された動きは私の経験則から外れている。
「くっ……。」
頬に剣が当たった。しかしガン、という音とともにヴァイオレットの剣が弾き返される。私の魔法障壁が頬を守ったのだ。
「魔法障壁か。固いな。」
「あなたに切られるようなやわな魔法障壁ではないわ。」
強がりだった。確かに今の攻撃は防いだが、聖剣の力が魔法障壁を侵食しているのがわかる。何度も受ければ、いずれ破られる。
そして、あの目を見る限り、ヴァイオレットは絶対に奥の手を隠している。今の攻撃は、おそらくまだ本気ではない。
「ファイアーアロー。」
剣での攻略が難しいなら、魔法で攻める。距離をとって炎の矢を放った。
「守れ、輝龍。」
聖剣が光り出す。白い光がヴァイオレットの周囲に広がり、私の魔法が、その光に触れた瞬間に消滅した。
「なっ!」
バニッシュルームのような拡散ではない。魔法そのものが、聖力によって存在を否定されたかのように消えた。魔力で構成された攻撃は、聖力の前では無意味ということか。
「シド流・宵凪。」
「華流・剪定……くっ!」
身体強化魔法を使用しているにもかかわらず、吹き飛ばされてしまう。地面を転がり、砂埃が舞った。口の中に砂の味がする。
「華流……。」
立ち上がろうとした瞬間、
「シド流奥義、天ノ川。」
「あぁっ!」
かろうじて反応した。しかし完全には避けきれず、わき腹を切り裂かれた。
聖剣の刃が肉を裂く感覚。魔法障壁を貫通して、直接体に到達している。血が噴き出し、メイド服が赤く染まっていく。
さっきから回復魔法を唱えているが、治りが遅すぎる。傷口が塞がりかけては、また開いていく。
「聖剣は魔の力を抑制する効果がある。その回復も魔法を使用しているのではないか?……もう諦めろ。そして龍の里へ来たことを後悔するがいい。」
ヴァイオレットが剣に力を込めながら、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
聖剣の光が、夕暮れの荒野を照らしていた。その光は美しかった。しかしその美しさは、私にとっては死を意味する光だ。
私はここで死ぬのだろうか。
わき腹からは血が止まらない。回復魔法は聖剣の影響で効きが悪い。足に力が入らない。視界がぼやけていく。
龍族で最強と呼ばれる存在の前に、私はこんなにも無力だった。
あの貴族殺しの日々、私は自分が強いと思っていた。一度見た魔法を覚え、次々と敵を倒してきた。誰にも負けないと思い込んでいた。
しかし今、こうして地面に膝をつき、血を流している。聖力という未知の力の前に、私の魔法は無力だった。一度見れば覚えられる、という才能も、見たことのない力の前では何の意味もなかった。
死んだら、あの子のそばに行けるだろうか。
檻の中で、片腕で、一生懸命私の傷を塞いでくれた、あの子のそばに。
……いいや。
駄目だ。私はまだ死ぬわけにはいかない。
私には貴族をこの世界から消すという目的がある。あの子のような人間を二度と生み出さないための戦いが、まだ終わっていない。そして何より。
私はグルンレイドのメイドだ。
『グルンレイドのメイドは"生きて"任務を遂行しなければならない。』
いつかのご主人様の声が蘇る。
「……まだよ。」
私は立ち上がった。
足が震えている。わき腹の傷からは血が流れ続けている。メイド服はもう血で赤黒く染まっていた。しかし、立った。立ち上がった。
「まだ、終わっていないわ。」
「……往生際が悪いな。」
ヴァイオレットが剣を構え直した。その表情には少しだけ驚きが浮かんでいた。ここまでのダメージを受けて立ち上がる人間を、この龍族は見たことがないのかもしれない。
「あなたの剣は確かに強い。聖力という力も、私には未知のものだわ。」
私は短剣を構えた。左手でわき腹の傷口を押さえながら、右手に残った全ての魔力を込める。
「だけど、私は死ねないの。まだやることがあるから。」
「そんなものは知ったことではない。」
「そうね。あなたには関係ないわ。」
関係ない。これは私の問題だ。私があの子に誓ったこと。私がご主人様に誓ったこと。この龍族には関係のない、私だけの話だ。




