過去編:ヴァイオレット1
「明日王都へ行く。準備をしておけ。」
ご主人様がそう言った。
「かしこまりました。」
急な命令だったが、すぐに私はイザベラさんの指示のもと荷物をまとめ始める。ご主人様の荷物はイザベラさんがまとめるようだ。衣類の畳み方から、持っていく調度品の選定まで、イザベラさんの手際は驚くほど正確で速かった。
「なぜ馬車で向かうのですか?」
私たちは魔法を使えるのだ。たとえ荷物が多くても魔法で浮かせれば何の問題もないと思うのだが。
「見栄えというものがあります。立派な馬車を持っているということを周囲に知らしめることも重要なのです。」
「……大変なんですね。」
貴族も貴族でなかなか大変ということだ。私は貴族を憎んでいたが、グルンレイドに来てから少しずつ、貴族にも貴族なりの苦労があるのだと理解し始めていた。もちろん、奴隷を道具のように扱う貴族への怒りは消えていない。しかしご主人様を見ていると、貴族という存在を一括りに憎むことへの疑問も、少しずつ芽生えてきていた。
なぜご主人様が王都へ向かうかというと、王と面会をするかららしい。辺境伯という一介の貴族に王が直接会うだなんて普通は考えられないのだが、それができるということはやはりご主人様は特別な存在なのだろう。
「なぜご主人様は国王と直接面会をすることができるのでしょうか。普通、辺境伯という地位では難しいかと……。」
「一言でいうと、"力"ですかね。」
ご主人様の力は身に染みて知っている。私があれほど自信を持っていた魔法が、ご主人様の前ではまるで子供の火遊びだった。
「ご主人様が領主になってから、さまざまな刺客、魔物などにこの屋敷が襲われました。それを全て防いだのが始まりです。」
ご主人様はこの屋敷の使用人をイザベラさんただ一人にしたらしい。その噂を聞いた盗賊たちが金品を目当てに次々と屋敷に侵入したようだが、ことごとく返り討ちにあったようだ。
ただ、イザベラさんがご主人様に討伐を任せるとは思えない。ご主人様ではなくイザベラさんが返り討ちにしたのでは?というのには触れないでおこう。イザベラさんはそういうことを自分からは言わない人だ。
「すると戦争にも呼ばれることが多くなってきました。そこではご主人様が参加した方が必ず勝つという噂が広まるくらいには、影響を与えていました。」
それが積もりに積もって、王の耳に入り、呼ばれることになったのだそうだ。しかしそれでは、勲章を与えるためなのか、それとも粛清するためなのか、どちらで呼ばれたのかわからないのではないだろうか。
「もし粛清の対象になってしまったらどうするんですか?」
「その時は王国を滅ぼします。」
冗談を言っているようには見えなかった。そもそもイザベラさんは冗談を言う人ではない。彼女は常に真っ直ぐで、その行動の全てはご主人様のためだ。たとえ王国を敵に回すことになっても、ご主人様のためならば一切の躊躇はないのだろう。
「それは私としても好都合です。貴族を滅ぼすという私の目的も達成できそうですから。」
私はそう言った。王都には王国騎士団や魔法士団がいるというのに、イザベラさんが負ける想像が全くつかなかった。私が手も足も出なかったご主人様の次に強い存在が、あのイザベラさんだ。王国の兵力程度で止められるわけがない。
自室に戻ると、明日の王都遠征の準備をする。しかし何を持っていけばいいのか見当もつかなかったので、隣で私と同じようにかばんに荷物を詰めているイザベラさんに声をかけた。
「何を持っていけばいいのでしょうか。」
「石鹸類は私が持っていますし、食料もすでに馬車に運んでいます。……着替えくらいで大丈夫でしょう。」
「分かりました。」
着替えといっても下着とメイド服を数着入れればそれで終わりだ。まだ空き容量があるかばんを前に、他に入れるものがないかを考える。が、思い浮かばなかったので私が寝る前に読んでいる絵本を持っていくことにした。
「それは本ですか。」
「はい、この屋敷の書庫にあった本です。」
私は字を読むことができなかった。奴隷に教育など与えられなかった。文字の存在は知っていたが、それが何を意味しているのかは全くわからなかった。
しかしイザベラさんに教えてもらったおかげで、だいぶ読めるようになってきた。最初はひらがなのような簡単な文字から始まり、少しずつ難しい文字も覚えていった。読めるようになると、本はすごく面白いものに感じた。
文字の一つ一つが物語を紡いでいく。知らない世界を見せてくれる。私が今まで檻の中で見ていた景色とは全く違う、広い広い世界が、本の中にはあった。
「面白いですか?」
「はい。」
「それはよかったです。」
イザベラさんは優しいまなざしを一瞬だけ私に向けて、そのあとは自分の作業に戻っていた。この人は感情を表に出すことが少ない。しかしたまに見せるこういう柔らかい表情が、私は好きだった。
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翌日、馬車で王都へ向かった。
「それでは出発いたします。」
馬車は馬二頭に引かせており、中もかなり広い印象を受けた。ご主人様、イザベラさん、そして私の三人が座っている。本来であれば周りに護衛の馬車を置くものだが、今回は一つもない。
「王都までは半日ほどで到着します。」
イザベラさんがそう告げる。
「うむ。」
ご主人様はそれだけ返事をすると、腕を組んで目を閉じた。
馬車の中は静かだった。揺れる車体の中で、私はイザベラさんの隣に座り、窓の外を流れていく景色を眺めていた。グルンレイド領の大森林を抜け、開けた平野を走り、王都へと向かう街道に入る。
途中、いくつかの村を通り過ぎた。村人たちは馬車を見ると道端に寄り、頭を下げていた。ご主人様の馬車だと分かるのだろう。グルンレイド領の人々にとって、ご主人様は恐怖の対象であると同時に、頼もしい領主でもあるようだった。
私はかばんから絵本を取り出し、読み始めた。馬車の揺れで少し読みにくかったが、集中すれば気にならない。物語は、旅に出る少女の話だった。家を出て、知らない土地を歩き、様々な人に出会い、最後には自分の居場所を見つける。
……少し、自分と重なる気がした。
「あの、私は何かすることはあるのでしょうか。」
「そうですね。魔物が出たら対処してください。」
「はい、分かりました。」
私がグルンレイドのメイドとなってから、毎日のようにイザベラさんとご主人様に訓練をしてもらっていたのだが、実際に魔物と戦ったことは一度もない。少し緊張する。
「今のあなたなら、ここら辺の魔物は問題ないでしょう。」
ということだった。私でもなんとかなるらしい。
「さっそく来ましたよ。」
私の観測魔法にも引っかかった。邪悪な気配が3つ……。
「では、行ってきます。」
そういって私は馬車を飛び降りる。馬車には大きなガラスの窓があるので、私の戦闘風景をご主人様たちは見ることができるだろう。私は馬車の最高速度をものともせずに華麗に地面に着地する。
「グギャァー」
これおそらくゴブリンだろう。魔物の絵が描いている本で見たことがある。三体のゴブリンが私に気づいたようで、盗賊から奪ったような壊れかけの短剣を腰から引き抜きながら近づいてくる。まずは牽制だ。
「ファイアーアロー」
遠くのゴブリンたちに火の矢を放つ。おそらくよけられるか、かき消されるかされるだろうが、そのすきに私は横に回り込んで……。
「グ、グギャァァ」
三体のゴブリンはその場に焼け焦げて倒れてしまった。……どういうこと?私はまだ牽制しかしていないのに、なぜ倒れるのだろうか。……罠か?しかし注意深く様子を探ってみても、動く気配はなかった。そして徐々に体が消えていく。
「どうでしたか。魔物と戦った感想は。」
「正直拍子抜けでした。魔物は人間より強いものと本で見たので、もっと強大な存在かと思っていました。」
「ここら辺に出る魔物は弱いですよ。」
弱い魔物もいるということを私は知った。
—
「止まれ、そこの人間!」
しばらく進んでいくと馬車の外からそのような声が聞こえた。賊だろうか。私は外に出て様子を見る。
「こんにちは。私はグルンレイドのメイド、スカーレットと申します。」
「今は話している時間がない!エリクサーをだせ!」
そう叫んでいるのは、傷だらけの魔物だった。……魔物?
「角や尻尾があります、竜族ですよ。」
同じく様子を見に来たイザベラさんがそういう。
「メイドだけってことはあるまい。お前らの主人を呼んでこい!」
「……殺しますか?」
「やめなさい。どんなものもむやみに殺してはいけませんよ。」
魔物は悪い存在だから別に問題はないのではないだろうか。いや、違う。さっきイザベラさんは龍族といっていた。魔物とは違うのかもしれない。確かにこんなに流暢に言葉を話せる魔物もいないだろう。
「私を呼ぶ声が聞こえたのだが。」
ご主人様が馬車から出てくると私とイザベラさんは後ろへ下がる。
「その見た目、人間の貴族だな!死にたくなければエリクサーをよこせ!」
必死にそう叫んでいる。確かに普通の人間に比べると、この龍族の力はかなり強いだろう。しかし私たちと比べると脅威になるとは思えなかった。
「シンクロナイズ」
このまま会話をしても埒が開かないと判断したのか、」ご主人様は何かの魔法を龍族にかける。
「姫様が死んでしまいそうです。助けるために人族が作るエリクサーが必要です。」
さっきまで必死の形相だったのに、急に静かになり淡々と語り始めていた。精神支配系の魔法なのだろう。攻撃魔法と違い魔力の流れが生まれないので、私もすぐに覚えることができないようだった。一体どのような仕組みなのだろうか。
「ふむ。」
ご主人様は何かを考えているようだった。
「竜の里へ向かう。」
「かしこまりました。」
イザベラさんは間髪いれずにそう返事をする。しかし私はあまりにも突拍子のないことで戸惑いを隠せなかった。王国への到着が遅れるのだが大丈夫なのだろうか?まあ私があまり深く考える必要はない。
「案内せよ。」
「はい。」
そう返事をすると、龍族は何かしらの道具を使用するようだ。魔力が周囲に広がっていくのが感じられる。
「円の中に入ってください。」
ご主人様とイザベラさんが円の中に入る。私もそれにならって入ると、その瞬間に周囲の景色が変わった。
「こちらです。」
なんの説明もなしに龍族が歩き出す。ここはどこだ?さっきまで見えていた木々が見当たらない。その代わりに周囲には広野が広がっていた。
ゴォォォォ
そんな音とともに、地面には巨大な影が映し出され、通り過ぎていく。
「な、なに!?」
私は驚いて上を見上げる。そこには龍が飛んでいた。
「龍の里か。」
ご主人様がそういう。ここは龍の里というらしい。……空気が薄い。もしかしたらここは地上より遥か上空にある場所なのかもしれない。
そう考えていると、龍族が展開している円が浮かびだし私たちを運んでいく。やはり魔法操作に関しては、人間に比べてかなり優れているようだ。
「止まれ、ナビル。此奴らは何者だ!」
「はい。この方は……えっと、あれ?」
「精神支配か!何者だ貴様ら!」
別の龍族が叫んでいる。ナビルはどうやらご主人様に精神操作をされて案内させられていたようだ。
「私の名はジラルド・マークレイブ・フォン・グルンレイドだ。」
「に、人間か!」
驚いた表情を見せ、武器を構える。私もすぐに攻撃ができるように準備をした。短剣に魔力を流し込み、いつでも動ける態勢を取る。
「侵入者だ捕らえろ!」
「いいのか?お前たちの姫が死ぬぞ?」
「なぜそれを……ナビルか……。」
徐々に私たちの存在が知れ渡ったのか、龍族が集まってくる。人間とは違う、鋭い目をした者たちが私たちを取り囲むように現れた。
「これはなんの騒ぎだ。」
遠くから魔力密度の高い龍族が現れてそう言った。他の龍族とは格が違う。纏っている気配が一段と重い。
「ザン様、人間が現れました。」
「人間……。」
ザンと呼ばれた龍族がこちらを睨む。値踏みをするような目だった。
「何用だ。」
「姫がどんなものか見に来たのだ。」
……なぜご主人様は龍族の姫のことに意識を向けるのだろうか。極論、別に無視してしまっても良かったのではないか。しかし、おそらくこれもご主人様の崇高な考えがあってのことだろう。ご主人様の行動には常に深い理由がある。それは私がグルンレイドに来てから学んだことの一つだ。
「見ず知らずの人間を姫様に合わせるわけにはいかない。」
「そうか、ならば私は帰ってもいいのだぞ?」
「くっ……本当に治せるのか?」
「それはわからんがな。」
人間の病気ならまだしも、龍族の病気はあまり想像がつかない。しかしご主人様であれば何とかしてしまうのではないかと、私はそう思ってしまう。イザベラさんと同じだ。ご主人様のそばにいると、いつの間にか「なんとかなる」と信じてしまうようになる。
「……こっちだ。」
「ザン様!」
「狼狽えるな。この人間が何かしようものなら、私が始末する。」
周囲の龍族が驚く中、ザンはそう言い切った。
「失礼な……。」
私は少し魔力密度を上昇させた。ご主人様を「始末する」だと?
「落ち着いてください。」
「……そうですね。」
イザベラさんに声をかけられ、魔力を元に戻す。ここで私が暴れてしまっては、ご主人様の目的が果たせなくなる。
巨大な建物の中に入り、ある部屋へ案内された。
「ザン。これは一体どういうことだ。」
部屋の中には数人の龍族が椅子に座っていた。着ている服の質や装飾品からして、かなり位の高い龍族なのだろう。
「姫様を治せるという人間を連れてまいりました。」
「人間なんぞに頼るか!」
一人の龍族が叫んだ。
「この際なりふり構っていられませんぞ。」
「いや、やはり人間は駄目だ。」
「だが……。」
そのような言い合いが繰り広げられる。
「ザン、といったか。ここが龍の里の中枢だな。」
ご主人様がそう問いかけた。
「そうだ。」
すると、ご主人様は魔力を解放した。
私はすぐに常時展開している魔法障壁では耐えられないと判断し、新たに分厚い魔法障壁を展開する。それほどの魔力密度だった。
「姫とやらを見せろ。」
「……なっ。」
その魔力密度に圧倒され、部屋にいた龍族のほとんどがこちらを見ることすらできずに床に倒れてしまった。しかしザンだけは立っていた。顔には汗が浮かんでいるが、膝をつかずに耐えている。
「何をした!」
「おっとこれは申し訳ない。魔力密度を上げすぎたようだ。」
「ただの魔力の開放……だと……。」
やはりこの龍族はかなりの力を持っている。しかしまだ私たちの敵ではない。ご主人様が本気を出せば、このザンですら一瞬で倒されるだろう。
「お前たちは私を信じるか、信じないかを判断しかねているようだが、それを決めるのは私だ。」
そう言い放つ。お願いではなく、命令。その鋭い目は、今にも龍族を滅ぼさんばかりの圧があった。
「や、やはり貴様は危険だ!姫のもとには近づけさせん!」
ザンが腰に下げている剣を取り出し、こちらへ飛んでくる。人間では出すことのできないような速さだった。
「スカーレット。」
「かしこまりました。」
私はご主人様に名前を呼ばれた瞬間、龍族に切りかかった。
「華流・剪定。」
私の短剣が触れた瞬間に、ザンの剣に込められていたエネルギーが全て消失する。華流はイザベラさんとの訓練で教えてもらった。魔法と剣技を融合させるというとても興味深い戦闘技術で、私はすぐに身につけた。一度見ればわかる。それが私の武器だ。
「なっ!」
「驚いている暇はないわ。」
そう言ってわき腹めがけて短剣をふるう。しかし切れることはなかった。魔法障壁に加え、頑丈な龍族の鱗が短剣を止めていた。もう少し短剣の魔力密度を上げる必要がある。
「ファイアーナックル!」
炎を纏った拳が飛んでくる。これは防がなければダメージを負ってしまうだろう。
「エアヴェール。」
空気の層を展開して止める。ファイアーナックルという技は、華流に似ている。華流は剣に魔力を流し込むのだが、あれは拳に魔力を流し込んでいた。確か魔力の流れはこんな感じだったはず。
「ファイアーナックル。」
龍族の顔めがけて拳を突き出す。
「がぁぁっ!」
顔にもろに食らって後ろに飛んでいく。
「はぁっ、はっ、なぜ人間がその技を使える!」
驚いた。血を流しているものの、致命傷には至っていないようだ。龍族の頑丈さは人間の比ではない。
「あなたが教えてくれたのでしょう?」
私に技を見せるということは、教えてくれるということと同義なのだ。一度見れば、だいたいのことはわかる。それを実際にくらったとなれば、なおさら情報を与えてくれるようなものだ。
「ば、馬鹿な。」
「今すぐ、ご主人様に従い姫のところに案内するのであれば、この短剣はしまうわ。」
魔力を込めた短剣を向けながら私はそう言った。
「な、何事ですか!」
その瞬間に部屋の扉が勢いよく開かれた。何人かの若い龍族が見えた。
「に、人間!ザン様から離れろ!」
そう言って若い龍族の一人が切りかかってくる。
「華流・一線。」
少し吹き飛ばすつもりが、持っていた剣ごと体を切り裂いてしまった。……まだ力の調整に慣れていないようだ。相手が人間ではないとはいえ、ここまでの威力が出るとは。
「ヒールルーム。」
すぐにイザベラさんが治癒空間を展開してくれた。切り裂かれた龍族の傷が、みるみるうちに塞がっていく。
「スカーレット、そういう時は相手に魔法障壁や強化魔法をかけるといいですよ。」
そしてアドバイスもくれた。確かに、相手が弱ければ相手を強化してから切ればいいのか。そうすれば力の加減をミスしても致命傷にはならない。
「確かにそうですね。」
さすがイザベラさんだ。実戦の中でこういう判断ができるのは、経験の差だろう。
「お前たち、手を出すな!」
「ですがギン様……。」
残りの若い龍族たちにギンという龍族がそう叫んだ。先ほど私に切りかかってきた龍族ではなく、別の個体だ。
「案内する。だからあやつらには手を出さないでくれ。」
ギンはそう言って頭を下げた。
「……それをご主人様に伝えなさい。」
私に言われても答えることはできない。それを決めるのはご主人様だからだ。
「スカーレット、下がれ。」
「かしこまりました。」
ご主人様は手を出さないことに決めたようだ。私程度の実力にこのざまでは、ご主人様やイザベラさんの前では立っていることすら難しいのではないだろうか。
「ふむ、いいことを思いついた。」
ご主人様が唐突にそのようなことを言った。
「貴様らも自分たちより弱いはずの人間ごときに姫の命を任せたくはないだろう?この里で最も強いものをよべ。」
ご主人様の後ろの空間が、異常な魔力密度によって歪む。まるでそこだけ世界の法則が変わってしまったかのようだった。
「い、いや、そんなことは……。」
「従えないのか?」
「くっ……。」
もはや選択肢は一つしかないだろう。
「分かった。呼ぶ。だが、姫を先に見てはくれないだろうか。一刻を争うのだ!」
「ふむ、よかろう。」
そう言ってまずは姫のところへ向かうようだ。
「ヴァイオレットをよべ。」
ギンが若い龍族たちにそう言った。
「はい、直ちに!」
若い龍族たちはすぐに部屋を出ていき、ヴァイオレットという龍族を呼びに行ったようだ。
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「ここだ。」
案内された場所は、私とイザベラさんの寝室にも負けず劣らずの立派な寝室だった。天井が高く、壁には龍族の紋様が刻まれた布が掛けられている。窓からは龍の里を一望できる景色が広がっていたが、今はカーテンが閉められ、薄暗い室内に寝具の白さだけが浮かんでいた。
大きなベッドには、私と同じくらいか少し小さい少女が横になっていた。
ご主人様の後ろに続いて、ベッドの脇まで行き彼女の顔を見る。すると少女の顔には黒い痣が広がっていた。首筋から頬にかけて、墨を落としたような不気味な紋様が浮かんでいる。
「魔力の塊か……。」
ご主人様がそう呟いた。黒い痣からは私の知っている魔力とはまた違ったエネルギーを感じる。もっと暗く、もっと重く、もっと邪悪な気配。……魔物と戦った時に感じた、あの邪悪な魔力を思い出した。
「エクストラヒール・絶唱。」
ご主人様が回復魔法を唱えた。痩せ細っていた少女の体に、少し温かみが戻ったような気がする。しかし黒い痣に関しては一切変化がなかった。回復魔法では、この痣は消せないということだ。
「離れろ。」
そう言われると、私たちはご主人様から距離をとる。イザベラさんが素早く私の前に立ち、魔法障壁を強化した。
「バニッシュルーム・絶唱。」
周囲の魔力が一切なくなった。拡散魔法。全ての魔力を強制的に散らす魔法だ。黒い痣から出ている変な魔力は瞬時に拡散されるが、痣そのものは消えることはなかった。体の表面にある魔力は消せても、体内の奥深くに根を張っている本体には届かないということだろう。
「仕方ない。」
そう言うと、ご主人様は今度は逆に周囲から魔力を集め始めた。どんどん、どんどんと魔力密度が上昇していく。それに伴って倒れないように、私は魔法障壁を分厚くする。
「フライ。」
姫が空中に浮かんだ。意識がないはずの少女の体が、ご主人様の魔力によって宙に持ち上げられる。
「スペースカット・絶唱。」
周囲の空間から断絶させる。姫を含む一定範囲の空間が、この部屋から切り離された。やはりスペースカットは一見簡単そうに見えるのだが、使用するとなるとかなり難しいだろう。空間に影響を与える魔法は、絶唱ができるほどの魔力密度が必要なのかもしれない。
「イザベラ、私は今から断絶した空間の中の魔力密度を極限まで高める。漏れ出る魔力を拡散させよ。」
「かしこまりました。バニッシュルーム。」
するとスペースカットで区切られた部分以外の場所の魔力密度が薄くなっていく。断絶した空間から漏れ出てしまうほどの魔力。そんなものを私は想像することすらできない。空間を断絶するほどの壁を越えて漏れるということは、その空間内の魔力密度がどれほどのものなのか。
「イザベラ、気を抜くなよ。」
「はい。」
ご主人様は一体何をするつもりなのだろうか。イザベラさんもまだ全貌は分かっていない様子だった。しかし次の瞬間、断絶された空間内の魔力密度が急激に上がっていく。
「……すごい。」
私は思わず声を出してしまった。スペースカットによって空間が断絶されているにもかかわらず、外に魔力が漏れ出している。イザベラさんのバニッシュルームがなければ、私だって立っていることができないかもしれない。
「まだ足りないか。」
そう言うとさらに密度を上げていく。中にいる姫は大丈夫なのだろうか。すると黒い痣が徐々に広がっているのが見えた。
……そういうことか。
あの痣は、私の想像していた通り悪い魔力なのだ。それを外に出すために、姫の体の中の全ての魔力をご主人様のもので満たそうとしている。まるで水を入れて泥を押し出すように、ご主人様の清浄な魔力で体内を満たし、邪悪な魔力を表面へと押し出しているのだ。
そして押し出されるようにして、黒い痣は全身の皮膚に広がった。体内中に根付いていたものが、全て表面に浮かび上がってきたのだろう。
「仕上げだな。」
数秒後、徐々に体から悪い魔力が抜けていくのが感じられた。表面に浮かび上がった邪悪な魔力が、ご主人様の超高密度の魔力によって外へと弾き出されていく。抜けたものはご主人様の魔力と混ざってしまい、わからなくなっていた。
痣は……残ったままだ。しかし、痣から出ていた邪悪な気配は消えている。外見は残っても、中身は空になったということだろう。
「イザベラ、スペースカットを解くぞ。」
「かしこまりました。」
ご主人様の魔力密度にも驚くが、それを拡散しきるイザベラさんも異常だ。
「バニッシュルーム・絶唱。」
周囲に放出されたご主人様の膨大な魔力は、イザベラさんの魔法によって綺麗に拡散された。まるで嵐の後の晴れ間のように、部屋の空気が澄んでいく。姫はゆっくりと降下していき、ベッドに置かれる。
「よくやった。」
「ありがとうございます。」
ご主人様がイザベラさんを褒める。たった四文字の賛辞だが、イザベラさんの表情がほんの一瞬だけ和らいだのを、私は見逃さなかった。
「ひ、姫様!」
ザンが駆け寄って声をかけている。すると少女の目がゆっくりと開いた。
「わ、私……。」
「姫様!」
「ザン?」
痣がまだあった時は、一人で起き上がることすらできないほどだったはずなのに、今はこうして会話をすることができている。ザンはこちらを向き、頭を地面につけた。
「人間……本当に感謝する。」
頭を下げるとは思わなかった。まあ、姫の命を助けてもらったのだ。頭くらい下げるか。私が思っていたよりも、龍族も結構義理堅いところはあるのかもしれない。
「何か望みはないか。龍族の名に懸けて、この礼は必ずさせてもらう。」
「ふむ、そうだな……。」
バン!という音とともに、扉が開かれた。
「ヴァイオレット様を連れてまいりました。」
「今はそれどころでは……。」
ザンが注意する。
「いや。まずはそちらから先にするか。」
ご主人様が扉の方を向いた。
「貴様が龍族で最も強いものか。」
「ああ、そうだ。」
真っ赤な髪。凛々しいつり目。
その立ち姿は、先ほどまで会っていた龍族たちとは明らかに格が違っていた。纏っている空気が鋭く、全身から闘争本能のようなものが滲み出ている。
それが、ヴァイオレットとの最初の出会いだった。




