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極悪辺境伯の華麗なるメイド  作者: かしわしろ
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過去編:スカーレット

スカーレット。周りの人は私をそう呼ぶ。


それが本当の名前なのかどうかは知らない。親が誰なのかもわからない。ただ、確かに親が存在していたという記憶だけはある。顔は思い出せない。声も覚えていない。しかし私がこの世界に生まれたということは、どこかに私を産んだ人間がいたということだ。


どのような経緯でここにいるのかも、よくわからなかった。急に目の前が真っ暗になったかと思うと、気がつけばこの檻の中にいたのだ。


「大丈夫?」

隣の檻から声がかかる。


「えぇ。」

鞭で叩かれた足がまだ痺れていた。今日も食事の催促をしただけで叩かれた。奴隷に食事を要求する権利などないというのが、ここの支配人の考え方だ。

ここは奴隷を保管している檻の中。周囲の表情を見ても、絶望しか浮かんでいなかった。誰もが下を向き、誰もが黙り込んでいる。生きることを諦めかけている目が、薄暗い空間にいくつも浮かんでいた。


「まだ売れないんですかこの娘は。」

「早く処分しちまいたいんだがな。」

支配人たちの声が聞こえてくる。


「この肌の色のせいだろうな。」

「どの客も悪魔付きなんじゃないかって買わないんだよ。」

私は他の人に比べて、肌の色が白かった。ただ白いのではない。雪のように、あるいは月光のように、不自然なまでに白い。これが病気なのかなんなのか、私には知る由もなかったが、別に体に異常はないので気にすることはない。


ただ、買い手はつかない。悪魔付きだと疑われるからだ。


「私、どうなっちゃうのかな。」

新たにこの檻に入れられた子がそう言った。

私と同じくらいの年齢に見える。痩せた体。ボロボロの服。そして――片腕がなかった。右腕が、肩のあたりからない。


「知らないわ。」

知らないというよりは、答えたくなかった。買われるということは、この場所よりもひどいことをされるということだ。特に若い女の奴隷がどういう目的で買われるのか、想像に難くない。この子にそれを教えてやる義理はない。


「血、出てる!」

その子は突然そう言うと、自分の着ている布を片手で少し破って、私の足の傷口に当てた。


「な、何をやっているの……?」

突然のことに戸惑ってしまう。今まで長らくこの場所にいたが、そんなことをする人間は誰一人といなかった。皆自分のことで手一杯で、他人を心配するという無駄なことはしない。それが当然だ。ここではそうしなければ生きていけない。


「血は、早く止めないと!」

片腕しかないのに、必死にその手で布を押さえている。

そんなことはわかっている。が、私は他人だろう。なぜそんなに心配ができるのだ。自分だって片腕がないという、私よりもずっと辛い状況ではないか。


「このくらい、自分でやるわ。」

当てられている布を払い除けて、自分の服で傷口を押さえる。


これが始まりだった。

この子は、私が怪我をするたびに駆け寄ってきて、「大丈夫?」と声をかけてきた。鞭で叩かれた時も、壁にぶつけられた時も、食事を抜かれてふらふらの時も。何度も何度も、片腕で布を裂き、傷口に当ててくれた。


「あなた、他人を気にかける余裕なんてないでしょう?こんな非生産的なことやめたら?」

ある日、私はそう言った。


「そんなこと思ってないよ……。でも、嫌だったらやめるよ……。」

悲しそうな顔をさせてしまった。なぜか私までそんな気持ちになる。他人の表情で自分の心が動くなど、今まで経験したことがなかった。


「そ、そんなことを言いたかったわけでは……。」

言葉が、うまく出てこなかった。


---


「この娘は片腕がありませんが、よろしいですかな?」

「ぐへへ、体さえ使えればなんでもいい。」

「かしこまりました。金貨八十枚でございますぜ。」

その会話が聞こえた時、体が凍った。あの子が、買われる。


「早く出ろ!」

「あっ。」

無理やり檻から引きずり出されていく。あの子は抵抗しようとするが、片腕では振りほどくこともできない。


「どうぞ確かめてみてください。」

「ほう。」

貴族と思しき男が、あの子の体をべたべたと触り始めた。品定めをするように、肩を、腰を、顔を。


「なかなか良いではないか。」

「や、やめっ。」

涙を浮かべながらそう叫ぶ。しかし周囲の奴隷たちは目も合わせない。関わったら自分に火の粉が飛ぶ。それがここのルールだ。

私だって、目を逸らせばいい。いつもそうしてきた。誰かが連れて行かれるたびに、目を閉じて、耳を塞いで、何も感じないふりをしてきた。


「どれ、早速試してみるか。」

貴族はあの子の下半身に手を伸ばし始める。


「お待ちください。まだ商品ですので。」

「そうだったな。ほれ。」

大金貨が一枚、支配人の手に渡る。指定された値段よりも多い。支配人は満面の笑みを浮かべた。


「ありがとうございます。では味見はこちらで。」

奥の部屋へ連れて行かれる。


「や、やめ。」

「大人しくしろ!」

「あぁっ。」

支配の魔法で身動きを封じられたあの子が、連れて行かれながら振り返った。その目が、私を見ていた。

絶望に染まった目。しかしその奥に、助けてという声にならない叫びが見えた。

私が目を逸らしたら、それで終わる。今まで通り、何も見なかったことにすればいい。所詮は他人だ。何度か声をかけてもらっただけではないか。


早く目を逸らしてしまおう。


しかし、どうしてか心がざわつき始める。

何を馬鹿なことを考えている。私が動いたところで何が変わる。奴隷契約に縛られている私が、何をできるというのだ。その考えに反して、私の体が動いた。


「なはしなさい!」

檻の格子を掴む。ガシャン、という音が響き渡った。


「なんだこいつは。」

「すみません、すぐに黙らせます。」

『動くな。』

支配人の命令が発動する。体中が縛られたかのように締め付けられた。奴隷契約の力だ。全身の筋肉が硬直し、指一本動かせなくなる。


「こやつもなかなかいい体をしているではないか。」

「どうです?こちらも一緒に。」

「……冗談を言うでない。悪魔付きなんぞをそばに置いてられるか。」

そんなことを話しながら、遠くへ行ってしまう。

くっ!こんな縛り……。

私は体の内側に力を込めた。何の力なのかはわからない。ただ、生まれた時から私の中にあった何かが、今、内側で叫んでいる。


しかし力を込めれば込めるほど、縛りの強さは増していく。


「があぁぁっ!」

なぜ私は立ち上がろうとしているのだろうか。なぜ私はあの子を助けようとしているのだろうか。わからない。が、そんなことはどうでもいい。今私が立ち上がらなければ、一生後悔してしまいそうだからだ。


何も考えずに内側から力を出すだけでは、痛みが増すだけだ。合間を縫うようにゆっくりと、契約に気づかれないように、この力を操作する。

私の内側にある力が、微量だが外に出たのを感じた。あとはここからこじ開けるように、この力を外に流し込む。


「はあぁぁぁ!」

それに反応するように、やはり縛りの強さが増した。しかし外に出る力の量も増えている。このままこじ開ける――!


ピシッ。


そんな音が聞こえた気がした。


「熱っ!な、なんだ!燃えてる!」

奴隷商のかばんの中から火が出ていた。


「どうしたのだ!」

「け、契約書です!その一枚が燃えています!」

「ば、ばかな!」

私の中から、何かが大量に流れ出すのを感じた。すると周囲にいた奴隷たちが次々に倒れていく。しかしそれを考えることもできないくらい、私は目の前のことに集中していた。


燃えて地面に落ちた契約書。


そこには『スカーレット』と書かれていた。


---


「警備兵、早くとらえろ!」

装備を整えた兵士が次々にやってくる。


「はぁぁっ!」

私は自分が入っていた檻をつかみ、宙に浮かせ投げ飛ばす。


「ぐあぁぁっ!」

数人の兵士が押しつぶされていた。


「おとなしくしろ!」

後ろから剣が振るわれ、私の腕に傷が入る。


「っ……!」

幸い切り落とされてはいないようだが血が流れ始める。痛みは……感じなかった。おそらく麻痺しているだけだろう。痛みがやってくる前に何とか兵士を倒さなければ。


「吹き飛べ!」

私の中にある力を外に飛ばすイメージでそう叫ぶ。すると近くにいた兵士が壁に激突する。


「はぁ、はぁ。」

頭がクラクラする。腕から血を流しすぎたせいかと思ってみてみると、いつの間にか血は止まっていた。これはなんだ……。


「おらっ!」

また剣が振られる。しかし今度は体に鎧を着るイメージを膨らませる。ガギィンという音とともに、私に触れる直前で剣が止まった。


「な、なに!」

体中の力を全力で外に放出する。すると兵士たちも次々に地面に倒れていった。


「……や、やめろ!」

遠くにいた貴族と奴隷商の男は無事だったようだ。


「こ、こいつがどうなってもいいのか!」

貴族はあの子にナイフを突きつける。


「な、何を!」

私は叫ぶ。


「今は私の所有物だ。どうしようと勝手だろう!」

……やはり貴族というものはこの世界から消さなければいけない。こんな奴らがはびこっているから、あの子があんな目に合うのだ。


「ちっ、よくもやってくれたな!」

奴隷商の男がこちらへ走ってくる。それも鎧をイメージして防ごうとする。しかし、それは私のわき腹を貫通した。


「かはっ……!」

「残念だったな。この短剣は魔法が付与されているんだ。」

魔法……とは何だろうか。しかし私のこの不思議な力と同じようなものだろう。


「よくやった!このまま刺し殺せ!」

「もちろんで……」

「私は、止まるわけには、行かないっ!」

わき腹に刺さったこの変な力を、私の力で包み込む。そして吸収する。


「ぬ、抜けない!」

私の体からナイフを引き抜こうとするが、固定しているので取れることはない。私はそのまま奴隷商の男を押し返す。


「小娘のどこにこんな力がっ!」

私は体に刺さったナイフを引き抜き、力をこめる。血は……やはり流れなかった。そして奴隷商の男に突き刺す。


「があぁっ!」

男は地面に倒れる。不思議な力を交えて刺したので、当分起き上がることはできないだろう。


「や、やめろ、これ以上近づくな!こいつがどうなってもいいのか!」

それでも歩みを止めない私を見ると、貴族の男はナイフを振り上げ、あの子に向かって振り下ろす。……間に合え!あの子とナイフの間に体を入れる。


「これで終わりだ!」

そのままナイフは私の背中に突き刺さる。


「……っ。」

肺に穴が開いてしまったのだろうか。うまく呼吸ができない。これも魔法というものが付与されているようだった。


「ぬ、抜けん!」

「わ、私は、はぁ、あなたたちを、許さない……。」

肺に空いた穴を、私の力で塞ぐイメージをする。そして炎をイメージしてその貴族に向けて飛ばす。


「や、やめろ!」

スッと私が生み出した炎が消え、貴族にあたることはなかった。


「なんですか、この状況は。」

「おぉ、来たか!早くやつを始末しろ!」

「はいはい、了解です。」

おそらくこのローブを身に纏った変な男が私の力を止めたのだろう。


「このガキが魔法を使ったのか……。この傷で生きていられるということは相当の使い手だな。」

「あなたは……誰?」

「お前と同じ魔法師さ。」

「ま、ほう?」

「……知らないのか。」

私のこの力は魔法というらしい。知ったところでこの状況は変わらないのだが。


「ところでお前を逃がす手伝いをしたのは誰だ?」

「私は、一人で出たわ。」

「そんなバカなことがあるか。契約書を破った協力者がいるはずだ。」

「いないわ。」

「そうか、言うつもりがないか。では消えろ。」

すると私の周りの空間が急に爆発し、私は壁まで吹き飛ばされてしまう。


「ほう、それで死なないとは、魔法障壁を張っているのか。」

痛い、そして熱い。体がこのまま溶けてしまいそうだ。このまま私が死んでしまうのだろうか。


「に、逃げて!」

そんな声が聞こえた。こんな状況でも、自分のことより私のことを心配してくれる、優しい子なのに。


「黙れ!」

そんなやさしさを感じることもない貴族なんてこの世界には不必要な存在だ。呼吸を整えろ。この力……魔法は私の敵ではない。使うのではなく、一体となるのだ。


「か、回復魔法だと!」

徐々に傷がふさがっていくのを感じる。


「ヒートボム!」

再び空間に魔力がたまっていくのが感じられる。私はその魔力の流れに干渉し、私のものへと変換する。


「なぜ爆発しない!」

「これが魔力の流れ……。」

魔法師を名乗る男から魔法による攻撃を受けたことによって、魔力の流れが手に取るようにわかるようになっていた。


「ファイアーアロー!」

魔力が線状になってこちらに広がってくる。私は右手に魔力を込め、その線を振り払う。


「は、発動しない……。」

魔力の流れはこんな感じだったはず……。


「ファイアーアロー」

私の作った魔力をたどって炎が飛んでいく。


「なっ……ぐあっ!」

同じような魔力の流れをいくつも生成する。


「ファイアーアロー」

いくつもの炎が、魔法師に襲い掛かりその男が焼け焦げる。魔法障壁というものを張っていれば、もしかしたら死んではいないと思うが、無事でもないだろう。そうして貴族の方を見る。


「く、くそ、こうなったら!」

人質にナイフを突き立てる。


「ま、待ちなさい!」

「遅い!」

ナイフをのど元に押し付ける。


「かはっ……。」

小さな呼吸が止まる音がした。……なぜあの子が死ぬ必要があるの?何の罪もないのに。あなたたち貴族の方がよっぽど消えるべき存在なのに!


「許さない……。」

「ははは!お前のその表情が見たかっ……」

「黙りなさい!」

貴族の首が落ちる。……この子のためにも、やはり貴族は私が消さなければいけない。私はそう心に決めた。檻を素手でこじ開け、兵士たちを薙ぎ倒し、魔法師を焼き尽くした。


体に刺されたナイフを引き抜いても血が止まった。魔法障壁を張ることも、炎を放つことも、自分の傷を治すことも、全て本能で行った。これが魔法というものらしい。名前を知ったのは、あの魔法師に教えられた時だった。


しかし、間に合わなかった。あの子は貴族にナイフで喉を突かれ、息を引き取った。

小さな体が、床の上で動かなくなっていた。片腕しかなくても、いつも私の傷を塞ごうとしてくれた、あの手。もう動くことはない。


私はその貴族の首を落とした。


ーー


それから私は、貴族を殺して回った。

奴隷を道具のように扱う貴族。人の命を金で買う貴族。弱いものを踏みにじって笑っている貴族。そのどれもが、この世界に存在してはいけないものだと、私は確信していた。


王国から賞金がかけられた。盗賊や傭兵が私を狙ってきた。しかし私の魔法の前には、誰も立つことができなかった。一度見た魔法はすぐに自分のものにできた。戦うたびに強くなった。

しかし、強くなるたびに、あの子の笑顔が遠くなっていく気がした。


ーー


「貴様が貴族を殺しまわっているという、スカーレットだな?」

目つきの恐ろしい男が声をかけてきた。服装や身につけている高級そうなアクセサリーからして、貴族だろう。


「えぇ。そうよ。」

私はすぐに魔力を練り始める。わざわざ貴族の方から私に殺されに来てくれるなんて、手間が省けて助かる。


「多くの貴族がお前を狙っている。」

「あなたもその一人というわけね。けど、貴族ごときに私は殺されない。」

貴族だけではない。王国から私に賞金がかけられたようで、盗賊などの勢力からも狙われていた。しかし今のところ、私を倒せた者はいない。


「ご主人様に向かってなんという言葉遣いを……。」

脇にいるメイドが何かをつぶやきながら、こちらを睨み続けている。

貴族に仕えているなんて、さぞ苦しい思いをしていることだろう。


「少し違うな。私は貴様にお願いをしに来たのだ。」

「命乞いかしら?」

「それも違うな。私に仕える気はないか?」

何を馬鹿なことを。


「断る。」

「だろうな。」

「あなたの方から私に殺されに来たというのには感謝するわ。ファイアーアロー!」

高密度の魔力を男に向けて飛ばす。すると、そばにいたメイドが前に出てきた。


「あ、危ない!」

思わず声を出してしまう。私は貴族を憎んでいるが、そのほかの者をむやみに殺すようなことはしたくない。しかし私の予想に反して、そのメイドは倒れなかった。


「華流・剪定……ご主人様への無礼は私が許しません。」

メイドの剣が私の魔法に触れた瞬間、炎がかき消された。


「貴族に仕えるなどどうかしているわ!」

「私もご主人様以外の貴族などに仕える気はありませんよ。」

「あなたを傷つけるつもりはないわ。そこをどきなさい。」

「そんなことはできませ……。」

「下がれ。」

貴族の男がそう言った。


「ですが……。」

「何度も言わせるな。」

「……かしこまりました。」

メイドは言われた通りに後ろへ下がっていく。不満そうな表情を浮かべていたが、命令には従った。


「望み通り、私が相手をしよう。」

よかった。これで無関係の人を傷つけずに目的を達成できる。


「ヒートボ……。」

「バニッシュルーム・絶唱。」

周囲の魔力が消えていく。ヒートボムが発動しない。魔力が集められない。まるで空間そのものから魔力が吸い出されてしまったかのようだった。


「メルトダウン・絶唱。」

「えっ?」

私の顔のすぐ脇を、高密度のエネルギー体が通り過ぎていった。速すぎて目で追うことすらできなかった。背後の木が溶けるように消えていく。


「おっと、私の魔法が少しずれてしまったようだな。」

わざとだ。

この圧倒的な力の前に、私は何ができるのだろうか。だが、諦めるわけにはいかない。


「ファイアーアロー!」

「ファイアーアロー・絶唱。」

二つの魔法がぶつかり合った瞬間、私の魔法が飲み込まれた。同じ魔法、しかし威力が桁違い。「絶唱」という言葉を付け加えただけで、ここまで差が出るのか。


「くっ……。」

魔法障壁を限界まで分厚くして体を守る。しかし全身が燃えるように熱い。


「ほう、なかなかの魔法障壁だな。」

そう言ってゆっくりとこちらを観察している。奴隷を人として見ていない、貴族のそういう目が嫌いだ。


「負け、るかぁぁぁ!」

私は体にまとわりついている炎を無理やり拡散させた。


「メルトダウン!」

さっきの男の一撃を食らったことで、この魔法の魔力の流れがわかった。一度見た魔法は自分のものにできる。それが私の唯一の武器だ。


「エアヴェール・絶唱。」

しかし魔力を帯びた空気に堰き止められる。私の魔力とは桁違いの密度だった。絶唱。これを使いこなせなければ、私はこの貴族に勝てない。


「メルトダウン!」

もう一度、さっきよりも魔力密度を上げる。しかし空気の壁を貫通させることはできなかった。


「一度見ただけで魔法を使えるとはな。素晴らしい。」

「ほめられても嬉しくはないわ。」

余裕の笑みを浮かべている相手を睨み返す。


「だが私も時間がないのだ。手短に済ませてもらう。ライトニング・絶唱。」

「エアヴェール!……があっ!」

空気の層と魔法障壁を貫通して、全身に電流が駆け巡った。すぐに回復して魔法を唱えようとする。


「ファイアー……。」

「スペースカット・絶唱。」

ザクッという音とともに、私の太ももが切られ、地面に崩れ落ちた。


「あぁぁぁぁっ!」

すさまじい痛みが襲ってくる。止血を――。


「ヒートボム・絶唱。」

頭のすぐ隣で凄まじい爆発音がなり、吹き飛ばされる。腕に力が入らない。立ち上がる足も片方ない。

私はその貴族を見上げた。


「私もな、奴隷をごみのように扱う貴族どもは気に食わないのだ。」

「な、何を……。」

あなただって奴隷をごみのように扱っているんじゃないの。今もこうやって私を下に見て……。しかしその目は嘘を言っているようには見えなかった。

本心、なのだろうか。いや、そんなはずはない。貴族は平気で嘘をつく。


「私もそのような貴族は消えるべきだと思っている。貴様はそれに協力してみる気はないか?貴様の意向に沿っていないと思ったら、再び私を攻撃してくるといい。」

「納得するわけ……。」

「嫌か?」

背筋が凍った。

最初から私は断れる立場ではなかったのだ。私との戦いは、全く本気ではなかった。片足を切り、爆発で吹き飛ばし、それでもこの男の魔力は微動だにしていない。


「私は別にいいのだ。貴様が断ろうとな。」

嘘だ。断ったら確実に殺される。そんな目をしている。


――いや。違った。


この男の目は、殺すとか殺さないとか、そういう次元にはなかった。ただ、どうでもいいと思っている。私が承諾しようが拒否しようが、この男にとっては本当にどちらでもいいのだ。


それが、一番怖い。

私がここで死んでしまったら、目的を達成することはできない。あの子のためにも、奴隷を踏みにじる貴族を消さなければならない。生きなければ。


「は、はい。かしこまりました。……ご主人様。」

「それでいい。」

高そうなコートをはためかせ、後ろを向く。無防備な背中までの距離が、あまりにも遠く見えた。


「エクストラヒール。」

切られた足も、火傷も、瞬く間に治っていく。あのメイドが唱えた回復魔法だった。


「ついてきてください。」

黒髪のメイドがそう言う。


「……はい。」

そうして私は再び、奴隷になった。


---


「今日からあなたは私と同じグルンレイドのメイドの一人です。」

ご主人様はグルンレイド領を治めている辺境伯らしい。身分としてはとりわけ高いわけではないのだが、あの魔力密度からしてただの辺境伯というわけでもないようだ。


「やることは山ほどありますが……まずはここの生活に慣れてもらうことが最優先ですね。」

黒髪のメイド――イザベラさんにそう言われ、屋敷の中を案内された。そしてある部屋の前で立ち止まる。


「ここが私と、あなたの部屋です。」

「あなたと一緒の部屋ですか⁉」

「……私の名はイザベラです。名前で呼んでください。」

「イ、イザベラさんと同じ部屋でいいのでしょうか……。」

メイドと奴隷では身分が違う。一緒の部屋で過ごすなど、考えられないことだった。しかしイザベラさんは「かまいません」と言いながら扉を開けた。


中を見て、息を呑んだ。

まるで貴族の部屋のようだった。


「……ご主人様の部屋でしょうか?」

「何度も言いますが、私とスカーレット、あなたの部屋です。」

メイドに与える部屋にしては立派すぎる。絨毯、カーテン、照明、その全てが一級品だった。奴隷小屋の檻とは比べ物にならない。


「こちらに着替えてください。」

渡されたのはメイド服だった。


「わ、私は奴隷です。」

「知ってます。」

メイドとは平民がやるものであって、奴隷がつける職ではないはずだ。しかしこれは命令。私は言われた通りにメイド服を着ようとするが、このような服を着たことがないので上手くできない。


「……仕方ないですね。」

イザベラさんが、私に服を着させてくれた。その手つきは丁寧で、奴隷に対するものとは思えなかった。


「あ、ありがとうございます。」

次に屋敷の全てを案内してもらった。辺境伯という身分にしては大きすぎる屋敷だったが、不思議と他に働いている人の姿がない。


「あの、イザベラさん以外のメイドは……。」

「いません。」

どういうことだろう。この広い屋敷はどこを見ても掃除が行き届いているし、庭の手入れだって完璧だ。


「掃除や洗濯はどうしているのですか?」

「全て私が行っています。」

信じられない。が、この人ならできそうな気がする。根拠はないが、そう思えてしまう。


「以上で案内は終わりです。何か聞きたいことは?」

「私はここで何をすればいいのでしょうか。」

「大きく分けて二つ、私の手伝いと、戦闘訓練です。」

「戦闘、訓練……。」

メイドは本来そのような役目はないと思うが、私がどうこう言える立場ではない。


「グルンレイドのメイドたるもの、常にご主人様を守らなければいけない立場にあります。あなたはもっと強くなれます。そしてご主人様を守る盾となりなさい。」

「は、はい。」

いいえ、とは言えなかった。すでに私はここの奴隷なのだ。貴族を粛清するはずの私が、貴族を守る盾になるなんて、とんだ笑い話だ。あの子に顔向けできない。


「勘違いしないでください。あなたは貴族を守るのではなく、ご主人様を守るのです。」

私の浮かない表情を見たのか、イザベラさんはそう言った。ご主人様は貴族だと思うのだが。


「……徐々にご主人様を知るといいでしょう。」

そう言って再び歩き出す。それについていくように、私も歩き始めた。


---


「お風呂に入ります。」

全ての説明が終わった時、イザベラさんがそう言った。


「お風呂……とは何ですか?」

「湯につかることです。」

湯につかることが何だというのだ。体を洗うのであれば、水をかけてこすればいいのではないだろうか。


「こちらへ。」

後ろについていくと、変な形の扉にたどり着いた。中に入ると、四角い箱がいくつも並んでいる。その中の一つ一つに籠が入っているようだった。


「服を脱いでください。」

そう言うとイザベラさんは服を脱ぎ始めた。


「な、何をしているのですか!」

別に一緒に水を浴びる必要なんてないのではないか。しかし命令には逆らえないので、素直に従って服を脱ぐ。あまり人に見せたい肌ではない。この白すぎる肌は、いつも気味悪がられてきた。


「白い綺麗な肌ですね。」

「綺麗……ですか。」

そう言われたのは、私が生きてきた中で初めてのことだった。私自身、蔑みの対象となっていたこの肌はあまり好きではなかった。それを綺麗だと言ってくれる人もいる。それを初めて知った。


「あ、ありがとう、ございます。」

奥の部屋に入ると、広い空間が広がっていた。四角く区切られた場所にはお湯が張られている。


椅子に座り、つまみを回すとお湯が出てくる。石鹸というもので体を洗い、シャンプーというもので髪を洗う。全てが初めての体験だった。

イザベラさんが後ろに回って、私の髪を洗ってくれた。人に体を触られるのはいつぶりだろうか。イザベラさんの手はとても優しく、気持ちよかった。


「先ほどの動きは完璧に覚えました。……やらせてください。」

「そ、そうですか。」

イザベラさんは少し驚いた顔をして、椅子に座った。私は同じように、優しく丁寧に髪を洗っていく。さらりと髪が指の間を抜けていく。とても綺麗な黒髪だった。


「……綺麗ですね。」

「ありがとうございます。」

初めて、この人が微笑んだのを見た気がした。


湯につかる。


「熱っ……。」

「最初だけですよ。」

思ったよりも温度が高かった。魔法で調整しようかと思ったが、イザベラさんはそうしていなかったので、私もそのまま入った。


「はぁ……。」

声が出てしまった。体の芯から温まるようなこの感覚は、初めて味わうものだった。私の中にあった氷が徐々に解けていくようだった。このまま私の体まで溶けてしまいそうになる。


「気持ちいいですか?」

「はい……。」

お湯の温もりが全身を包む中、イザベラさんが静かに口を開いた。


「あなたが貴族を憎む気持ちは私もわかります。」

「それはどういう……。」

「私も奴隷ですから。」

「そ、そうなんですか!」

イザベラさんが奴隷だった。しかし今のイザベラさんからは、奴隷の影など微塵も感じられない。立派な部屋があり、食事もしっかりと取ることができ、そしてこのようなお風呂まで自由に入ることができる。


「ご主人様は、そういう方なのです。」

これも全てご主人様の計らいなのだろうか。だとしたら、私の知っている貴族とは全く違う。


「私は、信じてもいいのでしょうか。」

ジラルド様は他の貴族と違うと、信じてもいいのだろうか。


「えぇ。」

その声は、本当にご主人様を想っているような、そんな優しい声だった。


「分かりました。……信じてみます。」

ということは、きっとご主人様が言っていたあの言葉も嘘ではないのだろう。


『私もそのような貴族は消えるべきだと思っている。』

この言葉も私は信じよう。そう思った。


お湯の中で、体の力が抜けていく。

あの子が生きていたら、このお風呂に入れてあげたかった。きっと「気持ちいいね」と笑ってくれただろう。片腕で、一生懸命私の傷を塞ごうとしてくれた、あの子に。


でも、もういない。だから私は、あの子の分まで生きる。そして、あの子のような人を二度と生まないために、強くなる。


このグルンレイドで。

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