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極悪辺境伯の華麗なるメイド  作者: かしわしろ
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過去編:イザベラ

ーーイザベラーー

私が初めてご主人様とお会いしたのは、私が百歳の時だ。


百歳。人間であればとうに寿命を迎えている年齢だが、私の見た目は二十五歳の頃から変わっていない。二十五歳までは普通の人間と同じように成長した。身長が伸び、体つきが変わり、顔立ちが大人のそれになっていった。しかし二十五を過ぎたある日、鏡に映る自分が昨日と全く変わっていないことに気づいた。それからずっと、私はこの姿のままだ。


悪魔と人間のハーフ。

それが私の種族だ。


悪魔という存在は、魔族や魔物とは根本的に異なる。魔界に住む獣人やオーク、スライムといった魔物たち。その中でも特に強い存在が魔族と呼ばれ、魔物たちから畏怖と尊敬を集めている。しかし悪魔は、その魔族たちすら遥かに凌駕する存在だ。全ての魔族が一斉に戦いを挑んでも、一人の悪魔を倒せるかどうかという力量差がある。


悪魔は普段、この世界とは別の次元に住んでいる。対になる存在は天使。天使が聖なるものの頂点に立つように、悪魔は闇の頂点に立つ。魔族の対が聖族であるように、悪魔の対が天使。しかし天使も悪魔も、滅多にこの世界には現れない。気まぐれに人間界にやってくることはあるが、それは極めて稀なことだ。


ちなみに、聖族が神とあがめているのは天使の1人だ。唯一神の力は天使と悪魔を凌駕する。


私の母は人間だった。そして父が悪魔だった。

父のことも母のことも、私は何も知らない。母は私を生んですぐに亡くなった。悪魔の血を宿した子を産むということは、人間の体には耐えきれない負担だったのだろう。


私は生まれた瞬間から、どこにも居場所がなかった。


悪魔たちからは差別の対象だった。純血ではない、人間の血が混じった穢れた存在。別の次元からわざわざやってきた悪魔に見つかるたび、蔑みの言葉を投げかけられた。「人間に堕ちた血」と。


そして、人間たちからは恐れられた。幼い頃から魔力が常人とは桁違いに高く、近くにいるだけで一般の人間は魔力酔いを起こしてしまうため、人間社会においては忌避の対象だった。化け物、呪われた子、災いの種。そう呼ばれて、どの村からも追い出された。


だから百年間、私は彷徨い続けた。

人間界のあらゆる場所を歩いた。王国の辺境を、大森林の奥を、砂漠の果てを、雪に閉ざされた山脈を。どこに行っても同じだった。人の目に映る私は、いつも「恐怖」でしかなかった。


悪魔の力を持ちながら、悪魔に受け入れられない。人間の姿をしながら、人間に受け入れられない。百年という時間は、孤独というものの重さを骨の髄まで教えてくれた。


やがて、奴隷商に捕まった。

捕まったというよりも、もう抵抗する気力がなかったというのが正確だろう。魔力を使えば奴隷商の人間など一瞬で蹴散らすことができた。しかし、そうする理由が見つからなかった。逃げたところで行く場所はない。戦ったところで得るものはない。


魔力密度が高かったからか、貴族奴隷として売りに出された。見た目が若く美しいということで、値段はそれなりについたらしい。何人かの貴族が私を見に来たが、私の魔力の異常さを感じ取るなり、全員が顔色を変えて帰っていった。


当然だ。普通の人間に私を飼いならせるはずがない。


---


その日も、いつもと同じように檻の中にいた。


奴隷商の建物は薄暗く、空気が悪い。周囲の檻には他の奴隷たちが入っているが、私の檻だけは離れた場所に置かれていた。私のそばにいると体調を崩す人間が続出したからだ。


足音が聞こえた。


奴隷商の支配人と、もう一人。


檻の前に立ったのは、まだ幼い顔立ちの少年だった。十四歳だと後から知った。しかしそのあどけない容姿に反して、瞳には老練な知性と、底知れない力が宿っていた。


少年は私を見た。


私も少年を見た。


私の魔力を感じ取っているはずだ。普通の人間であれば、この距離でこれだけの魔力にさらされれば、意識を保つことすらできないだろう。しかし少年の表情は微動だにしなかった。むしろ、興味深げに目を細めている。


「喜べ、お前を最初のメイドにしてやる。」

それが、ご主人様から私に投げかけられた最初の言葉だった。


喜べ、と言われたが、私は喜び方を知らなかった。百年間、喜ぶべきことなど一つもなかったからだ。しかしその言葉の中に、何かがあった。命令でも、同情でも、恐怖でもない、何か。


この少年は、私を恐れていない。

その事実だけが、百年の孤独の中で初めて、胸に灯った小さな光だった。


---


グルンレイドの屋敷に連れてこられた。


屋敷は広大だった。しかしおかしなことに、使用人は一人もいなかった。さらには、私を購入した人間の家族ですらも。広い廊下を歩いても、誰ともすれ違わない。厨房に人の気配はなく、客間には誰も座っていない。埃が積もっているわけではないが、生活の温度というものが感じられない。


私が最初の、そしてその時点では唯一のメイドだった。


最初は、この人間に従う気など微塵もなかった。給仕をするつもりもなければ、命令を聞くつもりもない。奴隷契約はされているが、私は悪魔の血を引いている。人間の魔法程度で縛れるような存在ではない。少なくとも、そう思っていた。


しかし、すぐにこの人間の異常さを身に染みて知ることになる。


「名はないのだったな。……今日からお前の名はイザベラだ。」

「……。」

私は無言でその人間を見た。

まるで恐れのない顔だった。私の魔力を間近で浴びているはずなのに、この少年の表情は揺るぎもしない。奴隷商の時もそうだった。他の貴族たちが私の魔力を感じ取って顔色を変えて逃げ帰ったのに、この少年だけは平然としていた。


「なぜ恐れぬ。人間。」

「口の利き方がなっておらんな。」

「人間ごとき、敬う必要などない。」

主人の命令に背いた。奴隷契約の効力が発動し、魔法による負荷が体にかかる。内臓を締め上げるような苦痛。普通の人間であれば立っていられないほどの苦しみだろう。しかし私にとって、この程度はないに等しい。


「ふむ。魔族か。」

「……魔族ごときとも一緒にするな。」

「ほう。」

人間の目が、鋭く光った。

こやつ、今の会話だけで私が悪魔だということに気づいたのか。魔族という推測を否定し、魔族よりも上位の存在であると匂わせただけで。たった二言の応酬で、そこまで読み取る人間がいるとは。


「悪魔にしては、姿がおかしいな。」

「……悪魔と人間の、ハーフだから。」

素晴らしい。人間がそう呟いた気がした。聞き間違いかもしれない。しかし確かに、口元がわずかに動いた。


「良い買い物をした。こい、イザベラ。」

「だから、人間ごときに……っ。」

体が動いた。私の意思とは裏腹に、私の足が人間の後を追って歩き出す。どうなっている。

奴隷契約の強制力は先ほど無視できたはずだ。あの程度の負荷で私を動かせるわけがない。しかし今、私の体は完全に制御されている。足だけではない。腕も、首も、視線すらも。まるで糸のない操り人形のように、この人間の魔力に全身を掌握されていた。


私は悪魔の血が流れている。純粋な悪魔にとっては弱い存在かもしれないが、魔族にとっては遥か高みにいる存在だ。ましてや人間が、私に魔法で勝てるはずなど――。理解が追いつかないまま、私は屋敷の外まで連れ出された。

広い庭だった。手入れがされていない芝生が風に揺れている。その中央で、少年は立ち止まった。


「かかってこい。」

「……。」

体の操作が解かれ、自由を取り戻す。

なんとも傲慢な人間だ。悪魔と知ってこの対応。私が本気を出せば、この屋敷ごと消し飛ばすことだってできる。命知らずにもほどがある。


「……後悔するぞ、人間。」

私は魔力を解放した。

周囲の空気が歪み、足元の芝生が黒く焦げていく。悪魔の血がもたらす魔力密度。百年間、抑え続けてきた力の一端だ。


拳を握り、地面を蹴った。しかし、最初の一撃は、空を切った。私が全速力で放った拳が、何もない空間を叩いた。目の前にいたはずの人間が、いない。


「遅い。」

背後から声がした。

振り返る。しかしそこにもいない。


「上だ。」

見上げると、少年が空中に浮かんでいた。浮遊魔法。しかしその展開速度は、私が知っているどの魔法使いとも比較にならない。


「ファイアーアロー。」

短く呟かれた魔法名とともに、炎の矢が降り注ぐ。

私は魔力障壁を展開した。悪魔の血がもたらす高密度の障壁。これを突破できる人間など存在しないはずだ。炎が障壁に衝突する。


割れた。


「なっ……!」

障壁が、一瞬で砕けた。炎が私の肩をかすめ、後方の木を吹き飛ばす。熱い。肌が焼ける痛み。百年間、人間の魔法で傷を負ったことなど一度もなかったのに。


「まだだ。」

次の瞬間、少年は私の目の前にいた。いつの間に降りてきた。距離を詰める速度が、常軌を逸している。


「バニッシュルーム。」

私の周囲の魔力が、一瞬にして拡散された。体内から魔力が吸い出されるような感覚。魔力障壁を再展開しようとするが、魔力が掴めない。拡散魔法。私の魔力を強制的に拡散させている。

こんなことが人間にできるのか。


「グラビトン。」

体が地面に叩きつけられた。重力魔法。しかしこれも並の威力ではない。私の体ですら持ち上げることができないほどの重力が、全身にのしかかる。

顔を上げようとする。しかし首すら動かない。石畳にめり込むように体が押しつけられ、呼吸すらままならない。


「タイムストップ。」

時間が止まった。正確には、私の体を流れる時間が止まったのだ。意識はある。しかし体が完全に停止している。指一本動かせない。魔力を練ることもできない。

20歳にも満たないであろう少年が、私を完全に封じ込めた。

悪魔の血を引く私を。百年の歳月を生きた私を。魔族ですら手の届かない領域にいるはずの私を。


たった数手で。


時間が解除された。

気づくと、少年は元の場所に立っていた。庭の中央。先ほどと全く同じ位置だ。まるで動いていなかったかのように。


私は地面に膝をついたまま、荒い息をしていた。体中が痛い。しかしそれ以上に、心が痛い。百年間で積み上げてきた自負が、今の一瞬で粉々に砕かれた。


「立て。」

「……。」

「立て、イザベラ。」

名前で呼ばれた。先ほどつけられたばかりの名前。しかしその声の中に、侮蔑はなかった。見下しもなかった。ただ、立てと命じている。

私は歯を食いしばりながら、立ち上がった。足が震えている。悪魔の血を引く体が震えるなど、百年の人生で初めてのことだった。


「お前は強い。だが、まだ足りない。」

「……足りない、だと。」

「私の目指す場所は、遥か先にある。お前がついてくるというのなら、もっと強くなれ。」

「私は……お前に仕えると言った覚えはない。」

「そうか。ならば出ていけばいい。門はむこうだ。」

少年は屋敷の門の方を指さした。出ていけばいい。その言葉に嘘はなかった。この少年は、私を無理やり引き留めようとはしていない。奴隷契約があるにもかかわらず、出て行く自由を与えている。


出ていけばいい。

しかし私は動けなかった。


門の先に何がある。また百年、彷徨うのか。誰にも必要とされず、誰にも受け入れられず、名前を呼んでくれる者もいない日々に戻るのか。


この少年は私を恐れなかった。それだけではない。私を打ち負かした。そして今、私に選択肢を与えている。出ていくか、残るか。


「……お前は、何を目指している。」

私は問うた。立ち去る前に、一つだけ知りたかった。この人間がどんな目的を持っているのか。それを聞いてから決めても遅くはない。


「この世界の外に、別の世界がある。」

少年は空を見上げた。


「私はそこに辿り着きたいのだ。」

「別の、世界……。」

「この世界だけではない。はるか遠くに、全く異なる法則で動く世界がいくつも存在している。私は、その世界と世界をつなげることを考えている。」

世界をつなげる。途方もない話だった。そんなことが可能なのかどうかすらわからない。しかし少年の声には、夢物語を語る者の軽さはなかった。確信があった。いずれ必ず成し遂げるという、揺るぎない意志。


「その過程で、多くの力が必要になる。強い者が必要なのだ。」

「だから……私を。」

「お前を拾った理由は、お前の中に光る原石を見たからだ。悪魔だろうが人間だろうが関係ない。私が見ているのは、その存在の持つ可能性だけだ。」

悪魔だろうが人間だろうが、関係ない。

その言葉が、胸の奥に刺さった。百年間、私はずっと「悪魔の血」によって定義されてきた。悪魔からは人間の血が混じっていると蔑まれ、人間からは悪魔の血が流れていると恐れられた。私という存在はいつも、血によって判断されてきた。


しかしこの少年は、血など見ていない。見ているのは「可能性」だけだ。


「今のお前は未完成だ。だが磨けば光る。私のそばで強くなれ。」

少年はそれだけ言って、屋敷の中へ歩き始めた。


私は、その背中を見ていた。


小さな背中だった。まだ成長途中の細い背中。しかしその背中には、この世界に収まりきらないほどの大きな何かが背負われている。


「……待て。」

少年が足を止めた。振り返らない。


「……待って、ください。」

自分でも驚いた。

口をついて出たのは、敬語だった。百年の人生で、誰に対しても使ったことのない言葉遣い。人間にも、悪魔にも、魔族にも。誰に対しても対等か、あるいは見下す言葉しか使ってこなかった。


それが今、自然と変わっていた。


「私を……ここに置いてください。」

少年がゆっくりと振り返った。その表情は、変わらなかった。驚きもしなければ、喜びもしない。ただこうなることを最初から知っていたかのように、静かに頷いた。


「当然だ。お前は私のメイドなのだから。」

「……はい。」

はい。その一言が、百年間の孤独に終わりを告げた。


ーー


ご主人様は本を読んでいた。


来る日も来る日も、本を読んでいた。私やご主人様の背丈よりも高く積み上げられた本の山。それを黙々と読み進めているご主人様の姿は、その幼い容姿と相まって、とても不思議な空間を作り出していた。


「何を見ている。」

「い、いえ、何でもありません。」

見入ってしまっていた。次々に左から右へと本が積まれていく。読む速度が尋常ではない。一冊を読み終えるのに、普通の人間であれば何日もかかるような厚さの本を、ご主人様はものの数十分で読み終えてしまう。


「魔法の家庭教師などはいらっしゃらないのですか?」

「少し前まではいたのだが、もう学ぶことがなくなった。」

「そ、そうですか。」

十四歳の少年が、魔法の家庭教師から学ぶことがなくなったと言っている。普通であれば傲慢な発言に聞こえるだろう。しかしご主人様の常軌を逸した魔力密度から繰り出される魔法は、強く、そして美しかった。読んだ本の内容を庭で試し、新しい魔法を構築し、それを修正し、また本に戻る。


その繰り返しを、毎日。

それでもなお成長しているのだから、恐ろしいとさえ思えてくる。しかし本の量と試行錯誤の回数を見ればわかるが、この強さは才能だけのものではない。才能の上に、途方もない努力が積み重ねられている。


私がこのグルンレイドの屋敷に来てから約半年という月日が経ったが、ご主人様は本を読み、庭で魔法を試すということだけを繰り返していた。領地のことも、政治のことも、一切手をつけていない。


ご主人様のお父様は、私がやってくる数日前に亡くなったらしい。お母様はそのもっと前からいないと聞いた。ご主人様は成人ではないので、普通は親族がある程度の期間領地の運営を手伝うものだが、ご主人様はそれを全て断り、自分で行うと言い出したのだという。


しかし実際には、ご主人様はまだ何も領地の運営を行っていなかった。

このままでは王国でのグルンレイドの立場が脅かされていくのではないか。私は無知ながらもそう危惧していた。しかし口に出すことはなかった。ご主人様に意見を述べるほどの知識も立場も、私にはない。


---


ある時、ご主人様は領地改革に手をつけ始めた。


なぜ今なのかは私も知るところではないが、しかしご主人様のことだ、何かしらの考えがあるに違いない。おそらく、半年間本を読み続けていたのは、この改革のための知識を蓄えるためだったのだろう。


グルンレイド領は広大な土地を保有している。しかしそのほとんどが森であり、その広さに対して領民の数は数千人とかなり少ない。決して悪くはない土地だが、それを開拓する人がいなければ何の意味もないのは、私でもわかる。


ご主人様は、私の想像を超える方法で改革を行った。

まず土壌改革。今まで集落という形で点在していた村を、グルンレイドの屋敷の周りに集中させた。といっても村そのものを移動させたわけではない。その村に長年住んでいる者はそのままに、外に出て働きたいという若者を中心に呼び寄せたのだ。そして魔法によって屋敷周辺の平野を整備し、新たな家を建てていった。山の麓を畑に変え、若者たちに知識を与え、仕事を与えた。


次にメイドの雇用。ご主人様は奴隷商によく顔を出すようになり、そこで奴隷を購入することが多くなった。また、戦争地帯に赴き、その中から見込みのある者を連れて来ることもあった。そのメイドたちに魔法を教える。もともと、ご主人様のそばで毎日魔法を見ていた私は、高度な魔法もかなりの速度で身につけることができていた。それを新しいメイドたちにも教えていく。


そして異世界の知識の活用。異世界人を招き入れ、その知識を利用してこの世界にはないものを生み出した。石鹸もその一つだ。汚れを落とし肌を滑らかにする効果があると王国にまで噂が広がり、多くの女性から注文が殺到した。異世界の料理もまた、この世界の食材に変わった加工を施すことで、次々と新しい味覚を生み出していった。


異世界の知識を取り入れて作られた品々は、瞬く間に周辺国家へ広まり、莫大な資金がグルンレイド領へと流れ込んできた。

全ては、ご主人様がお一人でお考えになられたこと。


この頃から私は変わった。ただ命令に従うだけの存在ではなく、ご主人様の力になれるように、常に考えながら行動するようになった。百年間の彷徨いの中で凍りついていた何かが、少しずつ溶けていくのを感じていた。


---


「イザベラ、今日からお前をメイド長に任命する。」

ご主人様が十六歳、すなわち成人になった日にそう言われた。


「かしこまりました。」

私はすました顔でそう答えた。しかし内心では、叫びたいほど喜んでいた。

ここ数年、ご主人様がメイドたちに魔法を教えている姿を見て、どのようなものを目指しておられるのか、大体の予想はついていた。一般的にメイドとは、奉仕するために存在する。しかしご主人様が伝えたかった本当の意味は、そうではない。


「メイドでありながら、力でも他を圧倒する最強の存在になれ。」

ご主人様は口にこそしなかったが、メイドたちに要求している魔法の水準を見れば、その意図は明白だった。魔法を使ったことすらないメイドにも、かなり高度な魔法操作を要求していた。それは「強くなれ」という無言の命令だ。

私もそれに倣い、最強のメイドを目指すことにする。


「私がどのように教えていたか見ていたな?」

「もちろんでございます。」

私の覚悟が伝わったのか、ご主人様は満足そうな表情をした。このように思いが完璧に伝わるということは、なんと素晴らしいことなのだろうか。私も嬉しさのあまり、胸が熱くなるのを感じた。

ご主人様の膨大な魔法知識を吸収し、他のメイドたちに伝えていく。そしてさらに、私は以前ご主人様がおっしゃっていたある言葉を忘れてはいなかった。


---


『剣か……美しいな。』

ご主人様と数人のメイドで王国の骨董品店を見回っていた時のことだ。一振りの剣を前にして、ご主人様がそのように呟いた。もちろんこれをそのままの意味として受け取るのはメイド失格だ。

この言葉の真意は、魔法だけでなく剣術も使えるようになれ、ということに他ならない。おそらく他のメイドたちは気づかなかっただろう。しかし長年そばに付き添っていた私にとっては、瞬時に理解できた。


私はすぐに剣術の訓練を始め、そしてメイドたちにもそれを課した。魔法と剣術を融合させた戦闘技術。後にこれはご主人様によって体系化され、「華流」と名付けられることになる。動きが上品で美しいのが特徴の、グルンレイド独自の流派だ。


「まさかそのような意図が隠されているとは……。」

「私もまだまだですね。」

「さすがメイド長です。」

メイドたちの間で、ご主人様の言葉の意味を読み解く力が少しずつ育っていった。この子たちはまだご主人様の言葉の全てを理解することはできないが、徐々にわかりつつあるのは良いことだと思う。


---


次に私は、一人前のメイドになった証として、ご主人様が最も好まれているバラの花が描かれたバッジを渡すことを提案した。これはグルンレイドのメイドとして、作法、教養、そして強さが一定以上あるという証になる。


「それはいいが、物足りんな。この際、そのバッジを受け取った者にはローズという姓をやるというのはどうだ。」

「それは素晴らしい考えですね!」

生まれた時から奴隷という子も少なくなかった。名前はあっても姓がない者もいた。姓が与えられるということは、そのような子たちにとってどれほど喜ばしいことだろう。


「イザベラ、お前は他の『ローズ』とは力の差がありすぎるのではないか?」

「他のメイドたちも力をつけてきています……がそうですね。まだ、私の力の方が強い場合が多いかと。」

「それでは、そのバッジを持つ者の中で私が認めた者だけが名乗ることを許す、この姓を授けよう。」


マリー・ローズ。


「今日からお前は、イザベラ・マリー・ローズだ。」

「は、はい!」

急なことで変な声が出てしまった。百年生きてきて、こんなにも情けない声を出したのは初めてだった。


「そしてお前は私の一番のメイドだ。これを受け取るといい。」

マリー・ローズを証明する、金色のバッジが手渡された。そこにはご主人様の魔法が付与されていた。触れた瞬間、ご主人様の魔力が指先から伝わってきた。あの温かくて、強くて、美しい魔力。それが小さなバッジの中に、永遠に閉じ込められている。


「他に私が認めた者にはこのバッジを渡すが、魔法の付与はない。」

そう言って、ご主人様はどこかへ消えていった。


一番のメイド。

ご主人様がそのようなことを口にされ、私は胸の内側がじんわりと温かくなっていくのを感じた。


百年間、彷徨い続けた。悪魔からは蔑まれ、人間からは恐れられた。どこにも居場所がなかった。名前はあったが、呼んでくれる者はいなかった。それが今、姓を与えられた。


イザベラ・マリー・ローズ。

グルンレイドのメイド長。ご主人様の一番のメイド。私は嬉しさのあまり涙が出そうになるが、ぐっと堪え、ゆっくりと頭を下げた。ご主人様の背中は、もう廊下の先に消えていた。それでも私は、しばらくそこから動くことができなかった。


金色のバッジを握りしめる手が、かすかに震えていた。


ーー


ーージラルドーー


「喜べ、お前を最初のメイドにしてやる。」

そう言って私が初めて奴隷を購入したのは、確か十四の頃だったと思う。

今まで何度か奴隷商には足を踏み入れてきていたが、どの奴隷も私の目には留まらなかった。才能の原石が見つからなかったのだ。しかしその日、貴族奴隷の区画に一人の女がいた。

この世界では少し珍しい、黒い髪。短く切り揃えられてはいたが、その質は上等だった。しかし私が目を留めたのは容姿ではない。


魔力密度だ。

私に勝るとも劣らない魔力密度を、この女は持っていた。このような奴隷をたった聖金貨三枚程度で売るなど、どうかしている。


その奴隷は、名がなかったので私がつけた。


「名はないのだったな。……今日からお前の名はイザベラだ。」

こちらを睨んでくる目つきこそ鋭いものの、その佇まいや仕草にはどこか品があった。元貴族なのだろうと、その時は思った。


「なぜ恐れぬ。人間。」

「口の利き方がなっておらんな。」

「人間ごとき、敬う必要などない。」

なかなかの態度だ。奴隷契約による負荷をかけてみたが、全く効いている様子がない。普通の人間であれば倒れているはずだが、眉一つ動かさない。


「ふむ。魔族か。」

「……魔族ごときとも一緒にするな。」

「ほう。」

魔族ではない。魔族よりも上位の存在。となると、選択肢は限られる。


「悪魔にしては、姿がおかしいな。」

「……悪魔と人間の、ハーフだから。」

素晴らしい。悪魔と人間のハーフ。この世界においてこれほど珍しい存在もいまい。悪魔の魔力密度と人間の適応力を兼ね備えた存在。磨けばどこまで伸びるか、想像もつかない。


「良い買い物をした。こい、イザベラ。」

「だから、人間ごときの……っ。」

私の魔法でイザベラの体を操り、外へ連れ出す。悪魔の血を引いているため魔力密度は非常に高い。しかし、魔法とは制御だ。ただ密度が高ければ勝つというわけではない。私はイザベラの魔力を縫うように、体内へと魔力を送り込み、肉体を動かす足の筋力のみを支配する。


「かかってこい。」

実力を測る必要がある。原石の質を見極めるには、実際に戦わせるのが一番早い。イザベラは魔力を解放した。なかなかの密度だ。周囲の芝生が焦げている。が、私の障壁には届かない。


結果、数手で制圧した。

ファイアーアローで障壁を割り、バニッシュルームで魔力を拡散させ、グラビトンで地面に押し付け、タイムストップで完全に封じる。

予想通りだ。強いが、まだ未完成。力の使い方を知らない。魔力密度は申し分ないが、技術が追いついていない。


「お前は強い。だが、まだ足りない。」

これは事実だ。今のままでは私の役には立たない。しかし伸びしろは十分にある。


「私の目指す場所は、遥か先にある。お前がついてくるというのなら、もっと強くなれ。」

イザベラは少し考えた後、私に敬語を使い始めた。


「……待って、ください。私を……ここに置いてください。」

「当然だ。お前は私のメイドなのだから。」

別に特別なことを言ったつもりはない。購入した以上、私のメイドなのだ。それだけの話だ。


---


反抗はしなくなった。

ただ無機質に、淡々と私が命令することだけをこなす存在として、イザベラは私の隣にいた。それで十分だった。メイドとは、そういうものだ。


しかし、ある時を境にイザベラは変わった。


「何を見ている。」

「い、いえ、何でもありません。」

本を読んでいる私をじっと見つめてくる。買った当初はボサボサだった髪も、今は短く整えられていた。

メイドは常にそばにいるものだが、常に主人を見続ける必要はないはずだ。そう思いながら本を読み進めていく。本は嫌いではない。私は天才だが、私以外にも天才はいる。それを認識させてくれる素晴らしいものだ。私のそばにいるイザベラも例外ではない。こいつはまぎれもなく才能に溢れている。


「魔法の家庭教師などはいらっしゃらないのですか?」

「少し前まではいたのだが、もう学ぶことがなくなった。」

「そ、そうですか。」

イザベラは私がその教師から習った魔法の練習をしていると、それを「見るだけ」で完璧に覚えていた。そしてその威力も申し分ない。


……メイドごときに劣ってしまっては、主人として示しがつかん。私は努力を怠ることなく、魔法の練習に励んだ。イザベラがいなければ、私の成長速度はもう少し緩やかだったかもしれない。良い刺激になっている。


---


半年という年月が経つと、私が正式に領主となる必要が出てきた。

今までは領主不在であっても、なあなあに対処してきたが、だんだんとそうはいかなくなったらしい。イザベラを補佐につけ、私が領主になった。


「奴隷が領主補佐という役職に立つのは前代未聞だ。」

そのような声も聞こえたが、そんなことは気にしない。才あるものがそこにいるべきだと、そう考えた。

領主になるにあたって、領地改革は避けては通れない。様々なことを行ったが、その中で最も力を入れたのは「異世界の知識の取得」だ。


ごくまれに、この世界の知識では測れないような考えを持った者が現れる。それは異世界人と呼ばれていた。ほぼ全ての異世界人は強力なスキルを持っていて、普通は数十年の修行をして得られるような回復魔法や剣技などを軽々と使用できることが多い。が、私にとっては力において脅威にはなりえない。


ただ、その独創的な思考回路が私の興味を引いた。会話のできる異世界人を何人か保護し、この領地に置いている。領民には共に異世界人と過ごす中で、さまざまな考え方を吸収させるという目的もあった。石鹸だの、ドレッシングだの、異世界の知識から生まれた品々は思いのほか売れた。資金は潤沢になり、領地の発展は順調に進んだ。


---


「イザベラ、今日からお前をメイド長に任命する。」

ある程度領主としての仕事に慣れてきたので、イザベラの補佐の必要はなくなった。


「かしこまりました。」

しかしイザベラほどの才あるものを、普通のメイドと同等に扱うのはもったいない。そこでメイド長として、後続のメイドたちを教育してもらうことにした。


今まで私がメイドに魔法を教えている姿を見て、大体のことは覚えているだろう。私が特に意識していたことは、簡単な魔法を優しく教えるということだ。そのおかげもあってか、メイドたちは魔法の上達速度が早い。もともと才能あるものを拾ってきたというのもあるかもしれないが。


まあ、メイドの本分は奉仕することだ。そこまでの強さは必要ないと思うが、グルンレイド領のメイドとして、ちょっとした魔法くらいは使えるようになってほしい。


「私がどのように教えていたか見ていたな?」

「もちろんでございます。」

しっかりと私の目を見て返事をする。ふむ、さすがはイザベラだ。この様子だと私の言わんとすることを全て理解しているようだ。きっと無理をさせることなく、私よりも優しく教えてくれるのだろう。


---


「剣か……美しいな。」

最近、私は剣に興味を持ち始めた。

私は剣術に関しては人並み程度しかないので、剣にはそこまで興味がなかった。しかしいざ最高級の剣を目の前にすると、美しいという気持ちが先に来るのだ。

王国の骨董品店で見つけたその剣は、実に見事な出来だった。刀身の表面に刻まれた紋様、柄に巻かれた革の質感、鍔のデザイン。実用品としてだけでなく、芸術品としての価値がある。


この剣を使用するわけではないが、聖金貨十枚で買ってしまった。まあ、飾っておくだけでも素晴らしい出来だ。剣の気持ちを考えると、使用されないというのは悲しいことなのかもしれないが。

……しばらくして、イザベラがメイドたちに剣術の訓練を始めたらしいと報告を受けた。さらにはそれを体系化して「華流」などという名前まで付けたそうだ。


別に私は剣を使えとは言っていないのだが……まあ、メイドが強くなること自体は悪いことではない。放っておこう。


「まさかそのような意図が隠されているとは……。」

「私もまだまだですね。」

「さすがメイド長です。」

メイドたちの間で何やらそんな会話が交わされているのが聞こえた。何のことかよくわからなかったが、イザベラが何か意図を読み取ったらしい。


いつもそうだ。イザベラは私の何気ない一言から、壮大な意味を読み取ろうとする。

……たいていの場合、そこまで深い意味はないのだが、結果的にメイドたちが強くなっているので問題はない。ある意味、イザベラの解釈力は私の想像を超えている。私が意図していない方向にまで成長していくのだから、大したものだ。


---


「ご主人様、一定以上の実力があるものにバッジを渡すのはどうでしょうか。」

イザベラがそう提案してきた。確かにこの屋敷にメイドの人数も増えてきた。ということは実力に差も出てきやすくなるということだ。まあこれは仕方ない。向き不向きは誰にでもある。


「それはいいが、物足りんな。この際そのバッジを受け取ったものにはローズという姓をやるというのはどうだ。」

基本的に姓を名乗れるのは貴族と平民のみだ。奴隷が姓を名乗れるようになるには、貴族のもとへ嫁ぐか、偉大な功績を残して王から姓をもらうか。奴隷である以上、どちらも現実にはありえない話だ。


貴族が奴隷に姓を与えることは本来できるものではない。が、別にこの屋敷の中くらいは自由にさせてもらおう。奴隷であるものも多い。姓を名乗ることにあこがれもあるだろう。外で姓を名乗りさえしなければどうってことない。


「それは素晴らしい考えですね!」

イザベラもそれはわかっているだろう。そのまっすぐな瞳は、全て理解していることを示しているようだ。


「イザベラ、お前は他の『ローズ』とは力の差がありすぎるのではないか?」

一定以上の実力がある者に姓を授けるといっても、イザベラを基準にしてしまうと姓を与えられるものはごく数人になってしまう。


「ほかのメイドたちも力をつけてきています……がそうですね。まだ、私の力のほうが強い場合が多いかと。」

よって少し基準を下げ、イザベラクラスの実力者にはさらに上の位を授けよう。


「それでは、そのバッジを持つ者の中で私が認めた者だけが名乗ることを許す、この姓を授けよう。今日からお前は、イザベラ・マリー・ローズだ。」

「は、はい!」

珍しく変な声を出した。普段は何があっても冷静なイザベラが、声を裏返らせている。


「そしてお前は私の一番のメイドだ。これを受け取るといい。」

マリー・ローズを証明する金色のバッジを渡す。


「ほかに私が認めた者にはこのバッジを渡すが、魔法の付与はない。」

魔法の付与といっても、大したものではない。身体を強化したり魔法の威力を上げたりするものではなく、単にバッジが少し光るというくらいのものだ。そんなにたいそうな付与ではなかったが、思いのほか喜んでいたのでそれはそれでよかった。


そう思いながら部屋を出る。

……チラッと後ろを見ると、イザベラは頭を下げたまま動いていなかった。バッジを握りしめる手が、少し震えている気がする。


まあ、初めて姓を与えられたのだ。嬉しいのだろう。私は特に声をかけることなく、そのまま廊下を歩いていった。



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