天界10
「マーク!ヴィオラ!」
私は叫んだ。
ヴィオラに手を引かれて飛んでいたマークが、急に止まった。そして後をついてきたカルメラとハーヴェストも、まるで糸の切れた人形のように空中で静止してしまった。
時間が、止まった?
いや、ただの時間停止ではない。マークもメイドたちも、普通の時間停止程度では動きを止めないはずだ。マークは勇者の力を持ち、メイドたちはグルンレイドのローズだ。並大抵の時空間魔法では、彼女たちの動きは封じられない。
それなのに、全員が完全に静止している。
空気も止まっていた。風がない。雲すら動かない。落ちかけていた羽根が、空中で凍りついたように浮いている。
世界そのものが、停止している。
真の時間停止空間。
聞いたことがある。魔力や聖力といったエネルギー体すら活動できなくなる、絶対的な静止の領域。理論上は可能だが、神でも実現できないとされていた。それが今、天界全域を覆っている。
こんなことができる存在は、この世界にただ一人しかいない。
……しかし、なぜ私は動けるのだろう。
答えはすぐに出た。私は霊族だ。肉体を持たない。私の存在は、魂そのもので構成されている。だから真の時間停止空間の影響を受けない。
ただ、そんなことを考えている暇はない。
「……進まないと。」
マークは、この聖力の線をたどっていた。
止まったマークの指先から、微かな聖力の残光が続いている。先ほど神殿の方角へ飛ばした道標のような聖力。これをたどれば、コトアルのもとに辿り着けるかもしれない。
私は凍りついた世界の中を、一人で飛び始めた。
少し進むと、立派な建物が見えてきた。
これが……神殿。
私は天界の門を守護しているが、天界の内部に入ったことは数回しかなく、神殿を見たのはこれが初めてだった。白亜の列柱が何十本も並び、巨大なドームが天を衝くように聳え立っている。その全体から溢れ出す聖力は凄まじいものだったが、今はそれすらも凍りついていた。
聖力の線は、神殿の中へと続いている。しかし途中から上へと向かっていた。
「聖力は……上へ?」
私は神殿の外壁に沿って浮遊していく。霊族は魔法や聖法を使わずとも、浮遊することが可能だ。この能力だけは、今の状況では誰よりも役に立つ。
いくつもの雲を抜けて、はるか上空まで登っていく。神殿の最上階は、天界の最も高い場所にあった。雲海の遥か上、澄み切った蒼穹に手が届きそうな場所。
そして、雲を抜けた。
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全てが止まった時の中で、ただ一人。
コトアルに触れている方がいた。
「ご主人様!」
私の声に、その方はゆっくりと顔を上げた。
ジラルド・マークレイブ・フォン・グルンレイド。
時の止まった世界の中で、この方だけが動いている。いや、この方が世界を止めているのだ。この方を中心として、全てが静止している。
「ミクトラか。」
「は、はい!」
見るも無惨なコトアルの体に触れながら、ご主人様は私の方を向いた。
コトアルの体は、先ほど霊界で見た時の通りだった。腹部がえぐられ、左足は潰され、回路が露出している。あの美しい古代合金の体が、こんな姿にされて。
しかしご主人様の手は、そのぼろぼろの体の上に、静かに置かれていた。
「お前が来たということは、コトアルの魂は霊界か。」
「そうです。」
私が何かを説明するまでもなく、ご主人様は全てを見通しているようだった。私がここに来た意味も、コトアルの現状も、全て理解しているのだろう。
「コトアルの魂は、マークの聖力によって形成されました。」
「ほう。」
ご主人様は少し驚いたような表情を見せた。しかしその驚きは、私のためにわざと見せてくれたものだろう。この方は、おそらくマークが聖力をコトアルに与えたことすら察していたのではないか。
それでも驚いてくれる。私の言葉に意味を持たせてくれる。なんと優しい方なのだ。
「勇者は力なきものに力を与える存在。それは力だったり、希望だったり。それはどれも『生きる力』となって人々を支えるものです。」
私は言葉を選びながら、続けた。
「その力が魂へと変化していった可能性が高いです。……ご主人様、コトアルの体を直せば、生き返るかもしれません。肉体さえあれば、魂は私がここまで連れてきます。」
「そうか。」
「ですが、コトアルは太古の存在……その技術は……。」
とうの昔に消え去ってしまっている。古代合金の精製法も、マシニング族の回路設計も、この時代には跡形もなく失われている。現状ではどうすることもできない。
「何を難しく考えている。」
ご主人様はそう言って、さらに魔力密度を上昇させた。
真の時間停止空間。その中にいるはずなのに、ご主人様の魔力は動いている。止まった世界の中で、この方の力だけが流れている。
魔力すらも動かせないはずの空間で、それを無理やりに動かす。
……異常な力だと思った。
ゆっくりとだが、確実に、静止しようとする魔力が動いていくのを感じる。凍りついた大気が、ご主人様の手の周りだけ、わずかに揺らいでいた。
「一体、何を……。」
真の時間停止空間を超えると、一体どうなってしまうのだろうか。
まだ見ぬ世界を前に、私は気を張り詰める。
「壊れてしまったのなら、戻せば良いのだ。」
「しかし先ほども申し上げたように、技術が……。」
カン。
金属がぶつかる音が聞こえた。
……なぜこの世界で、金属音が?
全てが止まっている空間だ。音が鳴るはずがない。空気の振動すら凍りついているのだから。
「もっと単純な話だ。」
カン、コン。
徐々に金属音が増えていく。規則的な、しかしどこか有機的なリズムで。音の鳴る方を見ると、そこにはぼろぼろになったコトアルの体があった。
ま、まさか……。
えぐれた腹部の装甲が、ゆっくりと元の形に戻っていく。露出した回路が引っ込み、引き裂かれた合金の表面が滑らかに接合されていく。潰れた左足が膨らみ、正しい形状を取り戻していく。
「時間遡行魔法……ですか!?」
時間は戻せない。
それがこの世界の絶対普遍のルールだ。エネルギーは不可逆であり、壊れたものは壊れたまま、失われたものは失われたまま。
時間遡行の際に必要な魔力密度は、想像をはるかに超えている。例え神であっても不可能だと聞いたことがある。私は霊族として長い時間を生きてきたが、時間が逆行する現象を目撃したのはこれが初めてだった。
「そ、そんな……。」
コトアルが形成されていく。いや、元に戻っていく。
見るも無残な姿から、見慣れた姿へと。
カン、コンという金属音は絶え間なく響いていた。それはまるで、太古の人間たちがコトアルを組み上げた時の音のようだった。数百年前の工房で、創造主たちが一つ一つの部品を丁寧に嵌め込んでいった時の音。
時間が、戻っている。
この場所だけ、時間が逆方向に流れている。
「不自由。それは私の最も嫌いな言葉だ。」
ご主人様がそう呟いた時、コトアルは美しい体でそこに横たわっていた。
古代合金の装甲は、傷ひとつなく元通りになっていた。回路は内部に正しく収まり、関節は滑らかに連結されている。あの虹彩の周りで光が動く美しい瞳も、閉じた瞼の裏で復元されているのだろう。
完璧だ。
太古の人間が組み上げた時と同じ状態に、完全に戻っている。
「世界が決めたルールなど、破るに限る。」
ご主人様はそう言い放った。
時間遡行は止まり、空間は真の時間停止空間へと戻る。そこからさらに、凍りついていた魔力が活動を始めた。ゆっくりと、しかし確実に。ただの時間停止空間へと戻ろうとしている。
世界が、動き始める。
凍りついていた空気が震え、止まっていた雲が流れ出す。遠くで、メイドたちの気配が戻ってくるのを感じた。ご主人様は、動き始めたメイドたちと、そして目の前に浮かぶ邪悪な存在へと、言葉を紡いだ。
「私はジラルド・マークレイブ・フォン・グルンレイド。私が望んだものは全て手に入れる。」
その声は静かだった。しかしその静けさの奥に、この世界のルールすら覆す意志が込められていた。
「たとえそれが、世界を変えるほどのことだとしても。」
コトアルの体は元に戻った。
あとは魂だ。
私は振り返ることなく、霊界への道を開くための準備を始めた。急がなければ。コトアルの魂が消える前に、この完璧な体と繋げなければ。




