天界9
コトアルの魂は、確かにここにある。
魂の温度こそあまりないが、触れることができる。これは紛れもなく、コトアルの魂がそこに存在しているということだ。しかし、この温もりは長くは続かない。
マークの聖力とヴィオラの神眼の力によって、コトアルは一時的に人間のような存在となっている。だがそれは文字通り一時的なもの。力が薄れるにつれて、コトアルの魂はこの霊界からも消えてしまうだろう。
時間がない。だが、肉体さえあれば。
問題は、私がどうやってコトアルの体を見つけるか、だ。
コトアルの魂をこのまま抱えて天界へ連れて行くことはできない。霊族でないコトアルを魂のまま天界まで運んでしまえば、世界の流れに捕まってしまう。魂というものは本来、肉体から離れた瞬間に霊界へ引き寄せられる性質を持っている。今はこの霊界の中にいるから安定しているが、外に出した途端に再び霊界へ送り返されてしまうだろう。
私一人で行くしかない。コトアルの体を見つけて、一瞬で体へと押し込む。
「コトアル。」
「はい。」
「私が戻るまで、ここにいて。絶対に動かないで。」
「……わかりました。」
コトアルの偽物の瞳が、こちらを見つめていた。いや、今この場所にいるのは魂だ。体はない。あの光学センサーもない。それなのに、こちらを見つめているという感覚がある。
「すぐ戻るから。」
私はコトアルの手を離した。振り返らずに、霊界から天界へと移動する。
「ヨグ・ソトース。」
空間が歪み、私の体が白い光に包まれた。
天界に出た瞬間、私は周囲の気配を探った。
コトアルの体を見つけなければならない。感知魔法を全方位に展開する。
……予想通り、反応がない。コトアルの体は機械だ。いくらそれを探ろうとしても無機質は無機質。反応するはずがない。
まずい。このままでは時間だけが過ぎていく。考えろ。コトアルの体を直接感知できないなら、別の方法を探すしかない。一番強いエネルギーを発している場所。つまり誰かに聞く。今この天界で最も大きな力を放っているのは――。
「マーク!」
私はマークの前に降り立った。
「ミ、ミクトラ!コトアルは、コトアルはどうなっている!」
マークが叫んだ。……驚いた。あのいつも軽口を叩いて余裕そうにしているマークが、こんなにも取り乱している姿は初めて見た。その横で、ヴィオラがマークの腕を掴んで必死に支えていた。
「ご主人様、落ち着いてください!」
ヴィオラもまた、いつもの凛とした態度が崩れかけている。しかしマークを支えるという役目だけは決して手放さない。さすがだと思った。
きっとマークは、自身が与えた聖力の反応がこの世界から消えたことに気づいたのだ。コトアルの体が破壊され、マークの聖力が反応を失った。それはマークにとって、自分が託した力が消えたことを意味する。そしてその力を受け取った存在も――。
だがコトアルは、まだ消えていない。マークの聖力は霊界に存在している。コトアルの魂とともに。
「マーク、コトアルはまだ生きている。」
私ははっきりとそう告げた。
「ほ、本当か!」
マークの顔に、わずかだが色が戻る。
「ですが、このままでは完全に消滅してしまいます。」
「ど、どうすればいいんだ。」
マークの声が震えていた。勇者という称号を持ち、四天王をも圧倒する力を持つこの男が、一人のメイドのためにここまで動揺している。
「コトアルの体さえ見つかれば……。どこにあるか知ってる?」
「神殿だろう。コトアルが最後に向かった場所だ。」
マークの声に、先ほどの震えはもうなかった。やるべきことが見えた瞬間に、勇者の顔が戻る。
「俺も向かう。お前らは……。」
マークが後ろを振り返りかけた時、三人のメイドが一斉に口を開いた。
「もちろんご一緒に。」
カルメラが前に出て、静かにそう言った。ハーヴェストもヴィオラも、同時に頭を下げていた。
マークは一瞬だけ三人の顔を見渡し、それ以上何も言わなかった。言う必要がなかったのだ。
「こっちだ。」
マークが先行する。その背中には先ほどまでの動揺の名残はもうない。ただ真っ直ぐに、神殿を目指して走り出していた。
ヴィオラが即座にマークの隣に並び、カルメラとハーヴェストがその後方を固める。統率のとれた動きだ。マークが前を向いてさえいれば、このパーティは崩れない。
私もその後をついていく。
--
ーーイリスーー
「コトアルは……どうなったんですか!」
ご主人様にそう問いかけた。しかし、返事はない。
「ご主人様!」
目の前にある光景を見れば、一目瞭然だった。
コトアルの体が、広間の端に横たわっていた。
腹部はえぐられ、左足は原型を留めていない。古代合金で構成されているはずの装甲が、紙のように引き裂かれている。あの精緻な回路が露出し、かつて光を宿していた瞳は暗く、何も映していなかった。
ただ、私は信じたくないのだ。
私と同じグルンレイドのメイドが、この世から消えたということを。コトアルとは多く言葉を交わしたわけではない。同じグルンレイドに身を置く者として、こんな形で失われることを、受け入れることなどできない。
「この状況では生きておらんだろうな。」
邪神が、淡々とそう言った。
広間の奥に浮かぶ世界の輪の光を背に、その存在は玉座の前に立っていた。戦闘の痕跡が壁や床に刻まれているが、邪神自身はすでにほぼ完全に修復されている。
「……黙れ。」
小さな声がした。
メアリーさんだった。
「メアリーさん、ご主人様の指示を……」
私は慌てて声をかけた。今ここで感情的に動くのは危険だ。ご主人様の判断を仰いで、組織的に行動すべきだ。しかし、私の言葉はメアリーさんの耳には届いていないようだった。
メアリーさんの周囲の魔力が、異常な速度で膨れ上がっていくのを感じる。
普段のメアリーさんは、おとなしい。小さな体に似合わない莫大な魔力を持て余し気味で、どちらかといえば控えめな性格だ。自分の魔法が暴走してしまうことを常に心配している、心優しい子だと思っていた。
だが今、目の前にいるメアリーさんは、私の知っているメアリーさんとは違う。
黒い髪が魔力の風に煽られ、逆立つように舞い上がっている。瞳には怒りの炎が宿り、その小さな唇は固く引き結ばれていた。
「我の神撃を受けて、まだ原型をとどめているとは。これを作った者のおかげだろう。だが、けじめはつけなくてはいけないな。」
邪神の周囲に、再び聖力が集まり始めた。あの光の槍。光速を超える速度で襲いかかってくる、必殺の一撃。
「グングニル。」
「黙れと言っている!!エアヴェール・絶唱!」
メアリーさんが飛び出した。
小さな体が宙を舞い、コトアルの前に立ちはだかる。展開された空気の層は絶唱によって極限まで増幅され、壁のように広間の半分を覆った。
光の槍が、その壁に激突する。衝撃が広間を揺るがした。しかし、メアリーさんの障壁は持ちこたえた。
「今更守っても、もう遅いだろうに。」
「これ以上、お前の聖力に触れさせたくない!」
メアリーさんの声は震えていた。しかしそれは恐怖による震えではなく、怒りによる震えだった。
マリー・ローズとして、これ以上の愚行を許すわけにはいかないという気迫が、その声の奥から伝わってくる。普段の気だるげなメアリーさんからは想像もつかない、激しい感情。
「そうか、ならば守ってみろ。グングニル。」
「フリーズサイクロン・絶唱!」
ドンという轟音とともに、二つのエネルギーが正面からぶつかり合い、爆散した。凄まじい衝撃波が広間を駆け抜ける。周囲を見渡すと、ところどころの空間が歪んでいた。次元の壁にひびが入るような、異常な光景だ。
「イリス、私のそばを離れるな。」
ご主人様の声が聞こえた。
「は、はい!」
ご主人様の魔力障壁の中に身を寄せる。ご主人様のおかげで私は無事だった。本来であれば私がご主人様を守らなければいけないのに、逆に守られてしまっている。その事実に心が痛む。しかし今の私では、あの爆散の余波に耐えることはできなかっただろう。
「コトアルに攻撃はさせない。」
メアリーさんが宣言した。コトアルの前に立ちはだかったまま、両手を前に突き出している。
「だからもう動かないガラクタだと言っている。何をそんなに怒っている。」
「コトアルの意思を、馬鹿にしないで!」
メアリーさんの叫びが広間に響いた。
「馬鹿になどしていない。敬意も払っていないがな。」
その言葉で、私は理解した。
この存在は正真正銘の災害だ。この行為に何の意思も介入していない。何も考えてはいないのだ。壊すべきものを壊す。倒すべきものを倒す。それは嵐が木を薙ぎ倒すのと同じ、自然現象のような行為。怒りも悲しみも喜びもない。ただ、そこにあるものを壊していく。
そんな存在に、メアリーさんは感情をぶつけている。それがどれほど虚しいことか、メアリーさん自身もわかっているはずだ。それでも止められないのだろう。コトアルの姿を見てしまったのだから。
「ホーリー……」
「セイントバニッシュルーム・絶唱!」
メアリーさんの魔法が発動すると、周囲の聖力が一斉に拡散されていった。邪神が構築しかけていた聖法が、内側から崩壊する。強制解除だ。
聖法を拡散魔法で崩すというのは、本来不可能に近い。魔法で聖法に干渉するには、相手の聖力を大幅に上回る魔力密度が必要だ。メアリーさんの絶唱だからこそ成立している芸当だった。
「この程度で、止まると思うな!ホーリースピア!」
「なっ!」
拡散の影響下にありながら、邪神は聖法を放ってきた。光の槍がメアリーさんの脇腹をかすめる。メイド服の生地が裂け、そこから赤い血が滲んだ。
この拡散率の中であの威力を出せるのは、異常としか言いようがない。
「セイントアロー!」
「エアヴェール・絶唱!」
メアリーさんの空気の壁がセイントアローを受け止めた。完全には防げない。しかし数秒の拮抗が生まれ、その間にメアリーさんは体をずらして軌道から逃れていた。的確な判断だ。
「ファイアーアロー・絶唱!」
メアリーさんの反撃。炎の矢が広間を焼きながら邪神へ殺到する。
「ぐっ……なかなかの攻撃力よ。」
邪神はメアリーさんの魔法を受けてなお、しゃべる余裕がある。邪神とは、私が思う以上の最強にして最悪の存在なのかもしれない。
「はぁ、はぁ、アイスロック・絶唱!」
透明の氷が邪神を包み込む。一瞬にして凍結された邪神の体が、氷の棺の中に閉じ込められた。
しかし、落ちない。
氷の表面に、ゆっくりとひびが入っていく。内側から聖力が溢れ出し、一枚、また一枚と剥がれ落ちる。そして邪神は氷を砕き、平然とそこに立っていた。
「この威力……貴様、我のもとへ来る気はないか?世界にまき散らす災害として、その力は大いに使える。」
「断る!」
「そうか、残念だ。これほどの存在をここで消すことになるとはな。」
神撃。
そう聞こえた。
光速を超えるエネルギー体が、メアリーさんに向かっていく。
もう間に合わない。私がどれだけ叫んでも、防御聖法を唱えても、あの速度には。
その瞬間。
「華流・剪定。」
時が止まったかのように、全てのエネルギー体が消失した。
邪神の放った聖法。メアリーさんの魔法障壁。そしてご主人様の魔法障壁までも。ありとあらゆるエネルギーが、一瞬のうちに拡散され、霧のように消えていった。
広間が静寂に包まれる。
空間の歪みから、一人の人物が姿を現した。
「……スカーレット様!」
純白の髪。澄んだ瞳。手には抜き身の剣。
スカーレット様は剣先を軽く振って残留エネルギーを払い、広間を見渡した。空間の歪みからアシュリーさん、ヴァイオレットさん、メルテが続いて出てくる。
三人はまず、床に横たわるコトアルの姿を確認した。それからご主人様の視線の先――すなわち邪神の方を向く。
「あなたがやったのかしら?」
スカーレット様が、静かに問いかけた。
「いかにも。」
その返答を聞いた瞬間、スカーレット様は剣に手をかけた。殺意ではなかった。それよりもっと冷たい、純粋な戦闘意思。グルンレイドに仇為す存在を前にした時の、あの方特有の静かな凶器のような気配。
「待ちなさいスカーレット。ご主人様の判断が先です。」
イザベラ様の声がした。
「……かしこまりました。」
スカーレット様は、静かに剣から手を離した。
「メアリーも下がりなさい。」
「……申し訳ありません。」
メアリーさんも冷静さを取り戻したようで、ゆっくりとこちらへ下がってくる。脇腹の傷はまだ血が滲んでいたが、致命的なものではなかった。私はすぐに回復聖法をかける。
「ご主人様、どうされますか。」
イザベラ様がご主人様に問いかけた。
「うむ。」
その一言が発せられると、広間の空気が一変した。張り詰めた糸のような緊張が全員を包む。邪神ですら、ご主人様が次に発する言葉を待っているようだった。
ご主人様は、ゆっくりと口を開いた。
「コトアルは機械だ。回復魔法をいくら使おうとも、動くことはないだろう。」
その言葉に、広間にいる全員が息を呑んだ。
「だが、コトアルの魂を私は感じる。まだ、死んではいない。」
機械であるコトアルに、魂が存在しているとご主人様はおっしゃっている。ご主人様はそのまま歩き出し、ぼろぼろになったコトアルのもとへ向かった。
「だが体はこの状態だ。太古の人間でなければ復元できないだろう。」
確かにその通りだ。太古の人間たちはその知識とともに歴史の中に消えていった。古代合金を精製する技術、マシニング族の回路を構築する技術。それらはもうこの時代には存在しない。コトアルの体を修復する術は、どこにもない。
「ただ。」
ご主人様の周りに、魔力が集まっていく。
「それは一般論に過ぎない。」
さらに魔力密度が上昇した。空間そのものが振動し始める。これは……タイムストップ。時空間魔法を唱えた時と同じ、あの空間の歪みだ。
しかし、ここにいる全ての存在はメルテを含めて、この空間に干渉できる実力を持っている。普通の時間停止であれば、私たちの動きは止まらない。
「私の名はジラルド・マークレイブ・フォン・グルンレイド。」
ただ、ご主人様の魔力密度は留まらなかった。
通常の時間停止を超え、さらに上昇する。魔力や聖力などのエネルギー体ですらも活動することが許されない、絶対的な静止の領域。
真の時間停止空間。
その名を、私は知っている。理論上は可能。しかしそれを実現できるほどの魔力密度は、この世界のどこにも存在しないとされていた。元四天王であった私でさえ、その概念を知っているだけで、実際に目にしたことはなかった。
それが今、目の前で展開されている。
意識が薄れ始めた。
体が動かない。思考が鈍化する。魔力も聖力も、この空間では凍りついている。
私の聖力をもってしても、この空間に意識を保つことはできなかった。元四天王であっても無理だ。この空間で意識を保てるとすれば、それは神と同等以上の力を持つ存在だけだろう。
薄れゆく視界の中で、私はただ一つのことだけを見ていた。
ご主人様がコトアルに触れている。
その手から、信じられないほどの魔力が流れ出している。
何が起きようとしているのか、理解する前に――
私の意識は、静かに途絶えた。




