第三十五章 気持ちと言葉―1
「――ありえない!」
デン!と強く机に手を叩きつけて大声を上げてみる。
「……ビックリした… どうしたの? 神戸ちゃん」
一瞬で我に返る。
声のする方を見返すと、深山さんが不思議そうにあたしを見ている。
慌てて周囲を見回してみる。
目に写るのは見慣れた職場の事務所の壁。
――ああ、やっちゃった…
ついついトリップしちゃったよ。
今は現実。
あたしは有里。
ここは有里の現実世界――もう、夢じゃないんだぞ!
「す、すみません!すみません!」
お願いですからスルーして。
「お疲れなんじゃありませんか? この頃、残業続きですし」
はい、お茶です。
そう言って、
マイカップに緑茶を入れて、さしだしてくれたのはよーこちゃん。
「あ、ありがと…」
いただきます。
ずず~っ…とあったかいお茶を一口啜りあげる。
ああ美味しい…
いつもながら、よーこちゃんの入れるお茶は美味しいよね。
あたしが入れても、なんでかこうはならないのに。
日本茶の少し苦い甘みに、心が落ちついてくるのがわかる。
うわ、ヤバいな~
思った以上に、あたしキてる。
まさか職場で考えこむほど、だったなんて――
まあ、当然といえば、当然だ。
昨夜、夢の世界で聞いた話は
それほどのインパクトをあたしの中にもたらした。
ゆっくりと立ちのぼる湯気の中、
昨夜の会話が、浮かび上がってくるのを止められない。
『――おい、ユーリ、知ってるか?』
両手一杯の書類を抱えて、
一の郭の詰所から隊舎へ戻ろうとしていたユーリに声をかけてきたのは、
一の郭の門番のルースさん。
年は確か、二十三とかって言ってたっけ。
お使いで走り回っているユーリの事を、
結構普通に可愛がってくれている気のいいお兄さん。
ルースさんがその時教えてくれたことは、
ユーリだけじゃなくて、
一緒に聞いてたあたしまでを吹っ飛ばした。
――第二騎士団長に、謀反の疑いあり。
「――だ~から、有り得ないって!」
「ひえっ!」
ドン!と、ひときわ大きく鳴った机に、横に居た陽子ちゃんの声が被る。
「うわっ!ご、ごめん!
びっくりした? 怪我、ない?」
思わず焦ってしまう。
だって、陽子ちゃんてば、手に持ってた自分の湯呑、
ひっくり返しちゃってるんだもの。
慌ててハンカチを引っ張り出して陽子ちゃんの手を拭う。
「だいじょうぶ、です。
少しかかっちゃいましたけど、そんなに熱くなかったです」
にっこり笑って言ってくれる。
陽子ちゃん…
ああもう、
本当に良い子だね…
「ホントにごめん。一応冷やしといて。跡になったりしたら大変だから」
握った陽子ちゃんの手を、
そのまま備え付けの流しに引っ張って流水に押し込んで。
お湯がそれほど熱くなかったことに安堵しながら、
常備してある机拭きで、
濡れてしまった陽子ちゃんの机やら、ペンやらを拭っていく。
どうやら濡れて困るものもなかったみたい。
ホッとしながら思いっきり自分に駄目だし。
いい加減にしな、神戸有里。
とどかない世界のことを、現実で引きずってどうする。
何もできない。
どうしようもないことで、仕事に支障をきたすんじゃない。
しっかりしろ。あたし。
こんなことでどうする。
こんなに気持ちの切り替えができないなんて……
机を拭っていた手が自然に止まる。
そんなあたしを横目で見ていた深山さんが、
何気ない風を装って声をかけてきたのは、
もう一度陽子ちゃんに謝って、
あたしと彼女が、入れ直したお茶で一息つきかけた時。
「ねえ、神戸ちゃん」
「はい」
「大変だったみたいね」
「はい?」
「色々あったんでしょ?」
「?」
――色々?
「ついに、できちゃったの? 山本センセと」
ぶーっ!
あたしはお茶を、思いっきり噴き出した。
「で、でき…?」
できちゃったって、
なにがです!?
「なんでそこで、剛史の名前が出てくるんですか!?」
「え~? だって~
色々面白い事があったって聞いてるもん」
「面白いことって、」
「一カ月ほど前」
「は?」
「この前の、
あなたの、お・見・合・い」
ドガン!
古い…古すぎる…
いつのネタだ、それは。
「……聞きたくありませんが、情報源はどちらです…?」
「もちろん晶先輩!」
母上様… あんた、いつまで娘で遊ぶ気ですか…
…ハートマーク、語尾についてますよ、深山さん…
「――別段、これと言って面白いことなんざありません。
ふつーにお見合いして、ふつーに帰ってきました」
うん。思いっきり、ふつーだったよね。
「え~~~? だって、山本センセが大立回りしたって聞いたよ~」
ビバっ、略奪愛!
「なま『卒業』?」
…そのたとえ、古すぎるでしょう。
いや、あの映画は名作だとは思いますが。
「うわ~!
山本先生、神戸さんのお見合いに乗り込んじゃったりしたんですか~?」
情熱的~~~~
――そこ! 変なことで喜ばない!
「よーこちゃん。
変な誤解、しないように。
深山さんも、あたしの親のガセネタを本気にして突っ込まないでください。
大体、剛史は大立ち回りなんぞしてません」
確かに、呼ばれもしないのにやってきて、
人の会話に割り込んできたりはしたけどさ。
色々とひっかきまわしてはくれたけど。
でも、あれって、大立ち回りどころか、道化役?
むしろ、キレイにカレイにスルーされてなかったか?
「…ご期待に添えず大変申し訳ありませんが、
お二人が喜ぶような、劇的な要素はこれっぽっちもありませんでした」
ついでに、まだまだ嫁にも行けません。
「でも、さっき、叫んでたでしょ?」
思いっきり言ってたじゃない。ありえないって。
「……だからそれは、全然見合いとは、関係なくてですね。
大体、見合いってどれだけ前の話ですか。
解決した事例は、既にまとめてフォルダに入っちゃってます。
今さら何も、報告するような面白いものありません」
西條さんとの密約が、このお二人方にばれるのは絶対絶対阻止したい。
「じゃあ、さっきの叫びは、いったいな~に?」
「……そのあたりは、ノーコメントで」
どっかの芸能人じゃないけどね。
この際だから逃げますよ、あたくしは。
途端に響く、妙にテンションの深山さんのお声。
「ええ~~~!!? ずるい~~~!!
教えてくれたっていいじゃない!!」
ねえ、よーこちゃん。
――そこ、よーこちゃんに話をふるな!
「はい!」
よーこちゃんも答えるな!
これがいつものここのテンションだって
わかっちゃいるんだけれどね。
今日は無理。
今日のあたしは付いて行く気力がございません…
「…もう、お昼休みですね…先行ってきていいですか…?」
「あら、逃げるの?」
――深山さん。
逃げちゃいけませんか?
あたしは小心者なんです。
なんだかこの後が怖いようなお声ですけれど、
この際、思いっきり無視させてやってください。
「はいはい。わかったわよ。そんな顔しないの」
深山さんと一瞬だけ目線が合わさる。
その途端、深山さんは何とも言えないお姉さんの表情になって、
ふふっと笑った。
「ちゃんとご飯食べてくるのよ。
そんな顔、神戸ちゃんには似合わないんだから」
きっと、思いっきり情けない顔してるんだろな。
見返した深山さんが、何もかもわかってるみたいに見えたから、
そのまま無言で頭を下げた。
パタン…
静かに事務所の扉を閉めて。
そのまま少しだけ考える。
まっすぐ食堂へ行こうと思ってたけど、
この精神状態じゃご飯を楽しむどころじゃないみたい。
少し気分を変えたくてあたしは足の向きを変える。
パタ、パタ、パタ…
サンダルの軽い足音が人気のない階段に響いて。
ぎぎぎ…
行き着いた先、金属製の扉が軋んだ音を立てて開く。
流れ込んでくる外気。
少し錆びた手すり。
旧館の屋上――ここには滅多に誰もこない。
職員以外立ち入り禁止のエリアからしか入れない事もあって、
一人になりたい時には、もってこいの場所。
三階建の屋上、
少しだけ周囲より目線の高い位置にある手すりにもたれて。
「ありえない…」
どう考えたって、その言葉しか出てこない。
その思いだけがあたしの中に湧き上がる。
――第二騎士団に謀反の疑いあり。
『え…え? あの?』
あの時、あたしの代わりに出るべきはずの、
ユーリの声が言葉になってでなかった。
『やっぱりな~
お前の様子から、知っちゃいないとは思ってたんだか…』
その様子に、ルースさんはうんうんと、わかったふうにうなずいて。
そこ、そんな落ち着いてる場合じゃない。
『あ、あいえないでしょう!そんなこと!』
――あ。やっと言葉になった。
思いっきりの大声で叫ぶように言いきったユーリに、
あたしは心から同意した。
これはもう、知ってるとか知らないとかそういったレベルの話ではなくて。
ありえない――というか、
それこそ、天と地がひっくり返ってもおこらないってくらい、
突拍子のなさ過ぎる話。
『まあ、そう言いたいお前の気持もわかるがな』
お前、第二の団長にも、結構可愛がられてたもんな。
どこか痛ましげにユーリを見てくるルースさんの顔には、
からかってるとか、嘘を言ってるとか、
そういった嫌な雰囲気はまるでない。
『残念ながら、結構、真面目な話でな』
そう言って、ルースさんが静かに語って聞かせてくれたそれは――
――第二騎士団の様子がおかしい。
その言葉が囁かれるようになったのは、いつの頃からだったのか。
常に開かれていた隊舎の門が、
まるでその内部を隠すように閉じられていることが多くなった。
気さくだった団員達の顔立ちが、どこかよそよそしくこわばってきた。
周辺を含め、その警備が恐ろしいくらいに強化されている。
早馬が頻繁に出入りする。
最初は、どこかの国とトラブルでも起こって、
もうすぐ戦でも起きるんじゃないかというような噂だったらしい。
確かに、そう考えるのがまっとうだし、普通ならその通りだっただろう。
しかし、それが、いつの間にか別の意図をもって語られるようになる。
『国王からの使者を追い返した』
『糧食の備蓄を始めたらしい』
『隣国の使者が頻繁に出入りしている』
なぜ、そんな風に噂が変質していったのか。
誰も分からないままだったというけれど。
『もともと、第二の団長は、貴族との折り合いが悪かった』
『どこそこの王族と、仲たがいをしたらしい』
『国王の前で、暴言を吐いた』
もう、ここまで来たら、
正しいか正しくないか
きっとそんな事は二の次になっていってしまっている。
『第二騎士団団長、ガイ・ヒューバーに謀反の兆しあり』
知らず知らずのうちに噂は変質していく。
「――悪質すぎる…」
冷たい北風に髪を煽られながら、
あたしは消えそうな声で呟いてみる。
現実の中、あたしはきちんとここにいるのに、
あっちの世界の出来事に、これほどまでに引きずられる。
まだまだ寒い季節の中、体は冷えてきてるのに、
頭の中はのぼせたままに熱くなる。
気持ちが、思考がどうやっても落ち着けない。
噂は噂だ。
それが真実が真実でないかは、
流している人間にもきっとわかっていないだろう。
一度立てられた噂は、消えない。
はっきりとした形で、完全に否定されるまで。
ましてや、テレビもインターネットもないあの世界では、
噂、それこそが情報源になる。
むしろ、何も知らされることのない人たちは
微かな違和感に、噂の影を重ねてしまう。
けれど――
「…ない…」
反逆。
なによりも、忌み嫌われる行為。
あんな不名誉な噂。
ガイにとって致命傷になりかねない。
栄光ある第二騎士団の団長。
剣の腕は比類なく、その勇猛さゆえ、ソレニアの両輪と謳われた騎士。
ガイが受ける賞賛が増えれば増えるほど、
それをねたむ者が表れるのは当たり前で。
ただでさえ、貴族出身ではないってことで、
一部の上層部からの反発があると聞いている。
根も葉もないこんなこと、声高に言い立てられたら――
ガイの顔が浮かぶ。
その闊達な笑みを見たのは、そんなに昔の話じゃない。
――おい、坊主。
笑いかけてくれたガイの顔には、
いつもと変わらない明るさがあったのに。
――なあ、あれ、ガイ・ヒューバーだろ?
思い出したのはあの時、ユーリを呼びとめた男の声。
少しの怯えと隠しきれない嫌悪と――
あの時から、
噂は始まっていたんだろうか。
無意識に親指の爪を噛む。
冷静に、冷静に。
心の中で、誰かが呟いているのに、
あたしはそれに耳を貸せない。
だって、あたしはそこにいるから。
夢はあたしの、もう一つの世界なんだもの。
こうして、二つの世界の行き来できるから、
あたしには考える時間がある。
誰にも邪魔されずに、考えをまとめる時間がある。
その考えを、ユーリに伝えられるなら――
ユーリ。
もう一人の夢の中のあたし。
夢の中で、あたしの感覚も記憶もユーリと一つなのに、
ユーリはやっぱりあたしではない。
今、ユーリが持つ動揺と、
あたしが考える不安とはいっしょじゃない。
ユーリは、その真っ直ぐな心根のまま、
ガイを、また周囲をも信じようとしている。
こんな噂はすぐに潰える。
すぐに元の王都に戻ると。
けれど、
あたしはそんな風には思えない。
ガイを信じてる――
けれど、噂の怖さも、
あたしは知っている。
何か起こっている。
何かが変わろうとしている。
あたしの夢の世界が、
優しい夢として終わらなくなっている――
「――おい」
「え?」
掛けられた声に振り向くと、目の前にポン!と何かが降ってくる。
反射的にそれを受け取って――
「た、たけし?」
眼前にいきなり現れた見慣れた姿に驚く。
――なんで…?
なんでいつも、
こんなところにいるの?




