第9話 お互いの隠しごと(一)
暑くも寒くもない、過ごしやすい陽気の日、ロレッタは王都の高級商店が並ぶ通りへ買い物に出掛けていた。石畳を軽快に歩くロレッタに付き添うのはもちろん、ヴェスである。
「街を歩くのは久しぶりだわ! あら、なんだか香ばしい香りがするわね」
「ではお嬢様、匂いの元をお探しになりますか?」
誰に聞かれるかわからないので、ヴェスも仕方なく丁寧な口調で――しかし精一杯の皮肉を込めた冷ややかな声で問うと、気付かぬうちに浮き足立っていたロレッタはコホンと咳払いした。
「何言っているの、そんなことしないわ。予定通り、トレイシーの好きなチョコレート専門店と紅茶の専門店に行くのよ。早く案内してちょうだい」
「……かしこまりました」
復讐に燃える令嬢も結婚できる歳とはいえ、まだ十七歳。少女がようやく大人の女性の入り口に立ったような年頃だ。素直に行きたいところを言えば可愛げがあるのに、とヴェスは肩をすくめ、ツカツカとヒールの音を鳴らすロレッタの横を歩いた。
トレイシーの贔屓の店は、ヴェスが業者のふりをしてフロックハート邸に潜入した際に得た情報である。ロレッタ曰く社交の場で直接本人から聞いた情報では不足で、好きなものが偶然にも一緒だった、という運命を感じさせる演出が必要なのだという。
恋に恋する乙女のような甘酸っぱい努力を、好きでもなんでもない、でっぷりとした男のために惜しまないから滑稽だ。
「まあ、これチョコレートなの!? とっても綺麗だわ、まるで宝石みたい!」
なんだかんだ言って、本人も楽しんでいるようではあるが。
半眼で見守るヴェスの視線にロレッタはハッと気がつき、再びコホンと咳払いした。
「このショーケースにあるチョコレート、全種類ひとつずつ包んでちょうだい」
ロレッタがキリッと表情を引き締めて注文すると、店員は恭しく頭を下げてチョコレートを箱に詰め始めた。気配を消して立っていたヴェスが、後ろからそっと耳打ちする。
「……そんなに食べ切れるとお思いで?」
「一日で全部食べるなんて言ってないでしょう」
「あの子息はチョコレートにクソ甘いミルクティーを合わせるそうですよ」
「…………」
ヴェスがもたらす情報に、ロレッタの表情が一瞬、虚無になる。
ロレッタは甘いものをそれほど多くは食べない。見た目が可愛らしい菓子には惹かれるが、あくまで少量を無糖の紅茶と楽しむのが好きなのだ。ミルクティー用に取り寄せた紅茶の茶葉もあまり減っていないことをヴェスは知っている。
「別に嗜好が完全に合致しなくてもいいの。共感できるところがあればそれでいいのよ」
澄ました顔で切り返すロレッタに、ヴェスは「はいはいそうですか」と投げやりに答え、チョコレートが詰まった箱を主人に代わって受け取った。
◇◇◇
さらに紅茶専門店へと足を運び、買い物を終えたロレッタがランチの場所として選んだのは、レストランではなくテラス席のあるベーカリーだった。
「……意外と庶民的なんだな」
店の看板を見てぼそりと呟いたヴェスに、意気揚々と店に入ろうとしていたロレッタが振り返る。
「この店のサンドイッチはとびきり美味しいからいいの。ほら、貴方も食べるのよ」
「……仕事中ですので」
「なあに、わたくしに一人で食事しろというの?」
「それなら普段も――」
ヴェスはこぼした言葉の続きを飲み込んだ。
執事を含め、使用人が屋敷の主人と一緒に食事をすることはない。家族のいないロレッタの食事はいつも一人だ。話し相手として執事長のティルソンがそばに控えているが、食堂にはいつもロレッタ一人分のカトラリーの音が響いている。
両親が生きていた頃の食事風景を、ヴェスは知らない。
「もうっ! わたくしがいいと言ったらいいのよ、早くこっちに来てメニューを選びなさい!」
「……かしこまりました」
これも仕事の一つだ、と自分を納得させて、ヴェスはロレッタの後に続いた。
大通りに面したテラス席に向かい合って座る。バゲットにローストビーフを挟んだサンドイッチを口に運ぼうとしたロレッタは、ヴェスの皿を見て手を止めた。
「そんな量で足りるの? 支払いのことは気にしなくていいと言ったはずだけど」
ヴェスの手元には一口サイズのサンドイッチ、それもハムとトマトが挟まっただけの、この店で最もシンプルなものだ。
「庶民は腹いっぱい食べたりしませんので。昼なんて食べなくても、なんらおかしくありませんから」
ヴェスの言う庶民、それが単純に平民を指す言葉ではないことにロレッタは気がついていた。貴族相手に商売する大商人だって、それこそこのベーカリーだって平民だが、食べ物に困っているとは思えない。
彼はおそらく、貧民街の出身。それも、最下層の。
今でこそ改善されたが、二十年ほど前までは貧民街の暮らしは相当に厳しいものだったらしい。
ロレッタは事務的にサンドイッチを口へ放り込むヴェスのほうへ身を乗り出して、声を潜めて尋ねた。
「どうしてお腹いっぱい食べないの? 貴方にはお金があったはずでしょう?」
「……安定した職ではありませんでしたので」
ヴェスは多くを語らないし、語りたがらない。お尋ね者の大泥棒という立場を考えれば当然だ。
だけどロレッタには、それがもどかしい。
口を尖らせたロレッタが、より一層声を落として尋ねた。
「孤児院に寄付をしていたというのは本当?」
途端、ヴェスはサンドイッチを喉を詰まらせた。二、三度むせてグラスの水を飲み干すと、ゼエハアと肩で息をする。
「それだけ動揺するってことは本当なのね」
「……それを、どこで」
ヴェスは恥ずかしがるような怒ったような、複雑な表情でロレッタを睨んだ。ロレッタはようやくサンドイッチを喰み、咀嚼して飲み込んでから平然と口を開く。
「ティルソンが調べてくれたわ。確証は取れなかったみたいだけれど、おそらくそうだろうって」
「あのジジイ、マジで何者なんだ……」
面が割れたはずはない。それなのに、下級貴族の執事に過ぎない年寄りが一体どんな情報網で調べ上げたのか。ヴェスはテーブルに両肘をつき、両手を組んだ上に額を乗せて項垂れる。
ロレッタは再びサンドイッチを持った手を止め、こてんと首を傾げた。
「どうして隠すの? やり方は褒められたものじゃないけれど立派なことじゃない。公表すれば、貴方は民衆のヒーローになれたわよ」
「それ、盗みのターゲットにされてた貴族のセリフか?」
ヴェスは顔を上げると頬杖をついて、大通りのほうを見遣った。
「……そんなの、ただの気まぐれだ。俺はヒーローなんかじゃない」
その目は何かを見ているわけではない。あの夜と同じ、何も映さない空虚な目だ。
口を開いたロレッタが言葉を発する前に、ヴェスは何事もなかったかのように姿勢を正した。
「お嬢様、お食事の手が止まっているようですが」
執事然とした、冷淡な口ぶりに一瞬で切り替わる。こうなるとヴェスはそれ以上口を割らない。
ロレッタは言いかけた言葉を飲み込んで、渋々と食事を再開した。




